たったひとつの…


「明日はクリスマスだ」
 いつものように、束の間の行為を終えて。
 自分だけ満足して、出て行こうとした壱哉がふと、足を止めてそう言った。
「そうなんだ」
 答えたけれど、実のところ、別に何の感情も湧かなかった。
 明日がどんな日であろうと、もう意味なんかない。
 壱哉が来てくれるかどうか。
 樋口にとっては、それだけが意味のある時間になってしまっているのだから。
 そんな樋口の気持ちを知ってか知らずか、壱哉は言葉を続けた。
「クリスマス、と言うのはどんな奴にも祝福が与えられる日らしいからな。‥‥ひとつだけ、お前の望みを聞いてやろう」
「‥‥‥え」
 言われた意味が、一瞬判らなかった。
「何がほしい?自由がほしいか?」
 からかうような壱哉の言葉に、ゆっくりとその意味が頭の中で形を取った。
 欲しいもの。
 今、一番望むものは‥‥‥。
「じゃあ‥‥俺、黒崎がほしい」
「なに?」
「一日だけ‥‥黒崎が、ほしい」
 怪訝そうに目を見開く壱哉に、樋口はもう一度、はっきりした言葉で告げた。
「ふん。今日だって抱かせてやったろう?」
 面白くなさそうに、壱哉が鼻を鳴らした。
「そうじゃなくて‥‥一日、ううん、半日でも、一時間でもいいから。俺の‥‥ものに、なってほしい」
 しばし、不審げに樋口を見ていた壱哉は、じきに嘲るような表情を浮かべた。
「なるほど?俺に仕返しでもしたい訳か」
「‥‥‥‥‥」
 違う。そんな意味じゃない。
 けれど、そう捻じ曲げて取られても、壱哉が頷いてくれるなら構わなかった。
「もう、『好き』とか言わないから。黒崎が嫌がること、絶対やらないから‥‥」
 だから、このたった一つの願いを聞いて欲しい。
 縋るように見上げた樋口を、壱哉は不機嫌な表情で見下ろす。
「そんな事は、ペットとして最低限の心得だろう。それもできないお前の出来が悪いんだ」
「‥‥‥‥‥‥」
 樋口は、黙って俯いた。
 わかっている。
 自分に、代わりに差し出せるものなど何もない。
 金で買われたこの身体の全ては、もう壱哉のものだ。
 触れられるだけで昂ぶってしまう身体も、浅ましく形を変えられたものも、時には太い玩具を入れられる事に慣れてしまった後ろの穴も。
 そして、この心さえ、常に壱哉の事しか考えられなくなってしまっているのだから。
「‥‥だめ‥‥なら、なにもいらない‥‥‥」
 樋口は、目を伏せたまま、疲れたように呟いた。
 今更自由なんかいらない。
 自由なんか与えられても、行くところなんかない。何もすることなんかない。
「‥‥‥まぁ、俺が『聞いてやる』と言ったんだからな。いいだろう」
 壱哉の答えが信じられなくて、思わず顔を上げた樋口は目を見開いてまじまじと見上げてしまった。
「明日は俺もオフだし、好きにさせてやる」
 さして面白くもなさそうに言った壱哉は、そのまま出て行こうとする。
「あ、黒崎‥‥!」
「なんだ」
 不機嫌そうに足を止めた壱哉に、樋口はある願いを口にした。
 途端、壱哉の表情が不快に歪む。
 明日の事は取り消しだ、そう言われるのを覚悟した。
 けれど壱哉は、何も答えないまま、ドアの向こうへと姿を消した―――。


 翌日‥‥と言っても、時計も窓もないこの部屋で時間の流れを知る術はないから、樋口が眠り、目を覚ましてからの事だが。
 別にする事もなく、うとうとと微睡んでいた樋口は、重い扉が開かれる音に目を覚ました。
 聞き慣れた足音を響かせて、長身の黒い影が入って来る。
「黒崎‥‥‥」
 樋口は、ベッドの支柱に寄りかかるようにしていた体を起こし、壱哉を見上げた。
 来てくれないかも知れない、そう思っていただけに、樋口は大きく目を見開き、これが夢ではない事を改めて確かめる。
「来て‥くれたんだ‥‥」
 樋口の呟きに、壱哉は不機嫌そうに唇を歪めた。
「嘘は、嫌いだからな。たとえ、出来の悪いペット相手でも、だ」
 壱哉は、冷たい口調で言い捨てる。
 それでも樋口は、壱哉が、自分の願いをちゃんと聞いてくれた事が嬉しかった。
「うん‥‥ありがとう」
 目を伏せて言う樋口を見る壱哉の表情は、更に不機嫌なものになる。
 壱哉は、樋口の首輪の後ろに手を回し、繋がれていた鎖を外す。
 そして壱哉は、持っていた小さな箱を樋口に放った。
「そいつが、お前の注文したものだ」
 壱哉は不機嫌な表情のまま、黒い上着を脱ぐと、無造作に片隅に放った。
 乱暴にネクタイを解き、上着の上に放り出す。
 そして壱哉は、一見しただけで高級品と判る腕時計を外し、ベッドの支柱に引っ掛けた。
 時計の針は、十二時を回る辺りを示していた。
 シャツの襟を緩め、ベッドに腰掛けた壱哉は、挑発するように口の端を上げた。
「今日が終わるまで、あと十二時間‥‥さて、俺をどうするつもりだ?」
 壱哉の口調は、どこか楽しそうにも聞こえたが、その目は笑っていない。
 目を伏せた樋口は、投げられた箱をゆっくりと開いた。
 その中には、樋口がしているのと同じ形の首輪が入っていた。
 しかし、その色は樋口とは違い、赤ではなく、濡れたような黒だった。
「これ‥‥黒崎に、してもいい?」
 首輪を握り締め、樋口は壱哉を見上げた。
「好きにしろ‥‥この時計が十二時を回るまで、お前のものでいてやる」
 壱哉は、投げやりに言ってベッドに横たわった。
「うん‥‥‥」
 樋口は、おずおずとベッドに這い上がると、壱哉を上から見下ろした。
 白い首筋に手を触れると、壱哉の体が小さく震える。
「黒崎‥‥昔から、首にさわられるの、嫌いだったよな‥‥」
 ましてや、その首に異物を巻かれるなど。
「そう思うなら、やめたらどうだ」
 壱哉は、尖った口調で言った。
「ごめん‥‥でも、今だけ‥‥‥」
 心から詫びながら、樋口は黒革の首輪をそっと壱哉の首に巻いた。
 金具を穴に通そうとする、その感触だけで壱哉の全身が震えるのが判る。
 プライドとか、そんなものではなく、何かもっと心の奥底にある深い傷のようなようなものを強く感じる。
「ごめん‥‥黒崎‥‥ごめん」
 詫びながら、樋口はそっと、本当にそっと壱哉の首に首輪をつけた。
 ワイシャツの襟を大きくはだけ、白い首に黒革の首輪が巻かれている様子は、酷く背徳的で、煽情的で。
 どくん、と樋口の心臓が跳ねる。
 昨日、壱哉との行為をして置いて良かったと思う。
 ずっと放って置かれた状態だったら、樋口は欲望に理性を忘れて獣のように求めていたろう。
 それを、なんとか欲望に流される事なく見ていられるのは、数度とは言え、欲望を放っていたおかげだった。
 小さく息を吐いた樋口は、宥めるように壱哉の頬に口付けた。
「‥‥お前の首輪、外してやろうか?今はお前が『ご主人様』なんだろう?」
 やや青ざめた壱哉の口元が、嘲笑を浮かべる。
「そんな‥‥‥」
「それとも、俺はお前の同類か?大きな犬が二匹、と言う訳だ」
 これは今までの仕返しなのだと、壱哉がそう思っているのであろう事は判っていた。
 それを承知で望んだ事だったけれど、でも、こんな言葉を投げられると、どうしようもなく胸が痛くなる。
「黒崎‥‥頼むから、今は、何も言わないで‥‥‥」
 哀願するように言う。
 その言葉を聞き入れてくれたのか、壱哉は口を噤み、樋口から視線を逸らして天井を眺める。
「黒崎‥‥‥」
 樋口は、抵抗しない壱哉を抱き竦めるようにして頬を摺り寄せる。
 左の胸に耳を当てると、確かな鼓動が伝わって来て。
 何故か、鼻の奥が熱くなる。
「好き‥‥黒崎‥‥‥」
 小さく囁く。
「‥‥‥『好き』とは、もう言わないんじゃなかったのか」
 乾いた声が降って来て、樋口は本当に泣きそうになる。
 今の、この僅かな時間を手に入れる為に、承知で捨てた言葉の重さが身に沁みる。
 唯一、自分の気持ちを表す事の出来た言葉を、二度と口には出来ないのだ。
「わかってる‥‥だから‥‥今で‥終わりに、するから‥‥‥」
 声が震えてしまったのが、自分でも判った。
「‥‥‥‥‥‥」
 黙り込んだ壱哉の顔を見ないようにして、樋口はその体を抱き締めた。
 こんな風に首輪を嵌めたからと言って、自分が壱哉と同じ場所に立てるとは思わなかった。
 壱哉は、こんな暗い場所にいる自分とは全く別の世界に生きているのだから。
 でも‥‥ほんの少しでもいい、壱哉との距離が近くなったのだと、そう思い込めれば。
 たとえ一時の幻想でも、大好きな壱哉をこの手にしているのだと、そう思い込めれば。
「好き‥‥大好き‥‥黒崎‥‥‥」
 壱哉が、この言葉を言われるのが大嫌いだと知ってはいたが、樋口は優しく、何度も囁いた。
 絶対に届かないのだと諦めながら、それでも、もう二度とない時間に、自分の気持ちを告げておきたかった。
 思わず腕に力が入ってしまっていたのか、壱哉が窮屈そうに身じろぎした。
「あ、ご、ごめん‥‥」
 慌てて力を緩めると、樋口の手から抜け出した壱哉は、それ以上の言葉を封じるように口付けて来た。
 壱哉にとって、樋口はただの『所有物』で、『出来の悪いペット』なのだから、こんな言葉を囁かれても不快にしか感じないのだろう。
 そう思いつつも、胸の奥がずきりと痛む。
 自分は、泣きそうな顔をしてしまっていたのだろうか。
 少し苛立たしげな顔をした壱哉が、もう一度口付けて来た。
「ん‥‥‥」
 条件反射のように口を開くと、暖かい舌が入り込んで来る。
 こんな風に、壱哉の方から口付けて来てくれたのは、もうどれくらいぶりの事だろう。
 それはいつだったのか忘れてしまうくらい前の事で、今は樋口が求めても、壱哉が応じてくれる事は殆どなくなっていた。
 壱哉にとって自分は、『口付ける』ような対象ではなく単なる『道具』なのだと、そう諦めていただけに、甘い唇に気が遠くなりそうな喜びと快感を感じる。
 丹念に口内を弄られ、樋口の頭は痺れたように霞み始めた。
 快楽を追う事に慣れてしまった樋口の体は、持ち主の意思に反して昂ぶり始める。
「ふっ、あ、だめ‥‥っ!」
 股間のものが固さを増したのを感じ、樋口は慌てて壱哉から逃れた。
「なんだ、嫌なのか?」
 からかうような壱哉の言葉に、目を逸らす。
「嫌なんかじゃないけど‥‥‥」
 嫌どころか、気持ちよくて何も判らなくなりそうだった。
 けれど、こうして快楽に溺れて壱哉にのめり込んだら、いつもと何も変わらない。
 体を繋いでいる間だけしか壱哉といられないのが嫌で、こんな事を言い出したと言うのに。
 性欲を満たすのではなく、もっと別の時間を壱哉と過ごしたかったはずなのに。
 この浅ましい体は、いとも簡単に樋口の気持ちを裏切るのだ。
「ふん‥‥どうせ、こんなザマではお前も辛いだろう?‥‥まぁ、俺がそう仕込んだんだがな」
「‥‥‥‥‥」
「今日は特別だ。気持ちよくしてやるよ」
 するりと体を入れ替えた壱哉は、衣服を脱ぎ捨てると、樋口を仰向けにさせ、躊躇いもなく股間に顔を寄せた。
「うぁ‥‥!」
 既に固くなり始めていたものが、熱く柔らかい口内に包み込まれる感触に、樋口は仰け反った。
 全裸に黒い革の首輪だけをつけて、樋口のものを咥えている姿は、本当に壱哉が奴隷に身を墜としてしまったような倒錯感を覚える。
 その姿を見ただけで、股間から腰に熱い感覚が突き上げる。
「ん、なんだ‥‥早いな?」
 樋口のものを口に含んだまま、壱哉がからかうように言った。
 その感触さえとてつもない刺激になって、樋口の目の奥に白い光が弾ける。
「あっ、あぁ‥‥!」
 頭を大きく仰け反らせ、樋口はあっさりと昇り詰めた。
 堪える間もなく、熱い欲望を壱哉の喉に叩きつける。
 大量の精を壱哉が飲み下したのを感じ、樋口は慌てて身を起こした。
「ご、ごめん、黒崎‥‥」
「まったく、相変わらず我慢ができない奴だな」
 呆れたように言われ、身が竦む。
 壱哉は、嬲るように樋口のものを扱き上げた。
「っ、あ‥‥!」
 ビクン、と全身を震わせ、樋口が高い声を上げた。
 一度達したにも関わらず、直接刺激を受けたものはまた固く張り詰める。
 先端を軽く爪で穿られただけで、溢れるように先走りが滲み出てくる。
 樋口の上に跨った壱哉は、手を添えるようにして樋口のものを後ろの窄まりに当てた。
 昨日も壱哉は樋口を受け入れていたから、多少慣らしただけで大丈夫なようだった。
「ん‥‥くっ」
 僅かに眉を寄せ、自分から欲望を受け入れて行く壱哉は酷く淫らに見えて、腰の辺りに熱い感覚が広がる。
「ここ‥だけは、使えるからな、お前は」
 熱い吐息と共に呟いて、壱哉はゆっくりと腰を上下させ始める。
 動きに合わせて微妙に締め付けも変えて来て、樋口の頭は熱い快感に覆われて行く。
 熱にぼやける頭の片隅に、泣きたいような諦めがよぎる。
 結局、自分は壱哉と、こんな関係しか結べないのか。
 壱哉が、樋口の身体にしか価値を見出していないのは判っていたけれど、樋口自身も、壱哉に欲望を注ぎ込む事しか考えられないのか。
 早くも限界に達しそうな身体に、自分の浅ましさを痛い程自覚させられる。
「あ‥っ‥‥黒崎‥‥っ!」
 気が遠くなりそうな快感を感じながら、樋口は掠れた声を上げた。
 半ば無意識に、腰を跳ね上げる。
「く‥‥‥」
 体内に弾ける欲望に、壱哉は眉を寄せて呻いた。
 同時に、壱哉のものからも欲望が迸る。
 目を閉じて余韻を楽しんでいるらしい壱哉を見上げた樋口は、自嘲と諦めに小さく息を吐いた。
 どうせ、こんな時間しか過ごせないならば。
 この身体が、こんな事しか出来ないならば‥‥。
「っ、なんだ‥‥?」
 身じろぎした樋口に、壱哉が怪訝そうな顔をした。
「黒崎‥‥今度は、俺にやらせて?」
 壱哉の身体を大事そうに抱き締め、そっと体勢を入れ替える。
「なんの‥‥」
 言いかけた言葉を封じるように、優しく口付ける。
「今日が終わるまでは、俺のものでいてくれるんだよな」
 樋口の言葉に、壱哉は不機嫌そうに顔を背ける。
「‥‥‥勝手にしろ」
「うん‥‥ごめん」
 そう言って、樋口は壱哉の胸肌に唇を落とした。
 鎖骨のラインから下へ、唇と舌で丁寧に愛撫しながら肌をまさぐる。
 細く長い指も、一本一本口に含んで丹念に舌を這わせる。
 こんな風に壱哉を愛撫するのは初めてだった。
 金で買い上げられ、男の抱き方を無理矢理覚え込まされていた時はそんな余裕も気持ちもなかった。
 どうすれば男が感じるのか、それを教えられ、実践させられた。逃げ出したい程嫌だと思いながら、それでも覚えるしかなかった。
 こうして飼われるようになってからは、いつも欲望に急かされて壱哉の中に挿れる事しか考えられなかった。
 壱哉自身に教えられた弱い場所ばかりを刺激して、少しでも早く壱哉を満足させ、自分の欲望を満たす事しか頭になくなってしまっていた。
 だから樋口は、こんな気持ちで壱哉を抱くのは本当に初めてだったのだ。
「好きだよ‥‥黒崎‥‥‥」
 嫌われるのを承知で、もう一度囁く。
 決して届く事のない、けれど胸の中にいっぱいの想いを込めて、樋口は壱哉の身体を丹念に愛撫する。
「んっ‥く‥‥」
 眉を寄せ、壱哉が熱い吐息を洩らした。
 色白の肌は赤く染まり、頭を擡げたものの先端からは透明な先走りが溢れている。
 どこか一方的な行為にも壱哉が文句を言わないのは、『樋口のものになる』と言う約束を守っているからなのだろう。
 束の間のこの時間を、壱哉はどう思って頷いてくれたのだろう?
「黒崎‥‥‥」
 樋口は、熱くなった壱哉のものを、愛しげに両手で包み込む。
 頬擦りするようにしながらゆっくりと舌を這わせ、丹念に愛撫する。
「く、ぁ‥‥!」
 壱哉が掠れた声を上げて頭を振った。
 喉の奥まで咥えるようにして、樋口は壱哉のものに舌を絡ませた。
「ぁ‥‥!」
 何かに堪えるようにシーツを強く握り締めた壱哉の身体が震えた。
 喉の奥に叩き付けられた熱い液体を、樋口は喉を鳴らして飲み下す。
 うっすらと汗ばみ、赤味を帯びた胸肌が荒い呼吸に上下している。
 熱に潤んだような瞳を宙に投げ、頬を僅かに紅潮させている壱哉は、とても綺麗だった。
 金で買われ、全てを奪われて閉じ込められ、獣か道具のように扱われ――それでも、何よりも大切な、大好きな人。
「黒崎‥‥!」
 いつものような欲望ではなく、胸の中にずっと抱えていた想いに促されるように、樋口は壱哉を抱き締めた―――。


 あまり無理をさせないように気をつけたつもりだったのだが、樋口も何度か欲望を解き放つ頃には、壱哉は疲れたように目を閉じてされるままになっていた。
「ごめん‥‥黒崎‥‥‥」
 性行為だけに慣らされてしまった樋口の身体は、まだ物足りない気持ちを抱えていたが、これ以上壱哉に無理をさせる訳には行かない。
 それに‥‥もう、許された時間は少なかった。
「黒崎‥‥‥」
 樋口は、無抵抗な壱哉の身体をしっかりと抱き締めた。
 腕の中の、壱哉のぬくもりが愛しくて‥‥とても、切なかった。
 どんなに強く抱き締めても、足りない。
 本当は‥‥いつまでだって、こうして触れていたい。
 樋口はしばし、何も言わず、ただ黙って壱哉を抱き締めていた。
 暖かい素肌を触れ合わせ、壱哉の鼓動を感じていると、何故か泣いてしまいそうな気がした。
「なぁ‥‥黒崎。昔‥‥中学の頃、俺、いっつもお前にくっついてたよな。宿題写させてもらったり、一緒に帰ったり‥‥‥」
 穏やかなぬくもりに気持ちが緩んでしまったのか、樋口はずっと胸に仕舞い込んでいたものをぼんやりと口にしていた。
「あの頃‥‥もしかして、いつもくっついてて迷惑だとか‥‥うっとおしいとか、思ってたか‥‥?」
「‥‥‥‥‥」
 壱哉が、僅かに目を見開いて樋口を見た。
 が、しばらくして、その唇が動こうとした時、樋口は慌てて言った。
「ごめん‥‥いい。答えてくれなくて、いいから‥‥」
 答えてくれない方がいい。答えなんか聞きたくない。
 もし『そうだ』と言われたら、何かが本当に壊れてしまいそうな気がするから。
 俯いた樋口に、壱哉は不機嫌そうに口を噤んだ。
 と、壱哉の時計が短い電子音を立てた。
 十二時――束の間の夢が覚める時間だった。
 壱哉が動く前に、樋口はその首から、するりと首輪を抜き取った。
 そして、ベッドから下りると、いつものように床に座り込んで壱哉を見上げる。
「これ‥‥もらって、いいかな?」
 樋口の言葉に、壱哉は不快そうに顔を歪めた。
 しかし、駄目だとは言わず、気怠そうに脱ぎ捨てたシャツを羽織る。
「今日の事は‥‥気紛れだ。お前は出来の悪い駄犬に過ぎない。つけあがるなよ」
「‥‥‥うん」
 出て行こうとする後姿に、樋口は声を掛けた。
「黒崎‥‥本当に、こんな勝手なわがまま聞いてくれて‥‥ありがとう」
 樋口の言葉に、壱哉は足を止めた。
「昔‥‥‥」
「え?」
「昔‥‥何も知らず、何の力もない馬鹿な子どもがいた。いつも自分にまとわりついて来る、大き目の学生服を着た、お人好しで能天気に笑っている同級生が‥‥いつも幸せそうなそいつが羨ましくて、嫉ましくて‥‥でも、嫌いにはなれなかった‥‥‥」
 それは、聞こえるか聞こえないかのような小さな声で。
 独り言のような呟きに、樋口は目を見開いた。
 壱哉は、背を向けたまま、小さく笑ったようだった。
「‥‥もう‥‥そいつは、死んだ。どこにもいない」
 そう言い捨てた壱哉は、樋口を一度も見ないまま、部屋を出て行った。
 分厚い扉がいつものように閉ざされて、樋口はまた、独りに戻る。
 いつものように、耳が痛い程の静寂が辺りを支配する。
 しかし、今日は、そんなに辛いとは感じなかった。
「黒崎‥‥‥」
 さっきの壱哉の言葉が、樋口の胸を熱くしていた。
 もし、あの言葉が嘘だったとしても、そう言わせたのは壱哉の優しさなのだ。
 それに。
 樋口は、手の中の、黒革の首輪を握り締めた。
 壱哉にとって、樋口はただの『モノ』に過ぎないのだろうけれど、こんな我が儘を聞いてくれるくらいには気にしてくれているのだと、そう自惚れてもいいのだろうか。
「好きだよ‥‥黒崎‥‥‥」
 樋口は、首輪にそっと口付けた。
 とても大切なものを抱き締めるように、首輪を胸に抱え込んで蹲る。
 樋口は眠気に促されるまま、ゆっくりと目を閉じた。
 この部屋に独りぼっちで放って置かれても、これからは、少しは寂しさを我慢出来そうな気がした。


END

top


‥‥えーと。あんまり時間的な経過を気にしないように(こいつら十二時間近くヤッてたのかとかそーゆー計算は却下です)。同じく、メシも食わんで何やってんだとか言うツッコミも却下です。
本当はプレゼントはイブなんでしょうが、「クリスマス」と言った方が格好いいかなぁと。ここまでupが遅れたので、樋口の誕生日にするのも考えたのですが、壱哉様はクリスマスの方がこー言う事しそうな気がしたので。きっとこの後、壱哉様はなし崩しに『好き』って言うのも黙認してしまうんでしょう。それから、樋口の言う事を聞く『プレイ』は今後も何回かやりそう。
バッドEDでも、攻め樋口の時の方が壱哉様は優しいと思います。自分的には受け樋口が好きなんですが、攻め樋口の方が話になりやすいんですよねぇ。