君に贈る花束


『バラの花束が欲しい』
 いきなり訪ねて来た同級生の、開口一番の言葉がこれだった。
 中学時代親しかった彼は、今は大会社の社長になっていて。
 彼の会社のビルが着工した時、樋口の土地がその建設予定地に引っかかってしまい、トラブルになってしまった。
 どうしても土地を手放したくない、と直談判した樋口は、使用料と土地代を借りている事にして何とか一ヶ月、工事を待ってもらった。
 樋口の身体が担保だ、と、学生時代からは信じられないような冷たい表情で言い捨てた彼に、驚きと、言い知れない寂しさを感じた事を覚えている。
 その後、数度『様子見』と称して顔を出し、その度に、冷たい言葉ばかり口にする彼に、悲しさとやりきれなさばかりが募った。
 それでも、ずっと追い続けた夢を諦めたくはない。
 信じられないような巨額の借金を返済する為には、もうすぐ完成するであろう新種と、今まで開発したオリジナル品種の権利全てを手放すしかない。
 父から受け継いだこのバラ園を守る為に、樋口はそう腹を決めていた。
 しかし、丁度新種が咲いた頃、彼の秘書が訪ねて来た。
 工事計画を一部変更し、薔薇園の敷地を樋口に貸し付ける形にしてもいいと言う。
 賃借料も、払い続けられない程高額ではなかった。
 いや、この一等地でその安さは、破格だった。
 しかも、賃借料に土地代を分割で上乗せして、買い戻す事さえ不可能ではないとの事だった。
 いきなりの翻意が不思議で、しかし、やはり彼は昔のように優しいままなのだと、嬉しくなった。
 その言葉に甘える事にした樋口は、こうして、今までと変わらない薔薇との生活を送っていたのだ―――。
 その樋口を壱哉が訪ねて来たのは、クロサキファイナンスのビルが完成間近な頃だった。
 工事計画を変更してくれた礼とか、新種が完成して思ったより早く借金を返せそうだとか、色々な話をしたいと思っていたけれど、きっと壱哉が直接ここを訪ねてくれる事などないだろう、そう思っていただけに、樋口はとっさに言葉が出なかった。
「お前、バラには詳しいんだよな?」
 樋口の様子をどう取ったのかは知らないが、壱哉は慌てたようにそう続けた。
 何を今更そんな当たり前の事を、と樋口は思わず吹き出してしまった。
 意味が判らず戸惑っているような壱哉の表情に、今までずっと感じられた翳りのようなものが見えない事に樋口は気付いた。
 中学時代のあの頃にも、壱哉の瞳には寂しげな、何かに耐えているような暗い色があった。
 十年ぶりに再会した時には、壱哉の瞳はもっと暗い色をしていた。
 けれど、今の壱哉は違う。
 本当に幸せそうだ、そう思った。
 話を聞いてみると、壱哉は今、大切な人と一緒に暮らしているのだと言う。
 両親が夜逃げをしてしまい、以来、バイトをしながらたった一人で頑張って来た。高校も入れなかったけれど、必死に勉強して大検を取り、今は弁護士を目指していて、大学入試に向けて猛勉強中らしい。
 それが女性ではなく、年下の少年だ、と聞いた時には思わず眩暈を覚えてしまった。
 でも、相手が女でも男でもいい、壱哉がもう、あんな悲しい瞳をせずに済むのなら。いつも寂しそうにしていた彼に、こんな明るい笑顔を与えてくれるのなら。
 のろけにしか聞こえない口調で彼の事を話す壱哉に、何故か胸の奥がちくりと痛んだけれど。
 でも、壱哉が‥‥学生時代に見せてくれていたものより、もっと優しい、明るい笑顔を浮かべるようになったのは、とても嬉しかった。
 壱哉が今は幸せなのだと思っただけで、樋口もとても幸せで、暖かい気持ちになった。
「その花束って、誕生日祝いかなんかか?」
「いや‥‥大学の合格祝いのつもりだ」
「へぇ‥‥絶対受かる、って思うんだ?」
 一年も先の合格祝いの事を考えている壱哉に、樋口は目を見張った。
「もちろんだ。あいつは、今までも頑張って来たし‥‥今も、ずっと一所懸命だ。しかも、この俺が見込んだ奴だぞ?絶対に受かるさ」
 今まで見ていたよりも随分口数の多い壱哉に、樋口はまた驚いた。
 壱哉を変えたのは、その少年なのだろうか。
 あの暗い影を拭い去り、こんなにも明るい顔にしてくれたのは。
 壱哉の変化は、勿論嬉しかった。
 しかし、ほんの少しだけ、胸が締め付けられるように切なくて、寂しいような気持ちになったのは自分でも不思議だった。
「合格祝いに何を贈ろうかと考えた時に、お前の事を思い出したんだ」
「そっか‥‥」
 以前ここに来た時の壱哉は、儲からない花屋にこだわるなんて馬鹿げていると言った。
 しかしその壱哉が、花を贈る事を思いついてくれたのは嬉しかった。
 花は、贈られた人は勿論、贈った人をも幸せな、いい笑顔にしてくれるのだから。
「せっかく、バラを作っているお前がいるんだから、そこらの店では見られないような豪華なものが欲しいと思ってな」
 そう言う壱哉は、どこか気障に見えて、とても彼らしいと思う。
 樋口は、つい笑みが浮かんでくるのを抑えられなかった。
「‥‥何を笑っている」
 不思議そうに首を捻る壱哉に吹き出しそうになって、樋口は慌てて表情を引き締めた。
「合格祝いになら、いいバラがある。『勝利者』って花言葉で、ピンクがかった紫色の綺麗なバラなんだ」
「ほぅ‥‥‥」
「今、日本には殆ど流通してないけど。来年の三月なら、今から育てれば間に合うよ」
 樋口の言葉に、壱哉は少し驚いた。
「今から‥‥育てるのか?」
「あぁ。だってお前の事だから、腕一杯のバラ、とか言うだろ」
「‥‥‥‥‥」
 図星を指され、壱哉は少し赤くなる。
「それ、花季が春じゃないんだ。だから温室で、ちゃんと合格発表に間に合うように育ててやるよ」
「‥‥‥いいのか?」
 申し訳ないような顔をする壱哉に、樋口は笑った。
「だって、黒崎はこのバラ園を救ってくれた恩人だぜ?その黒崎の大切な人なら、俺にとっても大切な人だよ。だから、そうさせてくれ。な?」
 相変わらず人のいい樋口の言葉に、壱哉は苦笑した。
「すまんな。じゃあ、その言葉に甘えさせてもらう」
 少し照れたような、はにかんだ笑顔が何故か正視出来なくて、樋口は薔薇の方に視線を逸らす。
「あ、そうだ。せっかく来たんだから、これ、持ってけよ」
 樋口は、バラ園の一角にある、完成した新種を何本か切り取った。
「まだうちでも、大きな花束作れる程増えてはいないけど。やっと叶った俺の夢‥‥受け取ってくれ」
 棘を取り、鮮やかな蒼のリボンで結ばれた小さな束を受け取った壱哉は、樋口を凝視してしまった。
 学生時代と同じ明るい笑顔なのに、どこか寂しそうに見える気がしたのだ。
 しかしそう見えたのはほんの一瞬の事だったから、或いは壱哉の気のせいだったのかも知れない。
「ありがとう。きっと、あいつも喜ぶ」
 優しい香りは、それだけで気持ちを和ませてくれる気がした。
 確かに、この薔薇は本当に綺麗で素晴らしい‥‥壱哉は、素直にそう思った。
 日程を少し打ち合わせ、壱哉はじきに帰って行った。
 訪問者がいなくなり、一人になった樋口は、薔薇園を見回した。
 いつもは気にしない薔薇園が、とても広々としているような気がした。
 小さく息をつき、樋口は新種の前に座り込んだ。
「また‥‥犬、飼おうかな」
 今まで、サンダーの事を思い出すから犬の事は考えないようにしていたけれど。
 でもいい加減、自分も前を見なければならない気がした。
 丁度、サンダーが縁で知り合った人に、子犬が生まれて困っているから引き取って欲しい、と頼まれていた。
 樋口が犬を大切にしていた事を知っているから、どうせならそう言う人に譲りたいと言うのだ。
 昔の事を吹っ切る為にも、いい機会かも知れない。
 ふと、何故か壱哉の顔が浮かんだ。
 明るくて翳りのない笑顔はとても綺麗に見えて、しかし、彼はもう学生時代とは違うのだと強く意識させた。
「良かったな‥‥黒崎」
 胸の奥に感じる小さな痛みを不可解に思いながら、樋口は呟いた。
 多分自分はこれからも、たった一人で、薔薇の事だけを考えて生きて行くのだろう。
 何故か‥‥そう、思った。


END

top


ドラマCD、清水編でまさか樋口があんな風に出て来るとは思いませんでした。犬連れて出て来るのは何となく想像がついていたんですが、まさかラストにまで関わってくるとは‥‥!早朝に樋口の所に薔薇を受け取りに来た壱哉と樋口の会話を想像して転がり回りました。
それにしても、犬二匹が友達の樋口は何となく切ないなぁ‥‥。そのうち、壱哉みたいにきつめの性格の黒いショートヘアの女の子とかの恋人作るのかなとか思ったり。でもなんか、このまんま一生結婚しなそうだと思いました。