君の名前を


 そう‥‥あれは、中学の時。
 樋口は、気易く名前を呼び合う友人達の様子を見て、少しだけうらやましいと思った。
 その頃樋口は、ふとした事で壱哉と親しく言葉を交わす事が出来るようになっていた。
 どこか近寄りがたい、と言われていた壱哉と『友人』と呼べる仲になった事は嬉しかった。
 しかし壱哉には、やはり一定以上踏み込むのが躊躇われる『壁』のようなものが感じられた。
 もっと長く付き合えば、もっと近い友人になれるかも知れない。
 そう思っていた樋口には、壱哉と出会ってからの一年ちょっとは本当に短かった。
 何度か、機会を見付けて名前で呼んでみようと思いながらも、彼を前にすると、その堅い雰囲気にどうしても『黒崎』と呼んでしまう。
 結局、樋口は名前で呼べないまま、卒業を迎えてしまったのだ。


「やっぱり、あんまり気易くされるのは嫌なのかなぁ‥‥‥」
 もうすぐ一面に咲き揃うであろう新種の薔薇を手入れしながら、樋口はため息をついた。
 再会してから色々あったけれど、今はまた親しい関係に戻る事が出来た。
 と言うか、もう肌を合わせるまでの仲になったのだから、『親友』よりも遥かに近い関係になったはずだ。
 しかし、依然として二人は名字を呼び合うに留まっていて。
 今までの延長なのだから仕方ないのかも知れないが、それでもやっぱり、少し他人行儀に思える。
 いや、他人なのは確かだけれど、一応『恋人』と呼んでもいい関係のはずだ。
 それが未だに名字で呼び合っていると言うのは、ちょっと寂しい気がする。
「こんな事にこだわるのが悪いのかな」
 でもやっぱり、名字で呼んでいると距離を感じてしまう。
 学生のあの頃は、彼を親しく呼べるだけでも嬉しかったけれど。
 名字で呼ぶからよそよそしいと言う訳では全くないのだけれど。
 それでも、今はほんの僅かでも壱哉との距離を詰めたかった。
「‥‥‥‥」
 樋口は、無意識にまたため息をついた。
 壱哉の気持ちは判ったはずなのに、何となく、まだ薄紙のような隔たりが消えないように感じてしまう。
 いや、もしかして『壁』を作っているのは樋口の方なのだろうか。
 壱哉に、この満開の薔薇を見せたくて、ずっと打ち込んできた。
 しかし必然的に、壱哉と会う時間はあまり取れていない。
 壱哉との距離が考えているより遠いのかも知れないと思えて来て、樋口は落ち込みそうになる。
 何より、自分の都合ばかり優先している樋口を壱哉はどんな気持ちで見ているだろう?
 そう思うと、名字で、他人行儀に呼び合っている事が改めてもどかしく思える。
 樋口の中では、もう彼を『壱哉』と呼んでいて。
 おかげでこの前、電話に出た吉岡にうっかり『壱哉いますか』と言ってしまい、絶句されたものだ。
 あの時は、日頃動じる事など想像出来ない吉岡の反応に、樋口の方が驚いてしまった。
 吉岡には悪いけれど、あの時の反応を思い出すとつい、笑いそうになってしまう。
「‥‥‥‥‥」
 樋口は、一輪だけ咲いている気の早い花にそっと触れた。
 ほのかに優しい香りが鼻腔をくすぐる。
「やっと、ここまで来たんだからな。もうすぐだ」
 自分と薔薇に言い聞かせるように呟く。
 新種の育成は成功し、もうすぐ試験的な出荷から本格出荷に移れそうだった。経営も順調で、今は壱哉に資金を出して貰わなくても経営が成り立っている。いや、この分ならパテント料も含め、かなりの利益が見込めそうだった。
 全ては、壱哉が取って置いてくれたあの一枝から始まったのだ。
 薔薇園の半分を埋め尽くす新種は、あと一週間もすれば咲き揃う。
 その時には、壱哉に真っ先に見てもらいたい。
 自分が、ずっと目指していた夢を。
 壱哉のおかげで、取り戻す事が出来た夢を。
 そして。
 咲き乱れる薔薇の中で、自分の気持ちを伝えよう。
 気持ちは通じていると思うけれど、まだ言葉で伝えた事はなかったから。
 それから、言ってみよう。
 名前で呼んでもいいか、と。
―――壱哉‥‥。
 心の中で、小さく呼ぶ。
 この名を、口に出して呼べる時が早く来ればいいと、そう思った。

END

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何が書きたいんだか良く判りませんね。
あのEDを見て、「イチャついてる‥‥」とこっちが赤面したものです。だって樋口は臆面もないし、社長も凄く喜び噛み締めてるし。 樋口の口から「壱哉」と言うと、なんかそれだけで愛を囁いているように聞こえるのは私だけでしょうか?
に、しても社長の鈍さは誰が相手でも変わらない‥‥。名前で呼ばれたくらいで絶句してるんだからなぁ。
樋口があの機会まで呼ぶのを我慢してたのも判ります。