夢通う

 すてられたんだ。
 そう──気がついたのは。
 見たことがない部屋で目を覚まして、知らない男が顔を見せた時だった。
『今度は、私がお前の飼い主だ』
 あの人より、少し年上らしい男。
 酷く傲慢で冷酷に見える男の言葉に、冷たいものが背筋を走るのがわかった。
『せいぜい‥‥かわいがってやる』
 薄い笑みに、鳥肌が立つような嫌悪を感じる。
 信じていたあの人に騙されて、何度も犯されて、無理やりいろんなことを覚えこまされて。
 いつの間にか、自分からねだることも恥ずかしくなくなってしまって。
 動物みたいに扱われても、いやらしい言葉で罵られても、それでも抱いてほしくて、どんな恥ずかしいことでもするようになっていた。
 もう俺は、抱いてくれるなら、誰が相手でも、何をされてもいいんだと思っていたけど。
 でも、やっぱり、いやだ。
 あの人だったから。
 どんな風に扱われても、何をさせられても、あの人だったから、我慢できたんだ。
 だから──こんな奴の言葉なんか、絶対に聞くもんか。
 命令には全部逆らった。
 無理に犯されても、力の続く限り暴れてやった。
 気絶するほど痛めつけられても、狂うほど焦らされても、言うことは聞かなかった。
 じきにその男は、全然言うことを聞かない俺をもてあましたみたいで。
 いつものようにいたぶられて気絶した後、目を覚ますと、また別の場所に連れて来られていた。
 そこは、どうやら金持ち相手の売春クラブみたいなところで。
 俺は『言うことを聞かない奴』として売られたらしくて、最初から、客にいたぶられた。
 ここに来る前にも散々痛めつけられてたから、もう、俺の体は限界だった。
 何度か『客』を取ってから、高い熱を出して起き上がれなくなったら、狭くて汚い部屋で、そのまま放って置かれた。
 このまま、俺は死ぬんだろう。
 まるで、他人事みたいにそう思う。
 熱で朦朧として、ちょっと辛いけど、あの人以外の奴に抱かれるよりはマシだった。
 そう言えば‥‥‥。
 あの人のところにいた時も、酷く痛めつけられては熱を出したっけ。
 その時は、あの人はとても優しくしてくれて。
 遊んでるだけなんだってわかってたけど、それでも嬉しかった。
 バカみたいだって、自分でも思うけど。
 でも‥‥俺はあの人のこと、好きだったんだ。
 騙されて、何もかも奪われて、ペットみたいに扱われて。
 それでも、あの人が好きだった。
 ずっと傍に置いてほしかった。
 こんな風に、もう会えなくなってから気がつくなんて。
 いまさら‥‥こんなことを考えても、どうにもならないけど。
 もう、力が入らない体を何とか動かして、丸くなる。
 どうせ死ぬなら、早く死んでしまえばいい。
 そうしたら、あの人に会えない辛さも、何も感じなくなるから───。


『記憶障害?』
 馴染みの医師の言葉は、壱哉には酷く重く聞こえた。
『‥‥の、一種ですが。おそらく、長時間、高熱が続いて脳の一部に障害が出てしまったのでしょうね』
 現状で回復はほとんど望めない、と医師は言っていた。
 長い廊下を歩きながら、壱哉はそんな会話を思い出していた。
 新を買い上げてから、壱哉は様々な事を教え込み、自分好みに躾た。
 けれど、酷く従順になり、壱哉が命じるまでもなくその意を汲み取って動くようになった新に、何故か苛立ちのようなものを覚えるようになった。
 自分でも理由の判らない感情が不愉快で、半ば八つ当たりのように新を手放した。
 しかし、数日もすると後悔が襲って来た。
 代わりの獲物を探すどころか、愛人と寝る事さえ苦痛になってしまった。
 新を譲った男が、持て余して売り払ったと聞き、慌てて行方を探した。
 裏の人脈を使って見付けた時は、新は弱って倒れていた。
 買い戻すにはかなりの額を要求されたが、惜しいとは思わなかった。
 それまでにかなり痛めつけられていたらしく、新は一週間、高熱を出して生死の境を彷徨った。
 そして、やっと回復して、目を覚ました時には‥‥‥。
 家の中で一番日当たりの良い部屋の前で、壱哉はドアをノックした。
「あ、開いてるよ」
 承諾の言葉を確かめて、壱哉はドアを開いた。
 部屋に入ると、ベッドの上で華奢な体が半身を起こしている。
 本を読んでいたのか、手にしていた分厚い本をサイドテーブルに置く。
「起きていて大丈夫なのか?」
「うん。今日はずいぶん調子がいいから」
 元々そう丈夫な方でもなかったが、新の体はすっかり衰え、殆どの時間をベッドで過ごすようになってしまった。
 その上。
「あの‥‥こんなに良くしてもらってるのはありがたいんだけど‥‥俺、働けないし、何も返せないから‥‥‥」
 目を伏せて、新は困ったような顔で言う。
「気にするな。俺には‥‥お前に、そうしてやる義務があるんだ」
「‥‥?」
 新の大きな瞳が、不思議そうに壱哉を見上げた。
『彼の中では、過去の記憶と、現在の認識とを一致させる事が出来なくなっているのですよ』
 医師の言葉が蘇る。
 新から、過去の‥‥壱哉に辱められた記憶がなくなっている訳ではない。
 しかし、新を買い上げた『黒崎壱哉』と、ここにいる壱哉とが同じ人間だと認識出来なくなってしまっているのだ。
 それは、高熱で意識不明が続く前の記憶全てに言える事で。
 もしここに、新の両親が現れたとしても、新はそれが自分の両親なのだと認識する事は出来ない。
「義務、って、なに‥‥」
 不思議そうな新の頭を、壱哉は優しく撫でてやった。
 すると、新は何かを思い出すような、遠い表情を浮かべる。
「黒崎さんって‥‥俺が、会いたいと思ってる人に似てる‥‥」
「‥‥‥そいつは、どんな奴なんだ?」
「うん‥‥冷たくて、嘘つきで、とても酷い人で。でも‥‥時々、こんな風に頭を撫でたり‥‥優しくしてくれた」
「‥‥‥‥‥」
「どうせ、捨てた俺のことなんか、もう忘れちゃってるだろうけど。俺‥‥その人のこと‥‥すごく、好きだったんだ‥‥‥」
 それは、自分なのだと。
 新に告げる事が出来たら、どんなにいいだろう。
 けれど、壱哉がそう言ったとしても、今の新には理解出来ない。
 新が待ち続けている『黒崎壱哉』が現れる事は、永久にないのだ。
 何故、自分は新を手放したりしたのだろう。
 何故‥‥自分は、新の気持ちを素直に受け取る事が出来なかったのだろう。
 壱哉は、言いたい言葉を飲み込んで、新に笑いかけた。
「そうだな‥‥お前が本当に元気になったら、俺が、どうしてお前の面倒を見る義務があるのか、教えてやる」
「うん‥‥‥」
 新は、小さく頷いた。
 どこか儚げにも見えるその横顔に、壱哉は胸を衝かれた。
 限界を超えて苛まれ続けた新の体は、もう元のようには戻らないと言われていた。
 そして、抵抗力も落ちてしまっているから、ちょっとした病気で命を落としかねない状態なのだと。
 新も、薄々それに気付いているかも知れない。
 壱哉は、苦い後悔に胸を塞がれながら、新を見詰めた。
 戻らない。
 何もかも。
 もう二度と───。


 黒崎さんが、ちょっと辛そうな顔をして出て行ってから、俺はベッドにもぐりこんだ。
 今日は少し長く起きていたせいか、ちょっと疲れた気がする。
 黒崎さんに親切にされるのは、嬉しい。
 でも、どうして俺に良くしてくれるかわからなくて、とても悪い気がする。
 そう言うと、黒崎さんはいつも、悲しそうな顔で笑う。
 だから、俺はそれ以上、何も言えなくなるんだ。
 黒崎さんは俺のことを良く知ってるみたいだったけど、俺は何も覚えてない。
 もしかすると黒崎さんは、別な誰かを俺に重ねてるんだろうか。
 俺‥‥みたいに。
 黒崎さんを見ていると、あの人のことばかり思い出す。
 あの人が、俺を騙す前。
 今みたいに、優しくされたことがあった気がする。
 でも、もっと良く思い出そうとすると、かえって頭が霧に包まれたみたいになる。
 ここで目を覚ましてから、昔のことがいろいろゴチャゴチャになって思い出せないことが多くなった。
 一時間も起きていられなくなったこの体みたいに、俺の頭もダメになりかけてるのかもしれない。
『お前が本当に元気になったら‥‥』
 黒崎さんはよくそう言うけど、もう元気になんかならない。
 自分の体だから、わかる。
 このまま、ゆっくり衰えて行って、死ぬんだと思う。
 だから、本当はその前に会いたい。
 きっと、二度と会えないんだって、わかってるけど。
「──さん‥‥‥」
 あいたいよ。
 心の中で呟いて、目を閉じる。
 悪い夢でもいいから。
 辛いとばかり思ってた、あの時のことでもいいから。
 優しくしてくれなくてもいい、酷いことばかりするんでもいいから。
 せめて、夢の中ででも、あの人に会えればいいな‥‥‥。
END

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えー、目指したのは(一応)いちあらでBADで究極のすれ違い。この前、ふとした事であさか様に差し上げる事になった話のおまけ‥‥のつもりが、どー考えてもおまけとは言えないネタと時間(間空きすぎ!)になってしまいましたが。とりあえず、こっそりひっそり捧げさせていただきます。タイトルは、和歌などである「夢通ふ」=夢の中で会う、です。今ひとつ違う気もしますが、上手いのが思い付かなかったんです。まさか、人様に差し上げるものなのに投げやりになる訳にも行かなかったので(爆)。
それにしてもあらたってむずかしー。過去に一人称に挑んで玉砕したんですが、やっぱりやるんじゃなかったとか後悔していたり。
どうも私は、新に対しては、徹底して鬼畜な壱哉様が想像出来ないみたいです。最初は、新が、本当に優しくしてくれる壱哉様をそれと信じられない話だったんですが、それじゃあんまりなのでこんな形になりました。