あなたがいれば
何日か降り続いていた雨もようやく上がり、久しぶりに朝から抜けるような青空が広がった。 暖かな日差しが優しく降り注ぐ中、壱哉と新は近くの公園に散歩に来ていた。 初めて会ってから、二人はあの街の公園で一緒に弁当を食べたり、他愛ない話をして昼休みを過ごした。 そのせいか、二人にとって『公園』は特別な意味を持つ場所になっていた。 家に近いこの公園は、そう大きい訳ではなかったが、二人が知り合ったあの公園にどこか似ていた。 そんな事もあって、壱哉の休みが取れると、二人は良くこの公園に散歩に来ていたのだ。 どんな時でも一分の隙もなくきっちりと背広を着こなしている壱哉と、さすがにツナギではないものの、ラフな格好をした新が連れ立って歩いている様子は、はっきり言って妙な取り合わせだと思う。 大手商社のエリートサラリーマンと、出来の悪い浪人の兄弟か何かに見えるかも知れない。 そんな事を考えて、新はふと、可笑しくなってしまった。 「‥‥‥?何を笑っている」 新の表情に目を留めた壱哉が怪訝そうな顔をした。 「んー、いやさ、俺と黒崎さんがこうやって歩いてると、他人にはどう見えんのかな、と思って」 「別に、普通だろう」 壱哉は、不思議そうに首を傾げる。 本当にそう思っているらしい壱哉は、やっぱり世の中とはどこかずれている。 もう何度目か、新は心の中でそう呟いてしまった。 と‥‥。 向こうから、大型の犬を散歩させている初老の女性が近付いて来て、新は思わず身を固くした。 反射的に、壱哉の背広の裾を握り締めてしまう。 「あぁ‥‥お前、犬が苦手だったな」 新の視線の先を眺め、壱哉は合点した。 奇妙に力の入った身体を宥めるように、壱哉はそっと新の背中に手を添えた。 ほんのそれだけの事なのに、不思議に新の中から、緊張が消えて行く。 かなりの大型犬が近寄って来るのに、いつものように身が竦むような恐怖はない。 いや、怖くない訳ではないのだが、その感覚はどこか遠く、今の新を縛るものではなかった。 近付いて来る大型犬は、とても人懐っこい黒い目をしていて、白くて長い毛並みはきちんと手入れされている。 大きな丸い目が新を見付けると、嬉しそうに長い尾を振り始める。 尻尾を振って新に近付いて来ようとする犬に、飼い主の女性は慌ててロープを引っ張った。 「‥‥‥なあ。さわってみても、いいかな?」 自分を見上げる新の言葉に、壱哉は驚いた。 寄って来る犬は、新が苦手だと知った時に見た犬より、一回り大きな身体だった。 けれど、元々新は動物好きだったらしいから、不思議な事ではないかも知れない。 「お前がそうしたいなら、構わない」 壱哉の言葉に笑顔になった新は、飼い主の女性に視線を向けた。 「あの‥‥さわっても、いいですか?」 「え?えぇ、どうぞ」 初老の女性は、愛犬を他の人間も可愛がってくれるのは嬉しいのだろう、笑顔で頷いた。 「ありがとう」 新は、ゆっくりと犬に近付くと、そっと手を差し出した。 白い犬は、嬉しそうに尻尾を振りながら新の手を舐める。 新は、おずおずともう一方の手を伸ばし、長い毛並みを撫でた。 柔らかな感触と、暖かい体温が伝わって来る。 気持ちがいいのか、犬は新を見上げて目を細めた。 どうやら喜んでいるらしいので、新はもう少し力を入れて撫でてみる。 すると犬は、激しく尻尾を振りながら新に頭を擦り付けるようにし、前足を新の足に掛けて来た。 こうしていると、今まで、どうしてあんなにも怖かったのか不思議だった。 少しの時間、犬と遊んで、新は老婦人と別れた。 それから、二人はどちらからともなく空いていた近くのベンチに腰を下ろした。 新は、自分の両手をまじまじと見てしまった。 物心ついてから初めて、大きな犬を怖がらずに触る事が出来たのが自分でも意外だった。 「犬は怖くなくなったのか」 壱哉が、遠慮がちに声を掛けて来た。 顔を上げると、気遣うような優しい瞳にぶつかる。 ―――あぁ、そうか‥‥‥。 壱哉が‥‥いつも自分を見てくれる人が側にいてくれたから、新は平気になれたのだ。 新は、ようやくそれに気が付いた。 「‥‥うん、そうみたいだ。黒崎さんのおかげだよ」 「俺の‥‥?」 壱哉は、意味が判らないように目を見張った。 「別に俺は何もしていないぞ」 本当に不思議そうな壱哉の顔が可笑しくて。 でも同時に、胸の中にとても暖かいものが広がって行くのが判る。 「いいんだ。こうやって、側にいてくれるだけで」 新は、少し身体をずらして壱哉に寄り掛かるようにする。 「新?」 壱哉は、戸惑ったように瞬きした。 そんな顔を見ると、壱哉がとても近い場所にいてくれる気がして、とても嬉しかった。 壱哉が側にいてくれると、嫌だった自分がどんどん変わって行ける気がする。 バイトに明け暮れている時、何の悩みもなく漫然と日々を過ごしている同じ年頃の学生達を見て、苛立ちのようなものを感じる事があった。 独りぼっちで過ごす長い夜、自分を置いて行ってしまった両親を思い出すと、自分を気遣って置いて行ったのだと思いつつ、恨みがましい気分になる事があった。 そんな感情を持ってしまう自分が、とても嫌な人間に思えて。 どうして自分だけが苦労しなければならないのか、時々頭をよぎるそんな気持ちを必死に追い払っていた。 そんな事を考えてはいけないのだと自分自身にずっと言い聞かせていた。 かつて壱哉に、「両親に捨てられたのか」と言われてあんなに腹が立ったのも、自分もそう思った事があったからだったのだ。 けれど、壱哉と知り合ってから、新は自分がとても優しい気持ちになれる気がした。 こうして一緒に暮らすようになってからは、今までのように嫌な気持ちを感じる事はなくなった。 嫌だった、けれどどうにもならなかった自分は、少しは変わる事が出来た気がする。 全ては――壱哉と知り合ったおかげだと思う。 「俺‥‥本当に、黒崎さんに会えて良かった」 呟くような新の言葉に、壱哉は不思議そうな顔をした。 けれどその表情が、とても優しいものに変化する。 「俺こそ‥‥新と知り合えて良かった。お前とこうしていられるだけで、俺にとっては何よりの幸せなんだ」 相変わらず壱哉の言葉は、恥ずかしいくらいストレートだと思う。 照れくさくて、いつものように悪態をつこうとしたけれど、何故か言葉が出て来ない。 「うん‥‥‥」 辛うじて、それだけ言う。 壱哉と触れ合っている場所が、とても暖かく感じられた。 新は、身じろぎもせずにその優しい暖かさを噛み締めていた。 その夜、新がベッドに入った時、壱哉は何か書類のようなものを読んでいた。 「なに‥‥仕事?」 何も寝る時まで仕事をしなくても、と少し不満が頭を擡げる。 けれど、今日一緒にいる時間を作ってくれた事で仕事が間に合わなかったのかとも思えて、そんな我が儘を口には出来なかった。 黙ってしまった新に気付き、壱哉は書類をサイドボードに置いてこちらに視線を移した。 深い色の瞳に心の中の不満まで見透かされそうで、新はふてくされたように背を向けてベッドに潜り込む。 「新‥?」 下りて来た壱哉の手が、新の頭をそっと撫でた。 「お前は、不思議だな‥‥」 子どもあつかいすんな、そう言おうとした新は、出鼻を挫かれてしまった。 「‥‥不思議って、なんだよ」 新に言わせれば、壱哉の言動の方が余程不思議だと思う。 しかし、振り返って見上げた壱哉の表情はとても真面目で、軽口は喉の奥で消えた。 「俺は‥‥ずっと、あらゆるものを嫌い、憎んできた。いつも心の中に何かがくすぶっているのに、どうにもできない自分が嫌だった‥‥‥」 壱哉は、何かを思い出しているような暗い瞳をしていた。 しかし新に向けられた瞳は、いつもの柔らかな色に戻っていた。 その、酷く優しくて愛しげな表情に新はたじろぐ。 「お前に会えて‥‥俺は、少しは変わる事ができた気がする。いつも胸の中にわだかまっていた、どろどろした嫌なものが消えてしまった。あんなに嫌いだった自分が、少しは許せるようになった。全部‥‥新、お前のおかげだ」 酷く真面目な表情で紡がれる言葉を、大きく目を開いて新は聞いていた。 けれど、じっと聞いているうち、新は思わず可笑しくなった。 二人ともそれぞれ、そっくり同じような事を考えていたなんて。 「‥‥‥何か、俺はおかしい事を言ったか?」 新の表情を目に留めたのか、壱哉は少しだけ不満そうに見詰めて来る。 「いや、そうじゃねえって」 慌てて、新は手を振った。 「俺も‥‥さ。そう思ってた」 「え‥‥?」 壱哉が、意味が判らないかのように瞬きした。 そんな壱哉を見詰めながら、新はゆっくりと口を開いた。 「俺も、黒崎さんと知り合ってから、嫌だった自分が少しは変われた、って思ってたんだ」 新の言葉が意外だったのか、壱哉は目を見張った。 「お前は、いつもまぶしいくらい真っ直ぐで‥‥俺とは違うと思っていた」 壱哉の言葉に、新は小さく笑った。 「俺は、黒崎さんが思ってるほどいい奴じゃないぜ?もしかすると、凄く嫌な奴かもしれないんだ」 「新‥‥‥」 「でも‥‥‥」 新は、半身を起こしている壱哉の腹の辺りに抱きつくようにして、顔を埋めた。 「二人して、おんなじようなこと考えてたなんて、少し嬉しかった。黒崎さんは、こんなガキっぽい気持ちは嫌かもしれないけど」 くぐもった言葉に、壱哉は苦笑した。 そっと手を添えて、回されていた腕を外すと、その身体を抱き締める。 戸惑ったような瞳に笑って見せる。 「嫌なものか。俺も、お前が同じことを考えていてくれたのは嬉しいからな」 「黒崎さん‥‥‥」 見上げて来る大きな瞳に自分が映っているのが、壱哉はとても嬉しかった。 こうして、側にいてくれる人が出来た今なら、判る。以前の自分がどんなに寂しい存在だったのか。 あの頃は自分が何を欲しているのか気付かず、乾きに促されるまま、金で肉体だけの快楽を手に入れて満足していた。 けれど、所詮それはうわべだけの満足に過ぎなかった。本当に欲しいものは金では買えないのだと、手に入ってからようやく気が付いた。 それに気付かせてくれたのは、そして自分を心まで満たしてくれたのは、新なのだ。 「新‥‥‥」 その思いの全てを篭めて、口付ける。 いつものキスとは違って、触れるだけのものだったけれど、それはどんな口付けよりも甘く、熱かった。 |
END |
えーと。ドラマCDを聞く前に半分くらい書いてあったんですが(実は二本の話だった)、聞いた後にはちょっと設定を無視していたのでそのまんま放っておいたものです。一番早く上がりそうだったので突貫工事で仕上げたのですが。
まぁちょっと、消化不良になってしまったのは自覚してたりします。イメージはあっても、思う事を話にするのは難しい‥‥。しかし、ラブED後の二人ってほんっっとうにいちゃついてますね。