忘れない
『何もかも、忘れてしまえ。楽になれる』 壱哉は、抵抗する新にいつもそう言う。 自由も権利も自分のものだったあの時。 そんなものを覚えているから辛いのだと、そう言いたいのだろう。 忘れるのは簡単だ。 最初からなかったのだと思えば諦めもつく。 けれど。 今まで歩いて来た時間を、想い出を、全て捨て去れと言うのだろうか。 辛い事も多かったけれど、それでも、捨ててしまって惜しくないような想い出は何一つなかった。 そう、壱哉と過ごした、束の間の時間さえも――。 配達の途中に怪我をした自分を、配達先まで車で送ってくれた壱哉。 大した料理が入っている訳でもないのに、手作りの弁当を何よりも美味そうに食べてくれた壱哉。 そして、弁護士になると言う遠い夢を、笑いもせず真面目な顔で聞いてくれた壱哉。 あの日々が、全て偽りだったとは思えない。――思いたくない。 薬を盛られたあの時は、全部嘘だったのかと思ったのだが、今は少し違うように感じていた。 手酷く苛まれ、高熱を出して寝込んでしまうと、壱哉は手のひらを返したように優しく接してくれる。 まるで愛玩動物を可愛がるように世話を焼く。苛むのと同じように、甘やかす行為自体を楽しんでいる。 しかし、優しく接する壱哉の瞳の中に、どこか遠い憧憬のようなものが浮かんでいるように見えた。 壱哉は、本当は誰かに優しくしたいのではないか。 金を介した関係ではなく、無条件の愛情を交わせる存在が欲しいのではないか。 何度目だろうか、優しくしてくれる壱哉の顔を見ながら新はそんな事を思った。 ―――馬鹿、みてえ‥‥‥。 我ながら、本当に馬鹿だと思う。 自分から全てを奪い、まるで獣か物のように扱う相手なのに、何故こんな事を考えているのだろう。 しかし新は、壱哉を憎む事も、全て拒絶する事も出来なかった。 それ程までに、自分の中で黒崎壱哉と言う存在が大きくなっていたのだと、こんな境遇に追い込まれてから痛感した。 あれは、何度目かの高熱を出した時。 喉の渇きを訴える新に、壱哉は口移しで水を飲ませてくれた。 その感覚が、遠く埋もれていた記憶を刺激した。 まだ壱哉と出会って間もない頃、風邪をひき、高熱で意識を飛ばしてしまったあの時。 心細くて泣きそうだった自分の傍にいてくれて、水を飲ませてくれた『誰か』。 あの時は熱に浮かされた錯覚だと思っていたけれど。 見覚えのあるハンカチ、そして覚えのある唇の感触、やさしい声音。 あの時、見舞いに来てくれたのは壱哉だったのではないか。 新の中には、ずっとその疑問があった。 けれど、確かめるのが怖い。確かめたくない。 もし『そうだ』と答えられたら、もう壱哉に身も心も委ねてしまいそうな気がした。どんなに酷い事をされても、それを心から悦んで受け入れてしまいそうなのが怖かった。 もし『ちがう』と答えられたら、壱哉が平然と嘘をつく事を思い知らされてしまう。酷く苛んでいる時も、優しくしてくれている時も、壱哉の全てが信じられなくなってしまう気がした。 だから――新は、その疑問を心の奥深くに仕舞い込んだ。 『忘れてしまえ‥‥』 壱哉の、どこか優しい口調が思い出される。 「いやだ‥‥‥」 新は、首を振って蹲った。 壱哉の言葉通り、何もかも忘れて、抱かれる事以外何も考えなくなれば楽になれるのかもしれない。 けれど、壱哉と過ごしたあの短いひと時が、新にとって幸せな時間だった事は確かなのだ。 それに、時々見せてくれた不器用な優しさは、確かに壱哉の中にあったものだ。何故か新は、そう確信していた。 だから、忘れない。 たとえ壱哉自身が、自分の中にあるものに、本当に望んでいるものに気付いていなかったとしても。 いや、だからこそ忘れない。 新が忘れた瞬間に、あの日々は、全ては消えてしまうから。 あの、優しくて、時には世間知らずな事を言う『壱哉』は、確かにいたのだ。 壱哉自身が忘れてしまっても、なかったものだと思い込んでいても、あの時間を楽しんでいた『壱哉』は確かに存在していた。そして、壱哉と過ごす事で確かに満たされていた新も。 だから、絶対に。 こんな風に暗い地下室に閉じ込められていても、身体を壊す程に苛まれても、この意識が続く限り、あの時間の事は忘れない―――。 |
END |
‥‥一体何を書きたかったんでしょう?ちょっと消化不良でした。陵辱EDでも、新はやっぱり壱哉が大好きなんではないかなと思います。と言うか、あのEDだと新がかなり壱哉に依存してるように見えたもので。あれはあれで、樋口のEDなんかより社長は満たされてるんじゃないだろうか?