あなたの側に
ふと、明るい光を感じ、新は目を覚ました。 目を開くと、ごく薄い上質のカーテンを透かして明るい朝日が射し込んで来ていた。 「あ‥‥‥」 見慣れた自分の部屋ではなかった事に戸惑う頭の中へ、徐々に昨夜の記憶が甦って来る。 バイトから帰った新は、ガラの悪い男達に力ずくで廃倉庫に連れ込まれた。そればかりか、身体で借金を払え、と犯されそうになった。 その男達から助けてくれたのは、何故かそこに現れた壱哉だった。 もう行く場所もなくて、連れて行かれるまま、壱哉のマンションに転がり込んだ。 怒りと恐怖、そして何よりこれからへの不安にどうしていいのか判らなくなっていた新に、壱哉は事もあろうに薬を盛った。 「‥‥‥‥‥」 その後の事を思い出して、新は思わず赤面した。 眠っている間に媚薬を使われ、意志とは裏腹に新の身体は今まで感じた事もない程昴って行った。 言葉では拒みながら、身体は壱哉の慣れた愛撫にあっさり昴ってしまい、いいように弄ばれた。 そればかりか、薬が切れた後も、行為の直後だった為か壱哉の手に反応してしまい、風呂の中でもう一度抱かれたのだ。 新は、そっと頭を巡らして、隣で眠る端整な顔立ちの相手を見詰める。 彫りの深い顔、色白できめの細かい肌に、長い睫毛が影を落としている。 目を閉じていると、あのきつい瞳がない分、壱哉の顔は普段より子供っぽく見えた。 「ほんとに‥‥‥馬鹿みてえ」 まだ眠っている壱哉を起こさないように口の中で呟いた新は、今までとは違う理由で耳まで真っ赤になった。 風呂の中でも犯され、自分の無力さと自己嫌悪に新は泣いた。 弱音など吐くまいと思っていたのに、意志とは関係なく涙が流れた。 そんな新を、壱哉は‥‥黙って抱き締めた。 からかい、嘲りながら新を犯した時とは全く違う優しさで、そっと口付けて来た壱哉は、自分の行為を悔やんでいるように見えた。 後悔するくらいなら最初からしなければいいのにと思ったけれど。 シャワーの湯で誤魔化していた壱哉の涙を見た時、新にはなんとなく判った。 彼は、こんな方法しか知らないのだ。 まだ若いのに『社長』として働いていて、頭が良くて色々な事に詳しくて‥‥それなのに、普通なら知っているはずのごく一般的な常識を知らない。 きっと壱哉は、自分が本当は何が欲しいのか、そして手に入れるにはどうすればいいのか、それが判っていないのだ。 今まで、壱哉は新にとって尊敬や憧れの対象であり、手が届かない程上に立っているのだと感じて来た。 いつも壱哉は自信に満ちた表情で、不安や戸惑いなどとは全く無縁な存在だとばかり思っていた。 しかし、涙を流しながら自分をただ抱き締めている壱哉は、酷く脆く、危うい存在に思えた。 途切れ途切れの声で詫びを口にする壱哉に、新は自分の中の怒りもわだかまりも、嘘のように消えてしまうのを感じた。 いや、そればかりか胸の中が、何かとても暖かいもので満たされて行くようだった。 それは、父も母も側にいてくれた幼い日々、何の不安も知らなかった幸せな頃の気持ちに似ているようにも思えた。 その後、二人は同じベッドに入った。 これからの事などを話しながら、どちらからともなく眠ってしまったのだ。 そんな事を思い出すと、新は照れくささや恥ずかしさで居たたまれないような気持ちになった。 第一、壱哉が目を覚ました時、一体どんな顔をすればいいのだろう。 しばらく、困ったような顔で壱哉の寝顔を見ていた新は、ふと、ある事を思い付いて小さい笑みを浮かべた。 新は、そっと、壱哉を起こさないようにベッドから抜け出した。 吉岡との少しの押し問答の後、新はきちんと整頓されたキッチンに立っていた。 プロの厨房並み、とは言わないが、殆どの器具は揃っている。シンクとガスコンロしかなかった新のアパートとはえらい違いだ。 鍋類などの器具も良く使い込まれ、丁寧に手入れされていた。 あの常識はずれな壱哉が料理をしていたとは思えないから、吉岡が料理をしていたのだろう、と見当が付いた。 当の吉岡はキッチンの入り口の辺りに立ち、心配げな顔で新の動きを見守っている。 多少居心地の悪いものを感じながらも、新は手際よく朝食の準備を進めて行く。 そんなに難しい料理が出来る訳ではないが、壱哉が美味しいと言ってくれた、母譲りの味を作ろうと思った。 必要に迫られてしていた事だが、元々、料理は嫌いではない。 料理に集中していると、嫌な事も何も考えずに済む。 だからいつも、苛ついた時などは良く料理をしていた。もっとも、金がないのが一番の理由ではあったが。 慣れた手つきの新をしばらく眺めていた吉岡は、小さくため息をついた。 「それでは、ここはお任せします」 吉岡は、どこか苦い笑みと共にそう言った。 「あ、うん‥‥‥」 どう答えればいいのか困惑しているうちに、吉岡は出て行ってしまった。 一人になって、新は多少なりとホッとしながら料理に注意を戻した。 が、いくらも経たないうち、唐突に扉が開かれた。 「新!」 「うわっ!?」 つい、集中していたせいだろうか、突然の壱哉の声に、新は思わず味見用の皿を取り落としそうになってしまった。 まず、勝手に借りていた壱哉のシャツを汚さなかった事に安堵して、次に台にこぼしてしまった汁を慌てて拭く。 そんな新を見る壱哉の表情は、酷く不安げなものから徐々に落ち着きを取り戻して行くのが判った。 ―――まるで、置いて行かれた子供みたいだ。 新は、そんな事を思った。 年上の人間に対する形容ではなかったが、確かに、その時の壱哉の表情はそれ程気弱で、まるで泣きそうにさえ見えた。 いつもポーカーフェイスだと思っていた壱哉がこんな表情を見せるのが意外で。けれどそれだけに、壱哉が心の中に抱え込んでいる昏い部分がいかに大きいのかを思い知る。 「突然いなくなって、俺の心臓を止めたいのか?」 「‥‥ばっか」 壱哉の言葉に呆れた新だが、そんな馬鹿な事を大真面目な顔で言う壱哉が少しだけ痛ましくなる。 一緒にいる、そう言った相手が消えたと思っただけで、彼はこんなにも平静をなくしてしまったのか。 そんなにも壱哉は、『側にいてくれる』存在を欲していたのか。 新がずっと側にいて、毎日の食事を作る事が、巨額の借金と学費、そして生活費の対価だなどと臆面もなく口にする壱哉に更に呆れたけれど。 生活には何の不自由もない壱哉の心の乾きが、新には少しだけ判るような気がした。 誰かに側にいて欲しい。 それは、どんなに金を積んでも惜しくないもの。けれど、決して金では手に入らないもの。 唐突に抱き締められて、まだ照れくささが残っていた新は思わずもがきかけた。 しかし、失う事を怖れるように強く力を籠めて来る壱哉に、新は、自分まで切なくなるような気がした。 ずっと側にいて欲しい。 そんな気持ちが触れた身体から、直接伝わって来るような気がした。 それは、新の中にもずっとあった気持ちだった。 目覚めると、父と母が自分を置いてどこかに行ってしまっていたあの朝。 あれから新は、ずっと一人で暮らしていた。 一人でも全く寂しくないのだと自分自身にも嘘をつき続け、いつしか本当にそう思い込んでいた。 けれど、心の奥底ではずっと望んでいた気がする。 ずっと側にいてくれる、大切な人の存在を。 苦しい程抱き締めて来る壱哉の背中に、新はそっと腕を回した。 「ずっと、黒崎さんのそばにいるから‥‥‥」 そう言うと、壱哉の腕の力は更に強くなった。 「‥‥だからもう、二度と寂しそうな顔なんかするなよな」 ―――俺も‥‥もう、寂しくなんかないから‥‥‥。 声には出さず呟いて、新は壱哉の背中に回した腕に力を籠めた。 |
END |
いきなりの新妻ルック(笑)に鼻血を吹きそうになりまして。なんで朝飯の支度かな、と思って書いてみたんですが、なんだか訳判んなくなりました。
しかし新がごそごそやってても気付かないなんて、壱哉は朝に弱いんだろうか?