目の前に迫る刃。
 避けなければならないと、頭では判っているのに体が動かない。
 本気で向けられる強烈な殺意に呑まれ、全身が竦んでしまっていた。
「新!」
 聞き覚えのある声がして、赤い影が目の前に割り込んだ。
 一呼吸遅れて、刺客がドサリと倒れる。
「大丈夫?」
 心配そうに振り返る、彼の真っ赤な服が、一瞬、返り血に染まっているかのように錯覚する。
 ‥‥‥勿論、彼が獲物の返り血を浴びるようなミスをするはずはないのだが。
 反射的に、敵に対するのと同じように身体が覚悟してしまう。
 そんな新の内心は、しっかり伝わってしまったらしい。
「ごめん。余計なことして‥‥」
 すまなそうに目を伏せて、彼が新から距離を取る。
 そんなつもりではない。
 実際、助けられなければ新は確実に命を落としていたのだ。
 しかし、礼どころか、言葉が何一つ出て来ない。
 刺客達が全て片付いて、穏やかな様子を取り戻す辺りを眺めながら、新はもやもやとした胸の内を持て余していた。


 幸雄から、崇文との組み手の提案があったのは、襲撃から数日後の事だった。
「崇文さんと‥‥?」
 新は、それ以上言葉がなくなってしまった。
 崇文が強いと言うのは判る。
 新も、今のままでは降りかかる火の粉を払う事さえ出来ないと言う事も。
 しかし、崇文に対してのわだかまりは消えていない。
 何の躊躇いもなく、まるでゴミでも捨てるのと同じ簡単さで人を殺せる彼。
 彼が、それだけを教えられて育った事も、今まで他の世界を全く知らずにいた事も知ってはいた。
 それでも、人の命の重さを繰り返し説かれ、修行を続けて来た新には、崇文は許し難い存在に思えたのだ。
 答えられずに固まっている新に、幸雄は苦笑した。
「‥‥まぁ、君の気持ちはわからないではないけど。でも、このままじゃ駄目だってことはわかってるよね?」
「‥‥‥‥‥」
「崇文くんにも、もうちょっと手加減を覚えてもらわないと困るし。そうすると、君たちで組み手をしてもらうのが一番なんだ」
 にこにこと、子どもに言い聞かせるような口調で言われると、それ以上意地を張れなくなってくる。
「じゃあ、午後一時に、道場でね?」
「あ‥‥‥」
 強引に時間と場所を告げ、幸雄はさっさと行ってしまう。
「‥‥‥‥‥」
 思わず、深いため息をついてしまう新だった。
 ―――――――――
「じゃあ、二人とも準備はいいね?」
 にこやかに、幸雄が二人の顔を見比べる。
「双方とも、使う武器は自由。新くんは、とにかく崇文くんの動きを止めること。崇文くんは、新くんを絶対に傷付けないで動きを止めること」
 幸雄の言葉に、新は不満そうな顔になる。
「なんかそれ、不公平じゃねえの?」
 しかし、幸雄はにっこりと微笑んだ。
「だって、崇文くんには『人を殺さない』ような手加減を覚えてもらわなきゃならないからね。それで、いいよね?」
「うん‥‥がんばる」
 こくり、と頷いた崇文は、壁に掛けられている武器を見回した。
「えーと‥‥これは?」
 わざわざ戸棚の中から崇文が選ぼうとした武器を見て、幸雄は額を押さえた。
「崇文くん、暗器は禁止!」
「えー‥‥」
 使い慣れた点穴針やら峨嵋刺やらを手に、崇文は不満げな顔になる。
「これは、相手を『殺さない』ための訓練だってわかってる?」
「‥‥そっか」
 渋々、と言った様子で、崇文は戸棚を閉めた。
 そして崇文が壁から取ったのは、幅の細い双手剣だった。勿論、刃は潰してある。
 それを見て、新は中程度の長さの棍を選ぶ。
 双手剣の長い間合いにも対抗出来るし、逆に懐に入られても動きやすい。
 要所に薄く延ばした金属の板が巻かれていて、打撃力もかなりのものだ。
 それぞれの武器を携えて、新と崇文は向かい合った。
「じゃあ、二人ともがんばってね。‥‥‥はじめ!」
 幸雄の気合いと同時に、二人は距離を取って武器を構えた。
 しばしの睨み合いの後、先に動いたのは崇文の方だった。
 舞うように二本の剣を操り、容赦のない動きで新に襲い掛かる。
 一メートル近い長さの剣を片手で軽々と扱う崇文の腕は、相当なものだった。
 片方で牽制し、怯む所をもう片方で腕なり、足なりを狙う。
 刃挽きをしてあるから、急所さえ狙わなければみみず腫れが出来る程度だ、そう考えたのだろう。
 しかしそれは、間合いを正確に見切れる新には無意味だった。
 まだ荒削りだが、拳法に関しては天才的な才能を持った新にそんな小手先の技は通用しない。
 刃を紙一重でかいくぐり、逆に新の棍は正確に崇文の急所を狙って来る。
 打撃力のある棍にまともに打たれれば、一時的に戦闘力を失ってしまうだろう。
 白い刃と、黒い棍の激しい応酬が続く。
 だが次第に、崇文の動きに余裕がなくなって来る。
 元々、隙を突いて一撃で敵を仕留める暗殺術を仕込まれて来た崇文は、こうして一対一で、しかも手加減しながらの戦いには慣れていない。
 数知れない実戦を経験して来たからこそ、新の攻撃を本能的にかわしているに過ぎない。
 肩口を狙った刃を易々と避け、新の鋭い突きが崇文の鳩尾を襲った。
 とっさに飛び退がって間合いを空け、まともに入るのを辛うじて避ける。
 間髪を入れず鋭い攻撃を仕掛けて来る新に、崇文の目がすうっと細められた。
 その顔から一切の表情が消え失せる。
 黙って二人を見守っていた幸雄の表情が引き締まった。
「‥‥っ!?」
 今までとは比べ物にならない崇文の素早い動きに、新の表情に驚きが浮かんだ。
 目、喉、手首‥‥自由を奪う急所へ、一切手加減なしの攻撃が送られる。
 あまりのスピードに、避ける余裕すらなく、棍で弾き返すのが精一杯だ。
 今までとは別人のように容赦のない、激しい攻撃に、新は防戦一方に追い込まれる。
「くそっ‥‥!」
 見上げれば、表情のない、ガラス玉のようにさえ見える瞳が向けられている。
 そして、まるで鋭い刃を突き付けられているような冷たい殺意。
 この前、刺客達が向けて来たものとは比べ物にならない程強烈なそれに、本能的な恐怖が突き上げる。
―――殺される‥‥っ!
 竦んでしまった新の喉元に、必殺の突きが送られた。
 刃挽きはしてあっても、このスピードで突かれれば命はない。
 新は、死を覚悟して身を固くした。
 だが。
 甲高い音がして、新の喉に突き立とうとした刃が黒い盾のようなものに遮られた。
「はい、そこまで」
 のんびりしているようにも聞こえる言葉が掛けられる。
 瞬きをして見上げた新は、刃を阻んだのが幸雄の鉄扇だった事に気付く。
 もう一本の鉄扇は、崇文の視界を塞いでその動きを封じていた。
「まったく‥‥『殺さない』ための訓練だって言っただろ?」
 幸雄は、鉄扇をくるりと閉じると、崇文の額をぺしんと叩く。
「〜〜〜〜!」
 結構痛かったのだろう、崇文は涙目になって額を押さえた。
 その崇文からは、もう、あの冷たい殺気は消えていた。
 苦笑してもう一本の鉄扇も収めた幸雄は、柔らかな表情で新を見詰めた。
「君の腕は大したものだけど。実戦だと、相手は本気で殺そうとしてくる訳だからね。それを殺さずに済まそうとするなら、こちらもそれなりの覚悟で戦わなきゃならないんだよ」
「‥‥‥‥‥」
 幸雄の言葉に、新は考え込んでしまった。 
「今日はとりあえず、どっちも負けだね。これじゃ先が思いやられるから、毎日一度、組み手をすることにしよう。店の仕込みをする前の方がいいから、朝ご飯が終わった後。それでいいね?」
 強引にも聞こえる幸雄の言葉だったが、新と崇文は頷いた。
「敵の襲撃はいつあるかわからないんだから、早く戦力になってもらわないと。じゃあ明日から、二人ともがんばってね?」
 にこやかにプレッシャーをかけてから、幸雄は道場を出て行った。
「‥‥‥ふぅ」
 ひとつ、息を吐いて、新は木の床に座り込んだ。
 そう張り詰めていた自覚はないのだが、何となく疲れてしまった気がした。
「あ、あの」
 その前に、ちょこんと正座するようにして崇文が座った。
「さっきは、ごめん。俺‥‥戦いはじめると、見境なくなるから‥‥‥」
 崇文は、しょんぼりとうなだれた。
 さっき、本気で新を殺そうとしてしまったのを悔やんでいるのだろう。
「‥‥‥いいよ。あんたが悪いんじゃねえし」
「でも‥‥‥」
「いいって。俺も、怪我した訳じゃねえんだから」
 新は、笑みさう浮かべて、崇文を見上げた。
 しょんぼりとした崇文は、まるで雨に打たれた子犬のようにも見えた。
 そう言えば、こんなに近くで、崇文をまともに見たのは初めてかも知れない。
 崇文がここに来てからも、それまでしてきた事が許せなくて、ずっと目を逸らしていた気がする。
「それより、こないだ。ありがとな、助けてくれて」
 新は、素直にそう言う事が出来た。
「そんなこと‥‥新が、死んじゃうのは嫌だから」
 ちょっと恥ずかしそうに、崇文が言う。
 今は殺そうとしただろうとか、揚げ足を取ってやろうかと思ったけれど、やめる。
 あまりにも長い間、殺し屋として過ごして来たから、崇文の中では、まだそちらの部分が強いのだろう。
 頭の中で考えている事が、行動を完全に制御出来ていないのだ。
 それに気付くまで、自分は、崇文に随分酷い事をして来たと思う。
「‥‥‥俺も、まだまだ修行が足りねーよなー‥‥‥」
 ごろり、と新は道場の床に寝転んだ。
 まだ少し火照っている体に冷たい床が気持ちいい。
「そうかな?新は、すごく強いと思うけど?あんまり強いから、俺、手加減できなかったし」
 真面目な顔で、崇文が新の顔を覗き込む。
「道場での腕じゃなくて。実戦とか、いろいろ」
 戦いの腕だけではなく、人間としても、自分はまだまだ未熟なのだと痛感する。
「がんばろうな、崇文さん」
 見上げると、崇文は何故か、とても嬉しそうな顔をした。
「うん!」
 子どものように頷く崇文がちょっとおかしくて、新は笑った。
 ずっと感じていた、崇文への嫌悪感に似たわだかまりが、跡形もなく消えている事に、新は気が付いた。




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