「はあぁぁ‥‥‥」 深い深いため息をついた崇文を、幸雄は不思議そうに見た。 「ため息なんてついて、どうしたんだい?」 「別に、なんでもないよ‥‥‥」 そう言う崇文の視線が、遊んでいる壱哉と新に注がれているのを見て、幸雄は合点した。 一番末っ子の新は、まだ小さいせいか兄弟の中でも一番可愛がられている。 あの、家事が致命的に不器用な壱哉でさえ、頑張って世話を焼いている程だ。 新の方も、料理の上手い長兄、穏やかな次兄、そして壱哉によく懐いている。 ‥‥‥つまり、崇文だけがあまり、新に懐かれていないのだ。 かなり年の離れている啓一郎や幸雄は父親のように思えるのだろうし、壱哉も年の割には大人びていて、頼れる『兄』に思えるのは確かだ。 それに比べれば、崇文は小柄で、女のようにも見えなくはない童顔である。 新にしてみれば、崇文はあまり『兄』と言うイメージではないのかもしれない。 そのせいかどうか、新は赤ん坊の頃から、他の兄弟がいる時にはそっちに行きたがって、崇文はいつも落ち込んでいた。 オムツを替えるにしても入浴にしても、壱哉より崇文の方が余程うまく出来るのに、である。 物心付いてからも、嫌っている訳ではないようだが、やはり一対一で崇文に世話を焼かれるのは好きではないらしく、すぐに壱哉の方に行ってしまうのだ。 同い年なのに壱哉ばかりが懐かれている状態に、崇文が落ち込むのも無理はなかった。 しかもこの前、幼稚園の友達に、誇らしげに壱哉を自慢したのはいいが、崇文の事は一言もなかったらしい。 確かに、崇文の見た目は『頼れる兄』と言うのとはちょっと違う気がする。 その話を聞いた時、つい幸雄もそう思ってしまったものだ。 「あの年の子どもは、兄貴とかを自慢したいものなんだよ」 なだめるように言う幸雄にも、崇文の表情は晴れない。 「それはわかるんだけどさ。でも、やっぱり俺って、兄貴らしくないのかなぁ」 血の繋がりとしては、全員が腹違いだから直接は関係ない。 だとすれば、やはり自分に問題があるとしか思えない訳で。 せめて兄貴らしく面倒をみてやろうと思っても、逃げられてしまうのだからどうにもならない。 「まぁ、兄弟なんだから。新だってちゃんとわかってるよ」 今の崇文に何を言っても追い打ちをかける事になりそうで、幸雄は珍しくも言葉を濁すしかない。 「はあぁぁぁ‥‥‥」 もっと深いため息をついて落ち込んでいる崇文に、最早かける言葉も見付からない幸雄であった。 そんな会話があってから、一週間程経った頃。 折しも、風邪が大流行していて、新は早速、感染されてきてしまった。 あまり丈夫ではない新は、こんな時は必ず真っ先に拾ってきてしまうのだ。 ところが、丁度その時、壱哉はグループのトップとしての交渉が入っており、幸雄は年若い壱哉の補佐としてついて行かなければならなかった。 先方まで行かなければならないから、どんなに急いでも二日はかかる。 折悪しく、啓一郎も別の仕事で三日程出張に行かなければならなかった。 結果、残されるのは寝込んだ新と崇文の二人きりである。 まだ幼い新を一人で寝かせておく訳には行かないから、今日は崇文は学校を休んでいる。 「本当に、大丈夫ですか?」 心配そうに啓一郎が崇文を見た。 「うん、大丈夫。俺、がんばるから!」 拳を握り締めて頷く崇文の表情が、少し悲壮に見えてしまった啓一郎である。 「あまり熱が酷いようなら、夜中でもいいですから私か幸雄さんに電話をしてください。崇文さんの食事は温めればいいように冷蔵庫に入っています。新さんのおかゆも、鍋で温めればいいようになっていますから‥‥」 余程心配なのだろう、啓一郎は細かい注意を与えて行く。 真剣な顔で聞いている崇文を見ていると、高々一晩の留守番をするとはとても思えない。 そこへ、新の様子を見ていた幸雄が降りてくる。 「今は、眠っているよ。氷枕とか、様子を見て代えてあげれば大丈夫だからね」 幸雄の言葉に、崇文は緊張した顔で頷いた。 何しろ、一晩とは言え、年少組二人だけで留守番するのは初めての事だ。 壱哉よりは遥かにマシではあるが、崇文も家事に向いているタイプではない。 そこに病人の看病をしなければならないのだから、崇文は、ただの留守番以上の覚悟をしているのだろう。 「明日はそんなに遅くなる気はない。さっさと片付けて帰って来るからな」 大人びた口調で言う壱哉を見ていると、確かに、崇文と同い年とは思えない。 「うん‥‥‥」 傍目にも固くなっているのが見て取れて、壱哉は少し呆れたものの、崇文の性格を考えれば無理はないのかもしれない。 「ほら、兄さん、そろそろ出なきゃ」 時計を見た幸雄が、啓一郎を促した。 「幸雄さん‥‥やっぱり‥‥‥」 「兄さんが行かないと話が進まないんですよ。だから、兄さんもさっさと片付けてくればいいんです」 物言いたげな啓一郎の背中を押すようにして、幸雄は強引に出発させてしまう。 「さて、僕らも行かなきゃね」 「あぁ、そうだな」 幸雄と壱哉も、慌ただしく出掛けて行く。 それを見送った崇文は、固い決意の滲む表情で頷いた。 「とにかく、俺ががんばんなきゃ!」 足音を忍ばせて二階に上がった崇文は、新の部屋をそっと覗いた。 新は、熱の為に赤い顔をして眠っている。 音を立てないように部屋に入ると、崇文は、額に置かれている濡れタオルがぬるくなってしまっているのを取り替えた。 する事もない‥‥と言うか、何も手に付かなくて、崇文は新のベッドの側に椅子を持ってきて座る。 少し荒い呼吸を聞いていると、ただの風邪だと言われていても、もしかすると重い病気なのではないかとも思えてきて、とても不安になる。 目を離すと、新がどうにかなってしまいそうで、崇文はじっと新を見詰めていた。 どれだけの時間が過ぎただろう。 ふと、目が覚めたのか、新が小さく咳き込んだ。 「新?大丈夫か?」 覗き込むと、ぼんやりと焦点を失った瞳が上げられる。 「‥‥‥いち‥にぃ‥‥‥」 掠れた声に、崇文の胸がずきんと痛む。 でもそれを我慢して、崇文は新の布団を優しく直してやった。 安心したような顔になった新は、また眠りに引き込まれてしまう。 新がこんな風に安心したのは、壱哉がいるのだと思ったからなのだろう。 新の寝顔を見ながら、崇文は心の中でため息をついた。 やっぱり自分は嫌われているのかな、などとまた後ろ向きの思考になってしまう。 壱哉に比べれば、自分はとても頼りがいがないと思う。 背だって、壱哉の弟に間違えられるくらいだから、そのうち新に追い越されてしまったらどうしようなどと考える事もある。 兄達のように何でもやってしまう程器用ではなくて、出来る事と言えば植物を育てる事くらいだ。 考えれば考える程、新に嫌われても仕方がないような気持ちになってくる。 無意識に、崇文は大きなため息をついてしまった。 まるでそれが聞こえたかのように、新が身じろぎする。 小さく咳き込んで、新はゆっくりと目を開いた。 今度はしっかりとした視線が、崇文に向けられる。 「あっ、えっと、ゴメン!起こすつもりはなかったんだ」 崇文は、思わずうろたえてしまった。 一人でじたばたしている崇文を、新は少し不思議そうに見上げた。 「あー、えっと、おかゆとか食べれるか?薬のむのに、なんか食べといた方がいいんだけど」 崇文の言葉に、新は少し考えてから、小さく頷いた。 「じゃ、じゃあ、ちょっと待ってて!」 崇文は、バタバタと部屋を出て行った。 その後ろ姿に、新がくすりと笑ったのだが、既に出て行ってしまっていた崇文は気付かなかった。 新が、温めたおかゆを食べているうち、崇文は氷枕を取り替える。 薬を飲み、少し汗ばんだパジャマを着替えると、新は再びベッドに潜り込んだ。 ベッドに入り、無心で見上げてくる新は、とても幼く見えた。 ついていてあげようか、そう言いたいのを崇文は堪えた。 いらない、と言われたら、再起不能になりそうだった。 「あ、俺、下にいるから。その方がゆっくり寝れるだろ?」 言うだけ言って、崇文は逃げるように部屋を飛び出した。 後ろを見ないようにしていたから、驚いたように崇文を見送った新が、少し心細そうな顔をした事に、崇文は気付かなかった。 その、夜。 崇文は、こっそりと新の部屋に様子を見に来た。 そんなに気になるのならついていればいいようなものだが、崇文は、すっかり、新に好かれていないと思い込んでしまっていた。 風邪のこんな時でさえ新に邪険にされたら、本当に嫌われていると決定してしまう。 だから崇文は、新が眠っているのを見計らって部屋に入った。 最低まで絞られている明かりに照らされた新の顔は、少しだけ苦しそうに見えた。 夜になって、また熱が上がって来たのだろうか。 額の濡れタオルに触れると、すっかりぬるくなってしまっている。 崇文は、音を立てないように気を付けながら、濡れタオルを冷たい水で絞って、そっと新の額に置く。 と、新がうっすらと目を開いた。 別に悪い事をした訳でもないのに、崇文は慌てる。 「あっ、い、今ちょっと見に来ただけなんだ。起こしちゃってごめんな」 言い訳のように言った崇文は、慌てて出て行こうとする。 しかし。 「‥‥‥え?」 服に抵抗を感じて、崇文は振り返った。 見れば、新がシャツの端を握り締めている。 心細そうな顔で見上げてくる新に、崇文は少し驚いてしまった。 「俺‥‥いて、いいのか?」 崇文の言葉に、新はこくりと頷いた。 その表情がいつもよりとても幼く見えて、崇文はどきりとする。 ベッドの脇の椅子に腰を下ろした崇文は、シャツをしっかりと握り締めている新の手をそっと握った。 「ずっと、ここにいるから。新が眠っちゃっても、ずっといるよ」 崇文の言葉に、新は、小さく笑った。 安心したのだろうか、そのまま、新は眠ってしまう。 片手の親指をしっかりと掴まれたままで、崇文はちょっと困って自分の手を見た。 離そうとするともっと強く掴まれてしまって、崇文は仕方なく、自分の手ごと新の手を布団の中に入れる。 反対の手で、少し苦労しながら布団を直してやった。 その気配にも全く目を覚ます様子がないのは、崇文がいる事で安心してくれているからだろうか。 崇文以外誰もいないから頼っているのかもしれないが、それでもちょっと嬉しかった。 薬が効いているのか、昼間よりは容態が落ち着いているようだ。 明日には、元気になれるといいのに。 そう思いながら、崇文は新の横顔を見詰めていた。 翌日の昼。 幸雄と壱哉は、仕事を早々に切り上げて、予定より早く戻って来た。 「おかえりー!」 まだパジャマ姿の新が走って出迎えてきて、二人は目を丸くする。 「あ、おかえり、兄貴。新!まだ寝てなきゃだめだってば!」 後ろから、崇文が慌てて走ってくる。 「せっかく治りそうなのに、また悪くなっちゃうぞ!」 「はーい‥‥‥」 崇文の言葉に素直に頷く新に、幸雄と壱哉は顔を見合わせた。 「‥‥‥兄さん。目論み通り、とか思ってるだろう」 崇文と一緒に部屋に戻って行く新を見送りながら、壱哉が言った。 「うーん。まあねぇ。僕も、ここまで効果があるとは思わなかったけど」 実は、啓一郎の出張は無理をすれば取りやめられない事はなかったし、壱哉だってまだ年若いから幸雄を代理に立てるのも不可能ではなかったのだ。 それを、幸雄か半ば強引に押し切ってしまったのである。 その理由は‥‥‥今までより、明らかに崇文に甘えている新を見れば納得出来る。 「これから、僕達は仕事でどんどん忙しくなるんだから、崇文に懐いてもらうにはいい機会だったと思うよ」 とても『策士』な兄の発言に、少し呆れてしまった壱哉であった。 ちなみに。 この後、新が元気になると同時に崇文が風邪をひいて寝込んでしまった。 そして今度は、新が実に嬉しそうに世話を焼いていた。 結局、新の認識の中では自分は『兄』ではなく、同レベルなのではないか、などと思ってしまった崇文がまた落ち込んだと言うのは、また別の話である。 |
おわる。 |