その日の昼前、晴彦が家に帰って来たのは、実に半月ぶりの事だった。
 大きなプロジェクトの追い込みがやっと終わったかと思ったら、すぐに学会での発表に引きずって行かれてしまった。
 だから晴彦は、発表が終わるとすぐに、一人で飛行機に飛び乗って帰って来た。
 既に次のプロジェクトの予定が入っていて、ゆっくりしていられる時間が殆どないから、正に寸暇を惜しんで帰って来たのだ。
「あー‥‥ひさしぶりにうまいもんが食いてえ‥‥‥」
 勿論、晴彦にとっての美味いもの、は啓一郎の料理である。
 啓一郎の手料理食べたさに、疲れているにも関わらず(珍しく)真っ直ぐ帰って来たと言う訳だった。
「帰ったぜー」
 家に入った時、晴彦は何となく違和感を感じた。
 今日は休日だから全員いるはずなのに、家の中は妙に静かだったのだ。
「あ!兄貴おかえり」
 奥から、洗濯物を抱えた新が晴彦を迎えた。
「ちょっと待って、これ洗濯機に入れちまうから」
 そう言って、新は走って行ってしまう。
「‥‥‥風邪ぇ?」
 リビングで、新に話を聞いた晴彦は、呆れた声を上げた。
 何でも、崇文がひきこんだのを皮切りに、新を除く全員が風邪をひいてしまった。
 啓一郎、幸雄、壱哉は仕事が忙しくて、休めずにいるうちにこじらせてしまったらしい。
 一也は最初元気だったのだが、学校でも風邪が蔓延しているらしく、幸雄が寝込むのと同じ頃に風邪をひいてしまった。
 おかげで、今家で元気なのは、幸いにも(と言うべきか)学校行事で数日泊まり込んでいて、家にいなかった新だけだった。
「崇文がひくような風邪なら、確かに強力かも知れねえなぁ」
 まるっきり他人事のような晴彦の言葉に、新はジト目になる。
 洗濯物を運んだり、バタバタしている新を横目に、晴彦はソファに大の字になって何もしていないのだ。
「言っとくけど、啓兄も寝込んでんだから、メシを当てにしてても無駄だかんな。俺は家の中のこととみんなの看病で、そんな余裕なんかねえし」
「なにーっっ!?」
 晴彦は血相を変えて飛び起きた。
 家での食事食べたさに必死になって帰って来たと言うのに、啓一郎どころか新の手料理すら食べられないと言うのだろうか。
「ほら、昼飯どれがいい?」
 並べられたのは、コンビニあたりから買ってきたらしいカップ麺だった。
「これが嫌なら、兄貴達に作ったお粥が残ってるけど」
「そんな病人みてえなメシが食えるか!」
 と、晴彦は言下に拒否したのだが。
「‥‥‥空しい‥‥‥」
 晴彦は、カップ麺を啜りながらため息をついた。
 粥でも、新の手料理である分まだましだったかもしれない。
 これでは、研究所に缶詰めになっている時と変わらないではないか。
「しかたないだろ、大の大人が四人も寝込んでるんだから!」
 新が、口を尖らせる。
 晴彦の気持ちも判らないではないが、少なくとも家事を手伝わない人間に文句を言われたくない。
「じゃあ、俺の特製風邪薬で全快させてやる!」
「‥‥‥それ、飲んでもいいものなのかよ?」
「まー、崇文か壱哉あたりで試してから‥‥‥」
「ダメだろ、それじゃ!」
 とんでもない才能がある研究者だと話は聞いているのだが、こんな所を見るとただのマッドサイエンティストのようだ。
 新は別のため息をついて、食べ終わったカップ麺の容器を片付け始める。
「とにかく、風邪の時は安静に寝てるしかないんだから。兄貴、邪魔しないでくれよ?」
「俺って信用ねえなぁ」
「そう言う行動してるのは兄貴だろ!」
 ぴしゃりと言って、新は洗濯機の方を見に行ってしまう。
「‥‥あー、なんてこった‥‥‥」
 晴彦は、ソファにひっくり返って深いため息をついた。
 寝不足を押して、あれだけ必死になって帰って来た自分が馬鹿のようだ。
「ったく、こんな時に風邪なんてひいてんじゃねーよ‥‥」
 晴彦は、不機嫌そうに呟いた。
 が、ふと、ある事に思い当たって飛び起きる。
「なんだ。幸雄まで寝込んでるんなら好都合じゃねえか」
 風邪で何日も寝込んでいるなら、着替えたり身体を拭いたりするではないか。
 『看病』と言う名目であれば、触り放題だ。
 さすがの幸雄も、風邪でパワーダウンしているだろうから怖くない。
 大体、啓一郎の手料理が食べられないのだから、この程度の役得はあってもいいはずだ。
 勝手にそう決めた晴彦は、打って変わって上機嫌な様子で立ち上がった。


「‥‥‥どうしてお前がいるんだ」
 実に不機嫌そうに、壱哉がベッドから顔を上げた。
「うるせーよ、新に聞け!」
 同じく実に不機嫌そうに、替えのパジャマと薬と水の入ったコップを持って来たのは晴彦だ。
 手伝う、と言ったら、実に嬉しそうに、壱哉の世話を任されてしまったのだ。
 新が着替えなどを手伝った時、ふらふらするだの上手く立てないだの言って壱哉が抱きついてきたりしたらしい。
 それに閉口していたから、晴彦の申し出に喜んで壱哉の世話を任せたと言う訳だった。
「どうせ、兄さん達が目的で看病なんて言い出したんだろう」
 さすがに、同類である壱哉は晴彦の下心などお見通しだ。
「お前に言われる筋合いはねえぞ。お前だって、自分が元気だったら俺と同じだろうが」
「‥‥‥‥‥」
 仏頂面のまま、壱哉は晴彦が持って来た新しいパジャマに着替える。
 その動きはまだ酷く怠そうで、色白の頬に血の気が上っているせいか、どこか艶っぽく見える。
 もっとも、同類の壱哉をそう言う目で見ていない晴彦は、これが啓一郎か幸雄ならどれだけ良かったかなどと考えていたりしたのだが。
 風邪薬を嫌そうな顔で飲み下す壱哉に、晴彦は面白そうな顔になった。
「何なら、俺様特製の風邪薬やろうか?」
 楽しそうな晴彦を、壱哉は苦い顔で見上げた。
「お前の作った薬など飲んだら、治るものも治らなくなる」
 晴彦の所の研究所では様々な薬も作っている(しかもその大半は、晴彦が実験の途中に偶然出来たものだったりする)のだが、それと晴彦当人を信用するかは別の話だ。
「なーんだ、残念」
 ちっとも残念そうではない顔で、晴彦が肩を竦めた。
「それじゃまぁ、おとなしく寝てろよな」
 壱哉が脱いだパジャマとコップを持って部屋を出ようとした晴彦は、ふと、思い付いたように足を止めた。
「これから、崇文のところに行くんだ。まぁ、本当は兄貴達が良かったけど、崇文でも楽しめない事はねえからな」
「崇文だと‥‥!」
 嬉しそうな晴彦の言葉に、壱哉の血相が変わった。
「お前に任せられるか‥‥!」
 怒りのままに飛び起きた壱哉だが、身体の方はまだ起きられる状態ではない。
 勢いでベッドから飛び出したものの、壱哉はその場にぱたりと倒れてしまう。
「あ、おい?!」
 からかうつもりで(半分は本気だが)言った晴彦は慌てる。
 抱え起こしてみると、壱哉はすっかり目を回していた。
「‥‥‥‥‥」
 やっぱり兄弟と言うべきか、晴彦はその情熱に感心してしまった。
 ちょっと面倒そうにしながらも、壱哉をきちんと寝かせてやった晴彦は、ひとつため息をついて部屋を出た。
 ―――――――――
「さ〜て、次は崇文だ♪」
 うきうきとしながら、晴彦は崇文の部屋へ向かう。
 風邪の病人にあまり過激な事をする気はないが、それでも少しぐらい楽しませてもらってもいいではないか。
「崇文〜、入るぞー」
 形ばかりのノックをしてから、晴彦は崇文の部屋に入る。
「あれ‥‥晴兄‥‥‥?」
 熱のせいか、真っ赤な顔が布団から覗いた。
「なんで‥‥?」
 不思議そうな崇文に、晴彦は笑って見せた。
「かわいい弟が風邪でダウンしたって聞いて、慌てて帰って来たんだぜ?」
 白々しい言葉だが、風邪で気が弱くなっている崇文は感動してしまったらしい。
「晴兄‥‥‥」
 熱のためばかりでなく目が潤んでいる崇文である。
「着替えるか?汗とかかいてたら気持ち悪いだろう」
 下心付きの猫なで声だが、それを疑う崇文ではない。
「あ‥‥うん」
 怠そうにしながらも、崇文はおとなしく身体を起こし、汗で湿ったパジャマを脱いで行く。
 晴彦は、それを目を細めて眺めている。
 こんな時でもなければ、着替えている様子をじっくり見る事など出来ない。
「身体、拭いてやろうか?」
 表面、真面目な顔をして晴彦は言った。
「うぅん‥‥大丈夫」
 熱のせいか、微妙に間延びした口調で、崇文が答える。
 乾いたパジャマに着替え、崇文はごそごそとベッドに潜り込んだ。
「大丈夫なのか?」
 晴彦は、少し赤い崇文の顔を覗き込んだ。
「うん‥‥‥」
「風邪ってのは、誰かにうつすと治るって言うからな」
「でも俺、みんなにうつしちゃったのに‥‥」
 崇文が、居心地悪そうに布団に潜り込む。
「日頃から身体に負担掛けてるあいつらは自業自得だ」
 あっさり切り捨てると、晴彦は息が触れるくらい近くで崇文の顔を覗き込む。
「簡単に風邪がうつる方法、知ってるか?」
「へ‥‥‥?」
 不思議そうな崇文に、更に晴彦が接近しようとした時。
「患者に負担を掛ける行為は謹んでいただけますか?」
 襟首を捕まれ、晴彦は力ずくで引き離されてしまう。
「なにしやがる‥‥っ!」
 憤然と振り返った晴彦は、涼しい顔で立っている白衣の男に舌打ちした。
「てめぇか。何しに来やがった」
「何しに、とはご挨拶ですね。往診に決まっているでしょう」
 青年医師は、さりげなく、しかし力ずくで晴彦を押しのけてベッドの側に寄る。
 日頃の激務のせいなのか、細身の体格に似合わず、青年医師はかなり力が強いのだ。
 黒い鞄を傍らに置くと、椅子を引き寄せてベッドの傍らに座る。
「‥‥まだ熱が下がりませんね。起きられますか?」
「あ、はい‥‥」
 のろのろと半身を起こした崇文のパジャマを捲り上げ、青年医師は診察を始める。
 普通に聴診器を当てたりもするのだが、肌を指や手で撫でたりしている時間が妙に長い気がする。
 戸口の方に追いやられた晴彦の機嫌がみるみる悪くなる。
「おい、いつまでさわってやがるんだ、このヤブ医者」
「おや、まだいらっしゃったんですか?ご家族と言えど、診察の時は遠慮して頂きたいのですが」
 晴彦がそこにいたのを承知していながら、青年医師は平然と言った。
 一通り身体を撫で回して気が済んだのか、青年医師はようやく崇文のパジャマを元に戻す。
「まだしばらくは安静が必要ですね。熱は辛いと思いますが、身体が抵抗している証拠ですから。解熱剤は新さんに渡しておきますから、あまり高いようでしたら飲んでくださいね」
 穏やかな笑みを浮かべ、青年医師は優しく布団を直してやった。
「それでは、お大事に」
 そう言って、青年医師は鞄を取って部屋を出る。
 部屋のドアを閉めると、晴彦は実に不機嫌な様子で青年医師を睨んだ。
「診察が聞いて呆れるぜ」
「薬事法に触れるような薬を常備しているあなたに言われるのは心外ですね」
 微笑した青年医師は、今度は啓一郎の部屋に向かう。
 その後ろを、不機嫌な事この上ない様子で晴彦がついて行く。
 啓一郎の部屋の前で足を止めた青年医師は、振り返った。
「何かご用ですか?」
 どうして晴彦が嫌がらせのように後ろについているのか承知していながら、青年医師は平然と聞いた。
「お前みたいなヤブに、危なくて任せておけねえから、監視してるんだ」
 さっきいい所で邪魔された、せめてもの意趣返しである。
「そうですか。見ているのは構いませんが、診察の邪魔だけはしないでくださいね」
 平然といなされ、晴彦は益々苦い顔になった。
 大体、人が見ているからと言って遠慮する彼ではない事は、晴彦も良く知っていた。
「往診です。入りますよ」
 ドアを軽くノックして、青年医師は啓一郎の部屋に入る。
 中では、啓一郎が怠そうに半身を起こす所だった。
「すいません。‥‥あ、晴彦さん‥‥ですか?」
 青年医師の後ろに付いてきた晴彦を見て、眼鏡をかけていない啓一郎が目を細める。
「あぁ。帰って来てみたら、新以外全員風邪でダウンしてたって訳だ」
「‥‥‥すいません、ひさしぶりなのに」
 啓一郎が、すまなそうに俯いた。
「今は風邪が流行っていますからね。仕方ありませんよ。‥‥まだ、少し熱があるようですね‥‥‥」
 青年医師は、啓一郎のパジャマを捲り上げ、熱っぽい身体に触れる。
「食欲はないでしょうが、多少は、口に入れていますか?」
「えぇ‥‥新さんがお粥を作ってくれるので」
「夜は、ちゃんと眠れていますか?」
 問診、と言えば聞こえはいいが、話している間中、青年医師は啓一郎の色白の身体を撫で回しているのだ。
 戸口で、黙って見ていた晴彦が、正に爆発する寸前、青年医師はやっと啓一郎から離れた。
「風邪は、安静に寝ているのが一番の特効薬ですからね」
 青年医師は、再びベッドに入った啓一郎の布団を丁寧に直してやる。
「ありがとうございました‥‥‥」
「いえいえ。私の仕事ですから。お大事に」
 仏頂面の晴彦を促すようにして、青年医師は啓一郎の部屋の外に出る。
「あれのどこが『仕事』だ。このヤブが」
 毒づく晴彦にも、青年医師は平然としたものだ。
「医師として、患者の体の状態を知っておくのも大事な仕事ですから」
 青年医師は、薄い笑みを浮かべ、晴彦を振り返る。
「‥‥もちろん、あなたが病気になった時にも、丁寧に診てあげますよ?」
 すい、と伸ばされた手が、からかうように晴彦の耳元を撫でて行く。
「俺は、お前みたいなヤブには絶対かかんねえからな!」
 更に伸ばされた手を振り払い、晴彦はきっぱりと宣言した。
「そうですか。それは残念です」
 動じた様子もなく笑う青年医師はやはり余裕たっぷりで、結局晴彦は面白くない。
 診察料は後で一括でいいと言う青年医師を早々に追い出し、晴彦はため息をついた。
 せっかく、美味しい思いをするチャンスが台無しになってしまった。
「ごくろうさま。先生についててくれたんだよな」
 まさか晴彦が、青年医師の監視に必死になっていたとは思いも寄らない新である。
「はい、お茶。やっぱり、兄貴がいてくれると助かるよ」
 にこにこ。
 新は、無邪気な笑顔で湯飲みを差し出して来る。
「ふふん、見直したろう」
 大した事をした訳でもないのに、晴彦は胸を張った。
「まーね‥‥‥」
 こうまで自慢されては、新も笑うしかない。
 晴彦は、熱い茶を啜りながら、家事を終えてやっと息を抜いたらしい新を眺めた。
 そう言えば、新はこうして元気なのだし、煩い幸雄は風邪で寝込んでいる。
 これは、誰にも邪魔される事なく新に手を出せると言う事ではないか。
「新、ちょっと‥‥‥」
 湯飲みをテーブルに置いた晴彦は、新の隣に移動する。
「な、なに‥‥?」
 何となく危険を感じ、新は逃げ腰になる。
「ずっと、兄貴達の看病と家の中の事やってて、疲れたろ?」
「別に、まだそんなに何日もやってるわけじゃないし‥‥心配性だなぁ」
 笑う新の顔を、晴彦は真剣な表情で見詰めた。
「お前は、いつでも頑張りすぎるんだよ。そんなんだと、今度はお前が倒れちまうぞ?」
「そんな心配、いらないって!」
 新としては、それ程ヤワな身体をしているつもりはない。
「でもお前、自分で思ってるより身体、弱いんだからな。一番風邪とかひきやすいだろう」
「それは‥‥‥」
 まぁ確かに、家族の中で風邪をひいたり寝込んだりするのは新が一番多い。
 今でこそ、部活などで鍛えていて風邪をひく事は減ったものの、それでもインフルエンザが流行したりすると真っ先に拾って来てしまうのだ。
 一也の方が、同じ年齢の時の新よりずっと丈夫だった。
「風邪は最初に治しちまうのが大事だからな。俺が診てやるよ」
「はぁ?」
 唐突な成り行きに、新は目を丸くする。
「診る、って、兄貴、医者じゃないだろ」
 新の疑問に、晴彦は自信たっぷりの顔で答えた。
「俺だって、医師免許の一つや二つは持ってるんだぜ?研究職ってのは、総合的知識がいるんだからな」
「へえぇぇ‥‥‥」
 晴彦が医師免許を持っていると言うのは初耳で、新は思わず感心してしまう。
「だから、おとなしく任せとけ」
 そう言って、晴彦は新の上着を脱がせにかかる。
「ちょっ、なんでハダカにならなきゃなんないんだよ!」
「服の上からで診察ができるか」
「そんなら、別にいいよっ!咳とか熱とか出てる訳じゃねえし!」
 新はじたばたと暴れるが、身体の大きい晴彦に最初から押さえ込まれていては逃げられない。
 あろう事か、晴彦は新のジーンズにまで手を掛けて、脱がそうとし始める。
「なっ、なんで下まで脱がなきゃならないんだよ!」
「ちゃんと、身体の隅々まで調べなきゃならないだろ?」
「それって、風邪に関係あんのかよーっ!」
 新が悲鳴を上げた時。
 とてつもない殺気を感じて、晴彦は突っ伏した。
 丁度、思いっきり新の身体に抱きついてしまった状態なのだが、それを喜んでいる余裕はなかった。
 直後、晴彦の髪を掠めて黒い物体が飛んで行く。
 みしっ、と音を立てて壁に突き立ったのは、フライパンだった。
 尖った縁が凶器のように、深々と壁にめり込んでいる。
 こんなのの直撃を受けたら、流血騒ぎどころではない。
 キッチンの方を見ると、肩で息をしている幸雄が据わった目でもう一つフライパンを握り締めている。
「はるくん‥‥‥」
 新に抱きついた姿勢のまま固まっている晴彦に、再びフライパンが襲いかかった。
「うわっっ!」
 顔面に向けてフライパンの縁がまともに飛んで来て、晴彦は大きく跳び下がるようにして逃げる。
 そんな晴彦を掠め、フライパンは、またも壁に突き立った。
 いつもの幸雄なら、丁度フライパンの底が命中するように投げて来るのだが、風邪でコントロールが出来ないのか、破壊力が数段増している気がする。
 今の幸雄を怒らせたら、命はないのではないか。
 あまりの迫力に、晴彦は、思わず壁に張り付いてしまった。
 しかし。
「‥‥‥‥‥」
「あっ、幸兄?!」
 それで力尽きてしまったらしく、幸雄がぱたりと倒れ込む。
 半脱ぎ状態の新と、倒れてしまった幸雄を見比べた晴彦は、舌打ちした。
「あー、ちくしょう!」
 口惜しそうにしながら、晴彦は幸雄を抱え上げた。
 どうしてこう、美味しいものと言うのは重なってしまうのだろう。
「兄貴は俺が運ぶから心配すんな」
「あ、うん‥‥」
 やっぱりそれでも心配そうに、新が晴彦を見上げた。
 そんな新に笑って見せ、晴彦は階段に足をかけた。
 新よりはマシとしても、馬鹿力と言う訳ではない晴彦には、大の男一人を抱えて階段を上るのは結構辛い。
 しかし、幸雄とこんなにも密着する事などまずあり得ないから、これはこれで役得と言えない事もなかった。
 すっかり意識を失ってしまっている幸雄はとても無防備に見えて、油断するとむらむらと来てしまいそうになる。
 もっとも、意識のない人間に悪戯するのは趣味ではないから(大体、反応がなければつまらないではないか)、晴彦は口惜しいながらもおとなしく幸雄を運ぶ他なかった。
 幸雄を部屋まで運ぶと、赤い顔をした一也が晴彦を迎えた。
 そう言えば、一也も寝ているんだった、と晴彦はため息をつく。
 幸雄をベッドに入れてから、しばらく眺めて楽しもうかと思ったのだが、そうも行かないらしい。
 一也が赤ん坊の頃、前髪を思いっきり引っ張られて以来、晴彦はどうも苦手になってしまった。
 更に、まだ子どもなのに、一也からは晴彦や壱哉と同類の気配がするのも理由の一つなのだが。
「あんまり、お父さんに苦労かけさせないでね」
 風邪で少し掠れた声で釘を差され、晴彦は黙り込むしかない。
 ため息をつきながら、晴彦は幸雄の部屋を後にするしかなかった。
 下に降りてみると、新はすっかり警戒してしまって、晴彦の手の届く範囲には入ってこない。
 しかも、新が忙しいせいか夕飯もコンビニ弁当で、晴彦は再び空しさを噛み締める事となったのだ。


 翌日の夕方、やっと元気になった啓一郎が、久しぶりにキッチンに立った。
 しかし、晴彦は次のプロジェクトのため、昼前には研究所から迎えが来てしまった。
 結局、晴彦が啓一郎の手料理にありつく事が出来たのは、更に半月後の事だった‥‥‥。


おわる。

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