その日、小学校から帰ってきた新は、何となく膨れっ面をしていた。
 崇文などは、年長のはずなのに、その迫力に何の声も掛けられずにいたくらいである。
 おかげで、夕食は何となく張り詰めたような静かな雰囲気になってしまった。
 そして、食後にリビングで、啓一郎の淹れたお茶を飲みながらくつろいでいた時。
「あのさ。なんで、ウチではカニたべないの?」
 ぴきっ。
 思い詰めたような新の言葉に、啓一郎が石化する。
 食事の最高責任者である啓一郎は見るのも駄目な程の蟹嫌いだったし、別に蟹を食べなくても日常何も困らないから、西條家の食卓に蟹が上がった事はなかった。
「えーと‥‥いや、なんと言うか‥‥‥」
 珍しくも答えに窮して、幸雄が口籠もる。
「‥‥学校で、何か言われたのか」
 だらしなくソファに腰掛けた晴彦が、珍しくも的を射た事を言う。
「そうなのか?」
 壱哉にも言われ、新はこくりと頷いた。
「カニたべたことない、っていったら、東くんにわらわれたんだ。びんぼーにんはものを知らない、っていわれた」
 ひくり。
 新の言葉に、壱哉と晴彦のこめかみに青筋が浮く。
 別に自慢するような金持ちだと言うつもりはないが、たかが蟹ごときで新が馬鹿にされるのは許せない。
 と、その時。
「‥‥‥蟹、食べにいきましょう」
 その発言が啓一郎のものだと、新以外の兄弟が理解するまでしばらくかかった。
「えっ、で、でも兄さん、蟹は‥‥」
「いえ。こんな事で新さんに肩身の狭い思いをさせる訳にはいきません!」
 そんなに大袈裟な事ではないのだが、啓一郎は悲壮な表情で拳を握り締めた。
「カニ‥‥ウチでも食べられるの?」
 初めての経験に、新は大きな目を見開いて啓一郎を見上げた。
 正直な啓一郎は思わず詰まったが、気力を振り絞って口を開く。
「‥‥こう言う事は早い方がいいですから。明日の夕食は、蟹を食べに行きましょう」
 顔面蒼白になりながらも宣言する、弟思いの長兄であった。


 翌日。
「‥‥大丈夫ですか、兄さん?」
 幸雄が、車のハンドルを握りながら、気遣わしげに助手席を見る。
「‥‥だ‥‥大丈夫です‥‥」
 真っ青な顔で、消え入りそうな声で啓一郎が言った。
 家で留守番していればいいようなものだが、みんながいないと嫌だ、と新がごねた為に同行する羽目になってしまった。
 兄弟達が向かったのは、所謂、蟹をメインに扱ったチェーンレストランである。
 大家族で、しかも啓一郎が蟹嫌いなのだから、わざわざ高級割烹の蟹尽くしでなくてもいいかと言う事になったのだ。
 だが、どちらかと言えばその選択は啓一郎にとって裏目に出たようだ。
「うっ‥‥‥」
 まず、店の正面にでかでかと掲げられた蟹の看板に、啓一郎は顔面蒼白になる。
 ただでさえ嫌いな蟹が、大人の背丈程もある巨大さで、しかも足やハサミを動かしているのだ。
「に、兄さん?!」
 思わず気が遠くなりかけて、よろめいたのを幸雄が支える。
「だ、だいじょうぶです‥‥」
 血の気を失った顔で言われても説得力がない。
 しかし、対照的に。
「うわ、すげー」
 新は初めて見るもののように、目を輝かせて見入っている。
「でっかいなぁ‥‥」
 その隣りでは、年上なくせに同レベルの顔をして崇文が見上げていた。
 実際、崇文も今まで蟹を食べた事はなかったりするのだ。
 その、物珍しそうな顔を見れば、心優しい長兄としてはこのまま帰る訳には行かなくなる。
「と、とにかく入りましょう」
 気力を振り絞って、啓一郎が言った。
 幸雄に支えられるようにして、啓一郎は店の中に入ったのだが。
「‥‥‥‥‥」
 チェーン店らしく、店の中には至る所に蟹があった。
 レジの隣りにはデフォルメされた蟹のキャラクターが置かれていて、客席を仕切る衝立にも蟹の模様がついている。
 ご丁寧にも、座敷席のガラス戸にまで、蟹の模様が描かれていた。
「車の中で休んでいた方がいいんじゃないか?」
 ストレスのあまりショック死でもしてしまうのではないかと思える啓一郎の様子に、壱哉が声を掛ける。
「いえ‥‥駐車場からは、蟹の看板が見えるので‥‥」
 確かに、あの大きな蟹の作り物は駐車場のどこにいても見える大きさだった。
「啓兄、だいじょうぶ?病気?」
 今にも倒れてしまいそうな啓一郎に、新は心配そうな顔になる。
 何となく言い出しづらくて、啓一郎が蟹嫌いである事は、誰も新に言っていなかった。
「いえ。だいじょうぶですから‥‥」
「病気、と言う訳じゃないからね?」
 やっと喋っているような啓一郎に、幸雄が言葉を添える。
「病気みてえなもんではあるけどな」
 小さな声で、晴彦が余計な事を言う。
 とにかく落ち着こうと、奥の座敷席へ向かおうとした時。
 丁度、厨房から出て来た店員が、手元を気にしていたせいか啓一郎と鉢合わせする。
 がっしゃ〜〜〜んっ!
 世の中と言うのはそんなもので、啓一郎は丸ごと茹でた蟹を何匹も、頭から浴びる羽目になってしまった。
 既に相当なストレスがかかっていた啓一郎に、この刺激は強烈だった。
「‥‥‥‥‥‥」
 ばったり。
 目を回した啓一郎は、気絶して倒れてしまった。
「に、兄さん?!」
 慌てて、幸雄が啓一郎を抱きとめた。
「啓兄?!」
 まさか蟹が原因とは知らない新と崇文も慌てる。
「と、とにかく僕は兄さんを連れて、一度家に帰るから。晴彦は手を貸して。壱哉、後は頼むよ」
「兄貴を連れて帰るくらいなら俺一人でもいいぜ?」
 妙に積極的に言う晴彦の下心など、幸雄にはお見通しだ。
 かと言って、新と崇文に晴彦だけを付けておくのもかなり不安がよぎる。
「君を野放しにしておくのは危険だからね。とにかく、僕達は一度帰って、また来るから」
 ぶつぶつ言う晴彦に手伝わせ、幸雄は啓一郎を連れて出て行ってしまった。
 真っ青になって飛んで来たマネージャーが、ひたすら恐縮して詫びて来るのを眺め、壱哉はぽりぽりとこめかみを掻いた。
「‥‥‥とりあえず、蟹でも食うか」
 実の所、壱哉も普段は蟹など食べる機会はない。
 啓一郎が嫌いな事もあるし、特に食べたいとも思わなかったのだが、せっかくの機会なのだから、楽しまなくては損と言うものだ。
「い‥‥いいのかなぁ」
 崇文が心配そうに出口の方を見る。
「いいんじゃないか?後から、兄さん達も戻ってくるから」
 幸雄がついているなら心配はいらない、と割り切って、滅多に食べられない蟹の事へ頭を向ける壱哉である。
 啓一郎には悪いが、彼が倒れてしまった事でマネージャーは顔面蒼白になっていた。
 この分だと、どうやら店の奢りで蟹を満喫できそうだ。
 その後、啓一郎を寝かせて幸雄と晴彦も戻って来て、長兄がいてはとても出来ない蟹三昧を楽しむのであった。
 ―――――――――
 家に戻ってから、啓一郎が蟹嫌いだと言う事を聞かされた新は、「啓兄がきらいなものならオレもきらいになる!」と健気な事を言いだした。
 兄思いの弟の言葉に、三男と四男は意味ありげな視線を交わす。
 新を馬鹿にした挙げ句、啓一郎をこんな目に遭わせた(この件に関しては本当は無関係なのだが)その同級生を、兄としてこのまま放って置くのは面白くない。
「二人とも、相手は子どもなんだからね?変な事をかんがえないでくれよ」
 妙に不安がよぎって、幸雄が釘を差す。
「そのくらいはわかってるぜ?蟹アレルギーにするような薬はまだ俺でもつくれねえし」
 その口調からすると、もしそんな薬が作れたとしたら、使うつもりだったのだろうか。
「俺達が、新の友達に何かする訳がないだろう?」
「そーそー。兄として弟の友達は大切にしなきゃな」
 表面、生真面目な様子で答える弟二人に、幸雄の不安は益々大きくなるのだった。


 後日。
 『新の友達の東くん』は、新の兄二人に食事に誘われた。
 美味いものを食べさせると言われ、連れて行かれたのは三つ星がつく高級レストランだった。
 今まで食べた事もなかったような高級料理を腹一杯食べた彼は、その後、親に『キャビア』だの『フォアグラ』だの高級食材が食べたいとせがんでは怒られる羽目になったと言う。


おわる。

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