「‥‥‥っ!」
 闇の中で目を見開く。
 全身が、嫌な汗に濡れている。
 サイドボードの灯りを点けると、見慣れた部屋が目に飛び込んで来る。
 大きく息を吐き出すと、ようやく、意識がこちらの世界に戻って来たかのようだった。
 今日は、大声など出さなかったろうか。
 軽く、頭を振ってベッドから抜け出す。
 もう一度、眠りに就く事は出来そうになかった。


 兄弟の中で、一番時間が不規則なのは三男だった。
 プロジェクトが終わったからと真夜中に帰って来る事もあれば、ふと思い付きで研究所に出掛けてしまう事もある。
 家の中でも、食事もせずにひたすら寝ているかと思えば、とんでもない時間に冷蔵庫を漁っていたりするのだ。
 そして今日は、夜、無性にコーヒーが飲みたくなって、リビングでいきなり豆を挽き始めていた。
 幸い、真夜中だから下で少々音を立てても兄弟達を起こす気遣いはない。
 研究所で安いコーヒーばかり飲んでいると、時々、一から淹れる美味いコーヒーが飲みたくなるのだ。
 滅多に使われないサイフォン式のコーヒーメーカーを引っ張り出し、アルコールランプに火を点ける。
 リビングの大きなソファを一人で占領してだらしなく腰掛け、煙草を薫らせながらコーヒーが抽出されるのを眺める。
 静かな部屋に、コポコポと小さな音だけが響いている。
「はー‥‥落ち着く‥‥‥」
 ここの所プロジェクト続きで忙しかったから、ようやく息がつけた気がする。
 自室と外以外での煙草はいい顔をされないから、誰もいない真夜中はのんびり煙草を喫うチャンスだった。
 と‥‥階段を下りてくる足音に気付いて、晴彦はそちらに視線を向けた。
 パジャマにガウンを羽織って姿を現したのは、壱哉だった。
 浮かない表情だけでなく、その顔色もあまり良くない。
「こんな真夜中に何をしてる」
 不機嫌そうに、壱哉は晴彦を見下ろした。
「見たらわかるだろ。邪魔の入んない所で心安らかなコーヒーブレイクだ」
「ふん‥‥‥」
 仏頂面で鼻を鳴らすと、壱哉は向かい側のソファに座った。
 ぼんやりと、湯とコーヒーの動きを眺めている壱哉を、晴彦は目を細めて見詰めた。
 壱哉が、幼い頃に西條貴之に何をされたのか、晴彦も知っていた。
 未だに首に他人が手を触れるのを嫌っていて、和式の布団には入りたがらない事や、時々悪夢にうなされている事も。
 だが、壱哉は何もないように必死に取り繕っているから、晴彦も、兄達も気付かないふりをしている。
「‥‥眠れねえのか?」
 声を掛けると、ぎろりと睨み付けられる。
「だったら、いい薬があるぜぇ。超強力睡眠薬!不眠症の奴も一分で熟睡できる強力なやつ。まぁ、二度と目が覚めねえかも知れないけどな」
「‥‥‥‥‥」
「でなきゃ逆に、カフェインの十万倍の効果を持つドリンク剤!マジで二十四時間働けるぜ?まぁ、頭や身体を使い続けて疲れるのはどうにもならねえから、結局休まなきゃならなくなるがな」
 楽しそうにアヤシげな薬の話をする晴彦に、壱哉は呆れた顔になる。
「たちの悪い通販のセールスか、お前は」
「人体実験の希望者はいつでも募集してるぜ?」
 ニヤリと笑う晴彦の言葉は、どこまで冗談なのか判らない。
 と言うか、晴彦の口から出ると冗談に聞こえないのが怖い。
 そんな事を話しているうちに、コーヒーの抽出が終わる。
 面倒そうにしながらも、晴彦はキッチンから自分と壱哉のマグカップを持ってくる。
「‥‥何の風の吹き回しだ?」
 いつもなら、自分以外の食器など幸雄に叱られないと運ばない晴彦の意外な行動に、壱哉は目を見張る。
「うるせえな、ついでだよ、ついで!飲まねえなら置いてくるぞ」
「あ、いや、ありがたくいただくが」
 壱哉の目の前に、湯気の立つコーヒーが置かれる。
 ゆっくりと啜った壱哉は、驚きに目を見張る。
 それは、今まで飲んだどんなコーヒーよりも美味しかった。
 料理を始め、どんなものでも美味しく作る啓一郎が淹れたものより美味しいと思う。
「ふふん、美味いだろ」
 ちょっと自慢げな口調で、晴彦が言った。
「あぁ‥‥お前にも特技はあるものだな」
「能ある鷹は爪を隠す、ってーやつだな」
 普段なら、何を馬鹿な、と笑い飛ばしているが、このコーヒーを飲んだら頷けない事もない。
「これだけ美味いコーヒーが淹れられるなら、休みの日とかやればいいだろう。みんな、喜ぶぞ?」
 家事に関しては、当番の時に最低限の事しかやらない晴彦だが、こう言う特技があるとなればもっと見直されるだろう。
「冗談じゃねーぜ、めんどくせー。人に飲ませるのにわざわざ出してられるか」
 身も蓋もない事を言って、晴彦はカップを傾ける。
「こうやって、夜中に人目を盗んで一人で飲むから美味いんだよ」
 かなり屈折した言葉に、壱哉は呆れた。
「大体、夜中にコーヒーと言うのもどうなんだ?お前こそ、眠れなくなるんじゃ‥‥」
 言いかけた壱哉は、思い直した。
「そう言えばお前、カフェイン中毒だったな」
「おう。コーヒーがぶ飲みしても熟睡できるぜ」
 全く自慢にならない事を、晴彦は胸を張って言う。
「大体、眠れねえんなら寝なきゃいいんだ。二、三日連徹してみろ、立ってても眠れるぞ」
 本当に自慢にならない事を言う晴彦を、壱哉は呆れて眺めた。
「‥‥‥お前の体の中、活性酸素で溢れてそうだな」
 当人の性格なのか、或いは研究者とはそう言うものなのか、好んで身体に負担を掛けているような晴彦は良く判らない。
「お前だって似たようなもんだろう?毎日残業続きだし、出張であっちこっち飛び回ってるし。俺に言わせりゃあ、会社経営なんて地味な仕事で苦労してるお前の方がわかんねえぜ」
 ある意味、的を射た言葉に、壱哉は詰まる。
「だが俺は、家でストレス解消してるぞ。やっぱり『家族とのスキンシップ』が一番だろう」
「それを言うなら俺だってそうだ。将来の楽しみもあるしな」
 顔を見合わせて、二人は意味ありげな笑みを交わす。
 色々な意味で、似た者同士の二人であった。
 コーヒーを飲み終えて、壱哉が小さな欠伸を洩らした。
「俺はもうちょっとここにいるけど、お前は明日も‥‥じゃねえ、今日も仕事なんだろ?」
「‥‥あぁ。そろそろ、寝る」
 眠気を催して来たのか、微妙にゆっくりとした動きで壱哉は立ち上がった。
「じゃあな‥‥」
「あぁ」
 ちょっと危なっかしい足取りで二階に上がって行く壱哉を、晴彦は黙って見送った。
 無事、寝室に着いたらしい気配を感じ、晴彦は息をついて視線を戻す。
 新しい煙草に火を点けて、空になったマグカップにコーヒーを注ぐ。
 普段は意識的に押し込めている記憶が、ストレスなどで表に出て来てしまうのか、壱哉は仕事が重なって、酷く疲れている時に良く悪夢を見るようだった。
 身体の方は休息を欲しているはずだから、今度はしっかり眠れるのではないか。
 そんな事を考えながら、晴彦はマグカップを傾けた。
 そう言えば、今まで、自分がわざわざ淹れたコーヒーを誰かに飲ませた事はなかった気がする。
「ってことは、壱哉が初めてかよ。もったいねえ‥‥‥」
 面白くなさそうに呟いた、晴彦の表情は、しかしどこか楽しそうにも見えた。


おわる。

top