二人っきりで

 夢を、見た。
 誰か、とても親しい人と一緒に歩いていて。
 とても楽しいのに、相手の顔が判らない。
 目を凝らしたら、逆に辺りはどんどん暗くなって行って。
 気付けば、真っ暗い中に立っていた。
 自分の手さえ見えないような暗闇の中に、たった一人で取り残されている。
 名前を呼ぼうにも、一緒にいた人の名前が思い出せなくて。
 どこかに誰かいないかと走り出す。
 けれど、走っても走っても、どす黒い闇は晴れる事はなかった。
 疲れきり、足を止めて蹲る。
 寂しさと心細さで泣きたくなる。
 自分はここに、たった一人なのだ―――。
「―――っ!!」
 見開いた目に、薄暗い天井が映る。
 空っぽになっていた頭の中に、徐々に現実が思い出されて来る。
 巨額の借金と引き換えにここに閉じ込められ‥‥壱哉の気紛れで、犯されたり、酷く苛まれたりしている。
 今回も、泣いて許しを乞うまで焦らされ、その後は気絶するまで苛まれたのだ。
 酷く重い腕を上げると、枷で擦られた痕が判る。
 多分全身にも、苛まれた痕が残っている。
 新は、冷たい板張りの床に蹲った。
 きっと、もう二度と、外に出る事は出来ない。
 ついさっき見ていた悪夢がまざまざと甦る。
 いや‥‥あれは夢などではなく、今の自分そのものなのだ。
「‥‥っ、く‥‥」
 思わず洩れそうになった声を、唇を噛んで必死に堪える。
 きつく目をつぶり、息を詰めるようにして全身に力を込める。
 そうしなければ、大声を上げて泣き出してしまいそうだった。
 ちゃり‥‥‥。
 鎖が小さく鳴る音がした。
 そっと、温かい腕が新の体に伸ばされる。
 新と同じように、この部屋で飼われている壱哉の『奴隷』。
 かなり前からここに閉じ込められていたらしい樋口は、壱哉に抱かれ、嬲られる生活にすっかり慣れてしまっているようだった。
 あまりにも長く放って置かれると欲望に狂って、壱哉に叱られるのも構わず新のものを求めて来る。
 普段も、ぼんやりと新を眺めているか、獣のように丸くなって眠っているだけだ。
 言葉の意味は認識しているようだが、自分は断片的な単語を口にする程度だった。
 新がこの部屋に連れて来られた時、ずっと焦らされ続けていたらしい樋口は理性をなくしてしまっていて。
 壱哉に犯され、男との行為を覚え込まされたばかりの新は、今度は強引に樋口の相手をさせられた。
 その後、ようやく欲望が収まってから、樋口はどこか舌足らずな口調で詫びて来たけれど、新は殆ど口を利かなかった。
 一方的な行為が嫌だったのは勿論だが、いずれは自分もこんな風になってしまいそうなのが怖かった。
 外の事も自分の事も何もかも忘れてしまって、抱かれる事以外何も判らなくなってしまう、そんな樋口の姿が自分に重なった。
「よるな‥‥よぉっ‥‥!」
 あの時を思い出し、弱々しく身を捩る。
 しかし、力の入らない体はいとも簡単に、腕ごと抱きすくめられてしまう。
 何より、この温もりが離れがたく感じて、力ずくで振りほどく事が出来なかった。
「さわんな‥‥ばか‥‥っ!」
 呻いたものの、最早逃れようとする程の気力も新にはなかった。
 包み込むような形で抱き締められ、新は身を固くした。
 けれど、今日の樋口は、それ以上何もして来なかった。
 ただ黙って、新の体を優しく抱き締めたままじっとしている。
「な‥に‥‥」
 身じろぎすると、宥めるように、頭を優しく撫でられる。
「おれ‥‥子どもじゃねえんだぞ‥‥!」
 怒ろうとした声は、自分でも情けないくらい力がなかった。
 樋口の手は、もっと優しく、新を撫でる。
「‥‥‥‥‥」
 新は、無意識に樋口の背中に手を回していた。
「っく、おれ‥‥」
 ずっと堪えていた嗚咽が洩れる。
 一旦堰が切れると、もう止まらなかった。
 新は、樋口に縋るようにして、大声で泣いた。
 何が悲しいのか、どうして涙が出てくるのか、判らないままに泣き続けた。
 泣き疲れて、声も出なくなった頃、ようやく新の涙は止まった。
 まだ少ししゃくりあげる背中を、樋口の手が優しく撫でる。
 人のぬくもりが気持ちいいと、そう思ったのは初めてだった。
 このぬくもりからどうしても離れがたくて、新はもう一度、樋口の体にしがみつく。
 すると、樋口も優しく抱き締めてくれた。
 その甘い優しさに、また涙が出そうになる。
 ‥‥この人は、どれくらいおかしくなっているんだろう。
 新は、ふと、そんな事を思う。
 もしかしてこの人は、こうして見えている程には狂っていないのかも知れない。
 ただ、全てを諦めてしまって。
 自分の気持ちも、言いたい言葉も、全部胸の奥にしまい込んで、ただ壱哉の望むように生きているだけなのかも知れない。
 いや、それを『おかしくなっている』と言うのだろうか。
 それとも、そんな事は新の思い込みで、本当に樋口は狂ってしまっているだけなのだろうか。
 それを、おかしく思えなくなっている新が、もう狂いかけているのかも知れない。
 でも。
 そっと見上げると、樋口は少し悲しそうな、でも、とても優しい表情をしていた。
 何故か安心して、新はもう一度、樋口の胸に顔を埋めた。
「‥‥樋口‥‥さん‥‥‥」
 こんな風に名前を呼ぶのは、そして体を繋ぐ以外にこんなに近く触れ合うのは初めてだった。
 樋口がもう狂っていたとしても、そうでなかったとしても。
 自分がとうにおかしくなっているのだとしても。
 そんな事は、もうどうでも良くなって来る。
 壱哉に『奴隷』として飼われている、この境遇が変わる訳ではないのだ。
 二人っきりで、死ぬまでこの部屋に閉じ込められて。
 それさえも、壱哉の気紛れでどうなるか判らない。
「こうして‥‥寝てもいい?」
 見上げると、答えは返って来なかったけれど、楽な体勢で抱き締めてくれた。
 優しいぬくもりに包まれながら、新は目を閉じた。
 少なくとも今度は、嫌な夢は見ない気がした。

END

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あらたかふみなんだから、やっぱ愛奴二人な話も書かなきゃなぁ、と思って書いてみました。‥‥でもこれじゃ、たかふみあらただなぁ。
いや、一度愛奴な二人は書いてみたかったのですよ♪一応、まだ新が連れて来られてそれ程経ってない頃です。