いっしょにくらそう
穏やかな日差しの下、静かな水面に賑やかな笑い声が響く。 一也は、あの病弱だった頃が嘘のように、元気にはしゃいでいる。 そんな一也に、まるで本当の兄弟のように接している壱哉を、樋口はどこか眩しく眺めていた。 壱哉が突然、この街から姿を消してしまい、吉岡を通じて、土地代は無期限で貸し付けると言われた。 おかげで、あの薔薇も見事に花開き、種苗メーカーから契約の話が相次いで、樋口は忙しくも嬉しい日々を送っていた。 礼を言わなければと思っていたが、きっと、住む世界の違う壱哉には、もう二度と会う事などないだろうと思っていた。 それだけに、今日、こうやってまた壱哉と会う事が出来たのが未だに信じられないような気がする。 樋口は改めて、壱哉の秘書から彼と引き合わされた時の事を思い出す。 吉岡から呼び出され、顔を合わせたのは、時々花を買いに来てくれていた青年と、いつも元気にバイトしているのを見かけた少年だった。 知り合い、と言う程親しくはなかったが、何度か言葉を交わした事のあるこの三人が、共に壱哉と関わっていたのは不思議な縁だった。 壱哉の誕生日を祝う為に樋口達にも協力して欲しい、と言ったのは山口で。 彼も樋口のように借金を抱え、色々とあったらしいが、今は壱哉を『家族』として迎えていると言う。 家族であり、息子であり、そして『恋人』でもあると言う壱哉との関係を聞いて樋口は少し眩暈を起こしてしまったけれど。 『黒崎君と、その‥‥色々あった、って言う事は吉岡さんから聞いているけど‥‥でも、黒崎君も、今までずっと苦しんで来たんだ。だから‥‥‥許してあげてほしい』 そう言う山口の様子を見ているだけで、壱哉が今、どんなに想われているのかが推測出来た。 勿論、樋口も新も、壱哉を恨んだり憎んだりする気持ちなどなかった。 色々あったけれど、壱哉がこの町を去ってから差し伸べられた援助は、彼なりの罪滅ぼしだったのだと思えた。 壱哉の不器用な優しさは、誰よりも樋口が良く知っていた。 そして、山口の提案で始まった、この『びっくりバースデーパーティー』。 久しぶりに会う友人は、今まで見た事もないような満ち足りた、明るい表情をしていて、樋口は目を見張ってしまった。 学生時代でさえ、彼の笑みには時折、陰りが混じっていた。 十年ぶりに顔を見せた時には、素直な笑顔さえ消えてしまっていたのに。 けれど、壱哉を優しい『父親』の表情で見守っている山口を見た時、樋口には何となく、判った。 壱哉は、ずっと欲しかったものを、やっと手に入れたのだ。 そう―――本当の『家族』と言うぬくもりを。 まるで、夢のように楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去ってしまった。 また、こうして会う事を約して、彼らは家路についた。 胸の内に、とても温かいものを感じて別れたのは、きっと樋口だけではなかったろう。 家に戻った樋口は、明るい色彩の大きな花束を手に、薔薇園の一角に立った。 一番日当たりが良くて、薔薇園全部を見渡せる小高い場所。 壱哉と一緒に看取ったサンダーの墓に、樋口は大きな花束を供えた。 「サンダー‥‥お前の最初のご主人様、幸せそうだったよ。あいつ‥‥やっと、欲しいものが手に入ったんだな」 薔薇の甘い香りを感じながら、樋口は目を閉じた。 思い出される壱哉の表情は、樋口が見た事もない程無邪気で、幸せそうだった。 学生時代のあの頃から、壱哉はきっと『家族』を求めていたのだと、あの顔を見て納得が行った。 ずっと寂しそうだった壱哉に、あんな素晴らしい笑顔を与えてくれた山口。 壱哉が、そんな相手に巡り合えた事は、本当に良かったと思う。 安堵と、幸せと‥‥‥そして何故か、ほんの少し、切ないようなものを感じて、樋口は戸惑った。 幸せな壱哉を見る事が出来て、自分はとても満足しているはずなのに。 ぽろり、と暖かい雫が頬を流れ、樋口はびっくりして目を開いた。 「え‥?なんで‥‥‥」 頬に触れると、それは確かに自分の涙で。 別に悲しくも何ともないはずなのに、熱い涙は、後から後から溢れ出て来る。 「おかしいな‥‥俺、こんなに涙もろかったかな?」 自分で茶化すように言って、樋口は腕で涙を拭った。 多分これは、嬉し涙なのだ。 二度と会えないと思っていた壱哉の、あんなにも幸せそうな顔を見る事が出来たから。 きっとそうに違いない。 樋口は、自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。 「今月もご苦労様!本当に新が来てくれて助かってるよ」 樋口は、嬉しそうに新に給料の入った袋を手渡した。 「そんな‥‥俺の方こそ、色々時間調整してくれてありがたいのに」 模試などの日は休ませてもらっているし、時間の都合がつかない時も、文句ひとつ言わずに調整してくれる。 時間があって薔薇園の方を手伝ったり、大きな飾り付けの仕事を手伝ったりした時は、特別ボーナスまで付けてくれる。 バイト先としては、破格な程好条件だった。 「来月もまた、頼むな!」 明るく言われ、新は慌てて口を挟んだ。 「あの‥‥俺、来月はちょっと模試の勉強とか忙しくて‥‥あんまり来れそうにねえんだけど」 新の言葉に、樋口は表情を曇らせた。 「そっか‥‥新も、色々忙しいもんな‥‥‥」 「あの、忙しくて大変だと思うから、別の人を雇ってもらってもいいよ。毎日来られないのは俺が悪いんだし‥‥‥」 「いや、そんな気はないよ。せっかく慣れてもらったのに、別の人を頼むのもなんだし。それに、そんな事したら、新は別のバイト探す事になるんだろ?」 「‥‥‥それはそうだけど‥‥‥」 目を伏せた新に、樋口は何か思いついたのか顔を輝かせた。 「そうだ!新、俺の家に住み込みで働かないか?そうしたら、時間がある時に勉強しながら店番しててくれればいいんだし。な、いい考えだろ?」 いきなりの申し出に、新は戸惑った。 金銭的に見ればこれはいい条件だった。 しかし、新にしてみれば、たかが数ヶ月働いていただけのバイトに、こんな事を言って来る樋口には呆れるばかりだ。 この数ヶ月で、樋口がとてつもなくお人好しである事は痛感したから、この申し出も不思議ではないのだが。 だからと言って、そこまで世話になってしまうのは、一方的に借りを作ってしまうようで嫌だった。 「でも‥‥俺、今の大家さんにも良くしてもらってるし。別に、あそこを出なくちゃならない理由がある訳じゃないし‥‥‥」 どこか言い訳めいた新の言葉に、樋口は慌てた顔になった。 「あ‥‥ご、ごめん。こんなの、押し付けがましかったよな」 樋口は、赤くなって手を振った。 「俺、結構、自分の気持ち押し付けちゃう所あるから‥‥ごめん。今言った事、忘れてくれ」 「そんな、俺は‥‥‥」 「バイトの事だったら、来れる時に来てくれればいいから。勉強の方が大切なんだから、無理はしないでくれよ」 樋口は、真剣な顔で新を見詰めた。 「‥‥‥うん‥‥‥」 目を伏せたまま、新は頷いた。 何故か、とてつもない罪悪感のようなものを感じてしまって、胸の奥がもやもやする。 それ以上、樋口と会話しているのが辛くて、新は早々に店を出た。 その後、樋口はあんな申し出の事など忘れたように、変わらない態度で新に接していた。 逆に、新の方が少し居心地が悪くて、かえってぶっきらぼうに接してしまうくらいだった。 そんな、ある日。 調べ物をしようと思っていた図書館が臨時で休んでいて、仕方なく新は、今日は休みだと知っていたけれど、樋口花壇に来てみた。 薔薇園の方でも、何か手伝える事がないかと思ったのだ。 しかし、薔薇園の中にあの目立つ姿はない。 「樋口さーん!」 呼んでみたのだが、樋口の答えはない。 出掛けているのだろうかと思いつつ、薔薇園の中を歩いていた新は、足を止めた。 薔薇園の一角で、樋口が壁に寄りかかるようにして座っている。 その姿が、何故かとても小さく見えた。 理由も判らず、苦しくなって、新は足早に樋口に近寄った。 どうやら、ぽかぽかとした陽気につられて眠ってしまったらしい。 「‥‥いくら自分の家の敷地、っつったって、無防備すぎねえか?」 多少なりと呆れて、新は樋口に近寄った。 「樋口さん!こんな所で寝てると、風邪ひくぜ?」 軽く、肩を揺する。 「ん‥‥‥」 眉を寄せ、小さく声を上げた樋口の顔を見た新は、ドキリとした。 どうしてこの人は、こんなにも悲しそうな顔をしているのだろう。 今まで樋口は、少なくとも新には、こんな表情を見せた事はなかった。 言葉もなく見守る新の前で、樋口はぼんやりと目を開けた。 「‥‥‥黒崎‥‥‥?」 呟くような樋口の言葉に、新は息を飲んだ。 現実と夢との区別がついていないような樋口の表情は、とても切なそうで。 新は、自分まで胸を締め付けられるような苦しさを感じた。 ようやく、目の前に立つのが新だと気付いた樋口は、大きく目を見開いた。 「あ‥‥新?なんでここに?」 樋口は慌てたように立ち上がった。 「予定がなくなったから、何か手伝う事ないかと思って。そしたら、樋口さんこんな所で寝こけてるし」 ぶっきらぼうな新の声に、樋口は怒っているのだと誤解したらしい。 「ご、ごめん。あんまり気持ちよかったから、つい‥‥。本当に悪かった」 頭をかく樋口は、いつもと何も変わらなくて。 それだけに、さっき、束の間見せた表情が酷く辛く思えた。 「別に怒ってる訳じゃねえよ。‥‥それより、何か夢でも見てたのか?」 新の言葉に、樋口は苦笑した。 「あ‥‥うん、ちょっと‥‥学生時代の頃の夢、とかね」 樋口は、こんもりと盛り上がった土の山を見詰めた。 そこには、今日も綺麗な花が供えられている。 「これ、サンダーの‥‥俺の飼ってた犬の墓だって、前に話したよな」 「あぁ‥‥‥」 確か、薔薇出荷の手伝いをしていた時、花が供えられているのに気付いて訊いた事があった。 公園で何度か見た事のある老犬の墓だと知って、少し寂しく思った事を覚えている。 「中学の時、こいつを最初に見つけたのが、黒崎でさ。それから俺、黒崎と友達になったんだ」 樋口は、その頃の夢でも見ていたと言うのだろうか。 「親父が死んでから、俺は、ずっとサンダーと一緒だった。十年ぶりに会った黒崎と初めて、まともに話ができたのは、サンダーが黒崎の事、覚えててくれたからで‥‥。とうとう、寿命で死んじゃったけど、最後に、黒崎が一緒に看取ってくれて‥‥だから黒崎、この薔薇園、残してくれたのかな、なんて思ったんだ」 「‥‥‥‥‥」 樋口の言葉は、酷く懐かしげで、でも、とても寂しげに聞こえた。 新は、樋口の横顔を見上げた。 「樋口さん‥‥黒崎さんのこと、好きだったのか?」 問われ、樋口は笑った。 「うん。好きだった。サンダーも、きっと黒崎が大好きだったと思うよ」 ―――そう言う意味の『好き』じゃなかったんだけど。 何のわだかまりもなく返って来た言葉に、新は内心でため息をついた。 まったくこの人は、なんてお人好しなのだろう。 きっと、樋口は本当に壱哉の事が『好き』だったのだ。 彼が本当に大切な人と巡り合ったから、自分の気持ちに蓋をして‥‥いや、全く気付かないふりをしてしまっている。 そして、本当はとても辛いのに、それも気付かないふりをして、何もなかったように笑っている。 樋口の本当の姿は、こんなにも寂しそうなのに。 思えば、樋口は今、本当に一人ぼっちなのだ。 新は、今は行方不明とは言え、この世界のどこかに両親が生きている。 いつか探し出して、会う事だって不可能ではない。 けれど樋口の両親は、とっくに死んでしまっていて。 唯一の家族だった愛犬も死んでしまって、この広い薔薇園をたった一人で守っているのだ。 そんな樋口の事を考えると、新の方が辛くなって来る。 嫌な夢を見て夜中に飛び起きた時、部屋の中にたった一人で、寂しくて、切なくて眠れなくなってしまった自分が、樋口にオーバーラップする。 樋口にも、あんな夜があるのだろうか。 だとしたら、そんな時は側にいてやりたい。 ―――俺‥‥‥黒崎さんに毒されたかな。 新は、小さく、ため息をついた。 放っておけない。 年上の人に持つ感情ではないかも知れないけれど、本当に、こんな人を一人にしてはおけない。 ここに自分がいるのだと、一人ではないのだと、そう言ってやりたい。 新は、そう、強く思った。 樋口の横顔を見詰め、新は、大きく息を吸い込んだ。 「樋口さん‥‥この前の話だけど」 「?」 樋口は、戸惑ったように新を見詰めた。 「色々考えたけど、確かに、ここに住み込み、っていいと思った。今日は、それを言いに来たんだ」 新の言葉は意外だったのか、樋口は目を瞬かせる。 「え‥‥いいのか?」 「樋口さんが住み込め、って言ったんだろ」 「そうだけど‥‥‥」 戸惑ったような樋口に、新は笑った。 「一緒に暮らそうぜ、樋口さん」 ストレートな言葉に、樋口は、少し照れたように笑った。 「うん‥‥そうだな」 一緒に暮らそう。 樋口の浮かべた、はにかんだような笑顔が、新にはとても眩しく見えた。 |
END |
ドラマCD・山口編を聞いていて、何となく頭で思い浮かべていた話です。しかし‥‥樋口よか新の方がよっぽど大人じゃないか(苦笑)。
一応、新も壱哉様に良からぬイタズラされて、例の性癖は知っている事になってます。だって、新だけ、「黒崎さんは親切でいい人!」って信じ込んでるのは不公平だし(苦笑)。
強引に仕上げたので展開が凄く強引なのは自覚してます(←おい)。それにしても、これをあらたかふみと言ってもいいのだろうか?(汗)前半なんか、ただ樋口がぐるぐるしてるだけだもんなー‥‥‥。