第71話神ながらの道 |
神道は、「神ながらの道」と呼ばれています。 神道や神ながらの道の解釈は、いろいろな説や考え方があるので、 そこには触れないで、私の感じていることと、口に出してとなえる と、神さまを呼ぶ呪文になることについて述べてみようと思います。 『神ながら』とは・・・、 神の御心であり、天地自然の道理でもあり、人知では計り知れない ご存在に対して、随(したが)いながら生きていくことであり、 その道が「神ながらの道」になるでしょうか・・・・ 私としては「神ながら」を「神さまとともに生きる」というとらえ方 が一番お気に入りです。 また、「神ながら」には、神さまにおまかせするという意味合いもあります。 目の前に起こることを裁かず、受けとめ、神さまに守られている ことを感じながら、自分の今できることにベストを尽くす。 そして、後のことには執着せず、結果は神さまにお任せするという 「人事を尽くして天命を待つ」生き方が、神ながらの道なのかも知れません。 ***** ***** ***** ***** 普通、「神ながら」は、「かんながら」「かむながら」と読みますが、 私は、そのまま「かみながら」と、口に出した方が、神さまと一体に なれる心地になります。 「か」には、「火」の上に上がる縦のエネルギーを感じ、 「み」は「水」の横に広がるエネルギーを感じるので、 「かみ」は「火水」で、縦横十字の神なるエネルギーが起こるのですね。 「かみながら」の言霊を何度もゆっくりととなえていると、外なる神 と自分の中にある内なる神の部分が、寄り添うような感じになります。 さらに、自分は神さまに包まれている幸せを感じ、 「何があっても大丈夫!」という安心感が出てきます。 神社や神棚で、「神ながら」と、称えると、神さまと自分の距離が 近づき、ともに喜びあえる「神人和楽」の境地になってきます。 ***** ***** ***** ***** この「神ながら」ですが、大中臣神道(朝廷の祭祀を司る)の復興 に努め、西郷隆盛の友人でもあった「芳村正秉(よしむらまさもち) 」 が、伊勢内宮の荒祭宮で、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)から諭された 言霊だということです。 倭姫命は、伊勢神宮を現在の地に定め、天照大御神をお祭りした 斎王で、神の神意を受ける巫女ですが、芳村正秉と倭姫命の間には 次のようなやりとりがあったとか・・・ 芳:「仏教では南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)という念仏がありますが、 神道では、それに代わる言葉は何でしょうか?」 倭:「それは『かみながら』です。」 芳:「本当にそれだけでよろしいのでしょうか?」 倭:「よろしい。かみながらは、神の大道の根本です」 ***** ***** ***** ***** と、いうことで、『かみながら』という言霊は、ヤマトヒメさまのお墨付き(?) もいただいている「神さまに近づける呪文」なんですね。 今や私にとっては、「おかげさま」「ありがたし」と並んで、シンプルな 三大五語神言?となっています。 皆さんも大いに『かみながら』をとなえて、神さまを感じてみませんか? おかげさまで、ありがとうございます。 (^_^) 山けん ※ 参考資料:山田雅晴著「大中臣神道の秘儀と神言」(たま出版) ![]() ![]() |