万世大路 烏川を上る


馬車を想定して造られた万世大路であるが
昭和8年から11年にかけて、自動車も通れる道路にすベく
所謂、昭和の大改良が実施された。

その際、奥羽線板谷駅から山を越え、烏川上流に達する
資材運搬用のとろ道が敷設された。

杜撰な計画によるものらしく
山越えを余儀なくされ、17段ものヘアピンカーブを作って
尾根越えをはかり、深さ6M、延長100Mもの切り通し開削という
難工事を敢行したという。

図書館等では資料が見つからず、
この位置について長らく謎のままであったが、
信夫山さんという方が収集した資料を公開してくれた。

先を争う訳ではないが、
ウォーターシューズの安物を手に入れたので
この時期にとりあえず烏川を遡行してみることにした。

ポケナビを携行するのを忘れたため
間抜た「お散歩」になってしまったが、
「切り通し探索」の一つのルートであるこのコースの
何らかのお役に立てるかとアップすることにした。
(お散歩日 H16.9月12日)



烏川橋の欄干であるが、年々劣化の度合いが高まっている。
 触るとボロボロとこぼれる有様である。
烏川橋から烏川を見下ろす。
 今年はなぜか川幅が広いなと思っていた。
ほどなく倒木に出会う。
 流れが変わったのはこの倒木によるものと思われる。
トリカブトの花が盛りと咲いている。
上流から胡桃のような物が流れてくる。
 栗でもないし何だろうなと思っていたら、トチノキになる実のようだ。
 熊の好物だったりしたらヤバイ。
最初の難所なりやと覚悟したが、どうと言うことはない。
このような箇所が3箇所くらいある。
 深さは2メートルはあるだろうという所が一つあった。
 この時期を選んだのは、場合によっては腰まで浸かることを覚悟したからである。
だんだんと川筋が細くなる。
 思ったよりも穏やかな川である。
 一休みしていると、バシッバシッという枯れ枝を踏みつけるような音がする。
 熊に出会った時と同じ音だ。その方向に向けて「うりゃー!」と大声を出す。
 その後、物音はしなくなった。異音を感じた時は、そうしたほうが良いと思う。
右岸・左岸に所々に広場が現れる。
 この川はいわゆる暴れ川ではなさそうである。
 とろ道は左右の平野部を縫って引かれたのではないだろうか。
いよいよ源流に近いと思われるような景色になってきた。
 ここまで実質的に1時間半というところだろうか。
ナビがあれば、谷あいとはいえ大凡の見当がつくのだが、地形図では見渡せないので無理である。
 「切り通し」から5〜60メートルの谷底へ資材を下ろしたと資料にある。
 人力トロで10分の1勾配の三段の道を造ったとあるが、そうすると一段あたり200メートルになる。
 とてもそんな地形ではない。あるとすれば、この下流であると判断して、ここで遡行を中止。
 (別な方向へ回り込んだと判断したのだが・・)
帰りがけ、先ほどの源流っぽい所をもう一度撮る。
 落差は5〜6メートルか。
行きの時は気づかなかったが、でけぇ石が転がっていた。
 ここから帰り道で烏川橋まで、実質50分くらいだろう。
何ら人工的な物は発見できなかったが、唯一この石の配列など、自然に出来たものとは思われない。
ようやく出発点の烏川橋の橋台が見えてきた。
 今回はポケナビを車のボンネットの上に忘れたのが最大の致命傷である。
 烏川の様子をうかがっただけに終わってしまった。
 しかし、特別な装備は必要とせず、深めの長靴で十分に探索可能であることが分かった。
 「運搬路の切り通し」探しは、このルートが一番良いのではなかろうか。


以下にメモと地形図と写真を参考にして作ってみた烏川源流である。
メモを川に落とすというヘマをして、はっきりしない所もあるので
あくまで参考のため・・と御了解願いたい。






追記

結論から言うと、最後の最後で烏川の本流に気を取られてしまった。
目指す三段ヘアピンとろ道は一本北側のラインだったのだ。

この遡行より2ヶ月後、「山さ行がねが」合同調査隊は無事に発見し
信夫山さんの推定が正しいことが実証された。

遅れること約半年後のH17年6月、F班長と共に「切り通し」を確認する事ができた。









70年前と70年後である。