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大平の小学校の分校があった所(と聞いているが)に車を置き、ここから東へ伸びる道を歩いて行くことにした。
帰りがけ、この建物を近くで見ようとしたら、昇降口らしき所が開き放してあったので、ちょっと中に入って見学させてもらった。幾つか部屋があって、畳が敷かれていたが、既に集会所としても使われてないようで、まったくの無管理状態であった。しかし、外観に違わず懐かしい造りであった。 |
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地形図にも載ってない遺跡?なので、ある程度カンで降りていくしかない。
周辺を見失わないように尾根筋を選んで降りていった。 |
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民有地と国有地が入り組んでいるのか、このような看板を初めて見かけた。
近くに境界線を示すコンクリート製の杭があった。 |
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遠く右奥にに現在使われている松川橋梁を見ることが出来た。
大体の位置は合っているようだ。 |
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同じ所から福島市街地を望むことが出来る。
街からこんなにも近いのに、なんという険しい山中であることか。 |
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ロープを使うほどの斜面ではなかったが、けっこうキツイ傾斜である。
左側斜めに走るのが松川である。この後、凄い斜面をトラバースすることになったが、進退窮まるような所でカメラどころではなかった。 |
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ようやく段丘の平地らしき所に出る。
周辺を見渡すと、「あったあった!」 |
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初代6号隧道の米沢側坑口に出てしまった。
百メートルそこそこの隧道の真上を歩いていたようだ。
ちょっと見当が違ったが誤差の範囲なのは上等の部類。 |
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ここを通りぬけて福島側に出ることにする。
当然ながら枕木もレールも残ってはいない。
落ち葉が吹き込んで絨毯のようになっている。
何箇所かレンガが薄皮一枚はがれたようになっているが、危険は全く感じない。
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第6号隧道の福島側坑口である。
全体としてきれいな、すっきりとした印象である。
おどろおどろしいという様な感じは全く無く、荒らされてもおらず、ゴミなども無い。
「綺麗に残っていた」と言う以外に言葉が見つからない。 |
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福島側坑口から振り返る。
松川対岸の初代5号隧道はここから直ぐである。ここに初代松川橋梁が架かっていた。 |
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初代の松川橋梁の橋台である。
1899年の開業であるから実に19世紀の遺物である。一部崩れかかってはいるものの、まだまだそのしっかりとした名残をとどめている。 |
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初代松川橋梁の橋台近くに何のための物か、磨り減った杭があった。
ロープでも回していたような杭である。打ち込んである金具も明治の物だろうか。 |
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また第6号隧道を米沢側に戻り、、第7号隧道を目指す。
第6号隧道から第7号隧道までは極僅かである。
明治43年の集中豪雨で山腹が滑り出し、この隧道(536M)が使えなくなってしまった。
復旧は無理だと判断して迂回ルートを造ることになり、翌年の完成まで、ここに仮乗降場が設けられた。ここから現在の赤岩駅まで歩き、また乗り換えをした訳である。
急坂を登り急坂を降りる徒歩道であったため、大人の足で40分を要したそうである。 |
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第7号隧道の坑口から左下側を流れる松川を望む。
使われているレンガは内務省鉄道庁の直営工場(板谷、米沢)で造られたものか、笹木野にあった煉瓦工場から購入された物であるという。 |
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坑口から80M程の所で崩落している。
万世大路の栗子隧道ほどの怖さは無い。 |
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この崩落現場からすぐ横に何のためか横穴が開いている。
ここを通って(ちょっと四つん這いになって)表に出る。 |
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右下の穴が出てきた穴である。
約2mの厚さくらいだろうか。
何故こんな造りになっているのか、支保工というものなのか、素人なので見当もつかない。 |
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出てきて、一山登ってきたところでF班長が見つけた。
まさか人間の骨ではあるまいな、と思いながらカメラを向ける。
比較的大きな動物のようだが、周辺にこれ以外の骨は見当たらない。
明るく開けた場所であったので、一瞬ぎょっとしただけで済んだ。 |
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先ほどの出てきた横穴のところを上から撮った画像である。
息が切れていたのでブレているが、PCに取り込んでアップしてみたら、驚いた。
煉瓦の壁柱の上にのっているのが、何となく動物の頭骨に見えないだろうか。
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第7号隧道の米沢側坑口を探しながら、急斜面をトラバースしてきたのだが、見つからずに赤岩駅が近づいてきてしまった。
この斜面がすごく、「どーすっぺ」と窮するくらいの処だったので見失ったのかもしれない。
コンクリートで塞がれているという話なので、まぁいいか、と諦める。
ここで明治42年6月12日、この先の環金トンネルに入った処であまりに列車が重いので、車輪が空転を起こし、後部補助機関車の機関士が蒸気と煤煙の為、窒息し、列車が逆走をはじめ、当時まだ信号所であった赤岩に突進、脱線転覆。機関員と旅客4名死亡、負傷30名という事故が起こったそうである。(慰霊碑は米沢駅構内に赤岩殉職記念碑としてあるという。) |
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以前のお散歩で行ったイラ窪に降りた山腹を望む。
右三分の一辺りの稜線がイラ窪への道である。(黒→で表示)
熊に出合ったのは真中あたりか。(白抜きのあたり)
よくもまあ、こんな変なところに行ったものである。
それに比べれば今回はマトモかな。 |
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