山崎峠の先に謎の廃墟が・・・


場所はこの辺です


国見町から宮城県へ抜ける県道(国見赤井畑線)は山崎峠で通行止めになっている。
H15年4月、山崎峠に車を置いて、消防団の同僚F班長とこの通行止めの区間を歩いて、
七里沢トンネルを抜け、石母田峠を戻り、ぐるっと一周したことがある。
その時のことだった。
山崎峠から七里沢トンネルまでの途中で一休みしていた時、
谷をはさんだ向かい側の山裾に何か見慣れないものを見たような気がした。
石積みの擁壁のようなもの・・・
砂防ダムでもあるのかと双眼鏡をとりだして見たが、
樹木に邪魔され、8倍のレンズではよく見えなかった。
どうもこの場所にはふさわしくないような・・・
そういえば、さっき谷側へ降りていく道があったっけ。
その記憶だけが残った。
今回、その道を降りてみようと思ったのは、ちょっとお散歩のつもりと
山菜の穴場でもないだろうかという気だった。
「山口屋的お散歩帳」のタネにしようなどとは全く考えなかった。




黒の矢印が七里沢トンネル方面を指す。これでも一応通行止めではあるが県道である。
この道から白矢印の方へ降りていく。
少しの間、ぬかるみは残るものの、二人が並んで歩けるくらいの道幅がある。
だんだんと草木に邪魔されるようになるが、道を見失うことはない。
こういう見通しの利かない道は、前回の熊との遭遇の後遺症があるのか、ちょっとばかり恐怖もあった。ポールを振り回し、バッサバッサと草を叩き、音を出しながら歩く。
(レキのポールがもったいないので、途中で棒きれを拾い、それに替えた。)
沢に沿って歩く。
途中で音が変なのに気付き、覗いてみたらコンクリートの側溝であった。
こんな山奥でこんな物が必要なのだろうかと考える。
側溝がつまりでもしたのか水が溜まっていて、道にまではみ出している。
何となく薄気味悪い雰囲気のところであった。
山の質なのか赤茶けた水が底なし沼のようになっているのは気持ちがいいものではない。
どうせ砂防ダムがあって、補強のための擁壁に違いないのだから、中止して引き返そうかと考える。
あれっ、道がない!と思ったら、道に沢水が流れ出していたようだ。
実にまぎらわしい所だ。
これでは道だか川だか分からないなと思いながらも、歩けるところまで歩くことにする。
県道の分岐点から、ゆっくり歩いて30分。
石積みの擁壁が木々の間から見えたので、そま道と別れて登っていく。
自然石でないコンクリートの石柱みたいなのが何本もある。
石積みの擁壁にたどり着く。
これを見ただけなら、土木のうえで何らかの必要があって造った、ただの法面の補強である。
しかし、さらに上に登ると、土木上のものではない事がわかる。
何らかの施設があったようである。
こんな山奥にである。
一段あがると又一段とある。
いったい何段あるのだろう。
何かの要塞のようでもある。
凹型のところもあり、まるで仏像が安置されているようにコンクリートの柱状の物もある。
ひょっとして廃寺の跡なのであろうか。
一段上に上がり、先ほどのベンチが並んだような所を見下ろす。ここは公園ではない。人も行かないような山奥である。
県道から歩いて30分だと言っても、その県道さえ林道以下の道であり、永いこと通行止めの廃道同然の道なのだ。誰が何のためにこのような施設を造ったのだろうか。

まるでアンデス文明の遺跡にぶち当たったような気さえしてしまう。

あちこちに松は茂っているが、樹齢はそれほどでない。雑草が何故繁茂しないのか理解しがたい。
ベンチの様な物がある同じ面の南側には何らかの設備の跡が見られる。
最初はトイレの跡かと思ったが、擁壁に沿って水路の跡が確認できるので、水を溜めるようなもののようだ。
このような物が同じ面に二つほど見られた。
更にあちこち検索してまわる。
梁の跡であろうか、太い材木が通されていたようだ。
若松の鶴ヶ城の大手門でも同様なものがあったような気がする。
が、斜面に向かって突き出ているのは不可解。
あちこち動き回ると、一部に鉄骨が露出していた所を見つけた。
すれば鉄筋コンクリート製ということになる。
どんなに古くとも明治の後期以前のものではないということになる。
排水路であろうか、もしくは導水のものと思われる。
板は両脇に添えられていたものを少し引き出してみたものである。
劣化の具合からそう古いものではなさそうなので、また??である。
ここに居ては全体像を把握できない。
この段々畑状になっている擁壁も何段あるのか、ちょっと数え難い造りになっている。
出来れば向かい側の山から見渡す必要がある。
5段か6段だろうか。変則的な段差である。
とりあえず最上段まで登ってみたが、そこは小ピークになっており、何も無かった。
勿論、裏側に道など無い。アクセスする道は今通ってきた道しかありえないはずだ。
資材を運ぶだけでも相当なものである。
先ほどのベンチ状の石の周辺には材木だったと思われるものがころがっている。
これらの上に建物があったとすれば、それ相当な量であったはずだ。
だが、その痕跡は無い。
わずかにこれらが残るのみである。
試みに土を掘ってみたが、焼け焦げたものはなく、火災による消失ではなさそうである。
ここで、手のひら大のガラスを発見した。
唯一生活を感じさせる物だったが、それっぽっちしか発見できない事がかえって??である。
左側に人が立っているが、我が女房殿である。
広さの確認のために、あえて載せたわけである。
いつものF班長の都合が悪く、物好きの女房が同行した。
変に霊感の強い時がある女房はある一方を指し、「あの辺りに何かいる。」とのたまいたもうたので、早々に引き上げることにした。
実際、背中に悪寒の走るような雰囲気の場所で、太陽の光が無ければ、とてものこと探索などは出来なかったであろう。晴れていて良かった。
帰りがけ、対になった木の門柱のようなものや、自然石にみえるようなコンクリート製の同様なものがあちこちに見られた。
その中の一つにプレートが剥がされたようなものがあった。
ここに何か書かれた物が掲げてあったのかも知れない。しかし玄関にはふさわしくない地形である。
地形図には名も無い山の中である。そもそもここは国有林ではないのだろうか。
電気もあるはずが無い、自給するための畑も見当たらない。近くに民家なども無い。
全てが???のお散歩であった。


何方か、これらのものについてご存知の方は
教えて戴きたいと存じます。


 H15.10.21  宮城県大河原土木事務所に問合せをいたしました。
即日、お返事をいただき、
「所内で調査したところ、残念ながらわかりませんでした。」との事でした。



■ H15.11.03  福島市にお住まいの樋口雅明様から情報をいただきました。
「福島人の自転車ツーリング」様のサイトによると
戦時中に鉱山が存在していたとのことです。(詳細は不明)



■  H15.11.07   樋口雅明様の調査により、「ミツヤス鉱山」(漢字不明)
という銅山であることが判明しました。



■ H15.11.09  小野寺寅雄著 「みやぎの峠」(河北新報社刊 平成10年)
山崎峠の項に「三安鉱山」についての記述がありました。
昭和18年頃まで操業しており、最盛期は
千人以上働いていて、学校や映画館もあった、とあります。

大正4〜5年頃、書かれた「苅田郡小原村誌」には、
七里沢鉱山の記述があり、工夫13人で5箇所を探鉱しているが、
有望なものはなく、近くの古い鉱山跡も探鉱するらしいが、
そんな価値があるのだろうか、と懐疑的な所見が述べられています。
この年代にはまだ発見されてなかったようです。








平成16年1月4日、積雪が無いという情報を得て、
谷をはさんだ向かいの山側(県道赤井畑国見線)から
三安鉱山の全体像を撮るべく、出掛けてきました。
残念ながらこの時期でも、松の茂りに邪魔され、
道から登ったり降りてみたりしましたが、
この画像くらいが限界でした。
(七倍のデジカメ付き双眼鏡で撮影したものです)




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