町庭坂(イラ窪)への道  《 熊に出会う》





福島市といえども相当広い。
奥羽線で三つ目の駅である赤岩駅付近は、車が通行可能な道路は一本のみである。しかも行き止まりである。
陸の孤島と言っては失礼だが、秘境と言っても過言ではない。
この図はゼンリンの住宅地図90年発行のスキャンしたものである。
90年には対岸のイラ窪(この地図には伊良窪と表記されている)に通じる橋が存在し民家もあるようだ。
「なぜこんな所に?」というのが、興味の原点だった。
地形図によれば北山林道からイラ窪へ到る幅員1.5M以下の道が存在している。
イラ窪へ行くだけであれば、赤岩駅方面から川へ下り、川を横断したほうがはるかに楽である。
しかし、この道はイラ窪で生活する人達にとっては、川が氾濫した時の脱出ルートでもあるはずだ。その道を探索すべく北山林道コースを取る。
この北山林道は鉄道マニアの方にとっては有名撮影地だそうだ。
なるほど、はるかに板谷峠を望む眼下に奥羽線が走っている。
絶好のロケーションかも知れない。
北山林道からの降り口は、この林道を横断する電線を探せばよい。
前回、無理やりイラ窪へ下りた帰り道が偶然地図上の道であった。
夕暮れが迫り、雨でずぶ濡れになりながらも、方向を見失わないために
電線で確認しながら登ってきたのだが、まさかこれが道とは思えなかった。
林道から見た降り口。
最初だけちょっと平坦。
ここから凄まじい、転がり落ちるような道になる。
分け入れば獣道以下のような道らしきものが見える。
ものすごい傾斜でとても道とは思えない。
電線の保守管理のための道であろう。
電線の邪魔になる木は伐採してあるため、航空写真を元にして作る地形図では道と誤認したのではなかろうか。
登り下りのための補助ロープが30Mくらいに渡って置いてあった。
唯一、一息つける箇所だ。
前を向いて降りられないくらいの傾斜も徐々に高度を下げ、対岸の赤岩駅付近が見えてきた。
頭上にある三本の電線の角度でも、その傾斜ぶりを察することが出来る。
地形図上の単純な計算では、斜面上の距離560M余で標高差260M。
平均斜度で26°くらいである。
札幌大倉山のラージヒルの斜度は35°であるのでその凄さがわかる。
500数十Mの距離に40分はかかる。
なんとか平坦部にたどり着くと、電線も角度を変える。
電線はイラ窪集落へと向かっている。
電線に沿うように歩くと最初の廃屋がある。
白いのは冷蔵庫と洗濯機。風呂桶もあり、生活の様子がうかがえる。
やたらとビン類がころがっているのだが、急須のような生活小道具もあった。
さらに進むと石を積んだ所に出る。
この石積みの上に何があったのか見当もつかない。
さらに進む。今度は屋根が残っている廃屋がある。
内部は生活の様子を示すようなものは残っていない。
とにかく、やたらとビン類がころがっている。
初めはラベルが残ってないので、農薬か何かかと思ったがビール瓶も一緒なので酒ビンらしい。
ここの住人は酒を大量に飲んでいたようだ。
三軒めの廃屋。
ここでも風呂桶とボイラーのようなものが残っている。
住宅地図にある三軒の空家はこれで確認したことになる。
しかし、住宅があったということは、ここは私有地である。
こんな探索してて良いのだろうか、と頭をかすめる。
イラ窪集落から東へ500Mほど進むと松川鉄橋を望める場所に出る。
ここも有名撮影地だそうだ。

(松川橋梁というのが正しい)
にわか鉄道ファンになって、事前にダイヤ表をチェックしてきたので、上り各駅停車の電車が通過するのを待つこと10分。
手前の線路かと思っていたら、向こう側だった。
電車というのは左側通行なんだろうか。

(東京の佐上氏より、日本の鉄道はイギリスに範をとったため、駅構内以外の区間では左側通行である旨、教えていただきました。)
電車を撮りおえてから川原に降りる。
これから橋の痕跡探しをする。
川原を上って行くと、謎の階段に出会った。
そもそもコンクリートの土台まで上がれるルートと方法がない。
生活のためとは思えないので、何か観測のための施設か機器でもあったのだろうか。
イラ窪側を歩けなくなったため、松川を横断して赤岩側に出る。
ジャンプすると背中のリックが踊る。
先ほどの松川橋梁の写真は、この斜面の頂上付近で撮ったものである。
高所恐怖症の方はまずダメ。
賽の河原もかくやあらんと言うほど、この山間部にありながら広い。
歩きづらいがしょうがない。
またイラ窪側に戻る。
この辺に橋があったはずである。
なにか痕跡でもと2〜3往復するが何もない。
あきらめて遅い昼食を摂る。

今回の同行は我が女房殿である。
川を横断する時、ドジって片足を水に落としたが、元バスケの国体選手、自分の面倒はみられるとのことで同行することになった。
このことが結果として熊と遭遇することになったのかも知れない。
イラ窪へ通じる橋の画像を戴いた佐上氏が撮ったと思われる地点。
地形から考えて、ここしかないのではないだろうか。
ここから望遠レンズで撮ったと考えた。(ちょっと違うかなぁ)
東京の佐上氏にいただいた、橋が写っている1979年の貴重な画像である。

佐上氏のホームページ 
[鉄道写真館]
http://members.jcom.home.ne.jp/sagami-go/

尚、この画像は山口屋的画像掲示板No50で拡大して見ることが出来ます。
さて、帰り道である。
大きく迂回して楽に帰ることも可能であるが、またルートを間違える可能性も高い。きついが確実に帰ろうということになって、下ってきた道を登ることにした。

中腹にさしかかって息を入れていたら、何か物音がする。[バシッ!]と枝が折れるような音や、[カリカリ、ガリガリ]といった物をかじるような音。山では色々な音が聞こえるので、私はあまり気にも留めなかったのだが女房が気にしはじめた。
はて、誰かヤブを歩いているのだろうかと辺りに目をこらす。
そうこうするうちに[ドスン!]と重量を感じるような音が響く。[バリッ!]と音がして、確実に何かがいると思われた。小動物ではなさそうだ。

「あそこに黒いものが見える」と女房の指すほうを見ると、確かに黒いものが動いている。
まずい!熊だ!左に50Mくらいの所で木を齧っているようだった。
鈴は付けていたのだが四つん這いの姿勢に近い体勢で登っていたため、あまり鳴らなかったのかも知れない。風もあまり無い。こちらには気が付いてない。
当方は立つのがやっとの坂道途上である。体勢不利。
そのままソット登って来るのも手かも知れないが、上で合流してしまう可能性もある。追いかけられては圧倒的に不利。武器になるものは腰にぶらさげた刃渡り21CMの剣鉈とポールだけである。
剣鉈のストッパーを外した。ポールを締めなおした。この時、女房は自分のポールを最大限に伸ばしていたそうである。
剣鉈を右手に握る。考えてみたら、この剣鉈は白兵戦でしか役にたたない。どちらの手に剣鉈を持って、どちらの手にポールを持ったらいいか、こんな局面で真面目に考えていた。
まずはポールだなと思い、剣鉈は鞘に戻した。

熊が次に動き出す前に先手を打つことにした。
口に両手をあて、「ウォオー!」と気合をいれて大声を出した。「突撃ーぃ!」という威嚇である。
これで追い払うことができるだろうか。自信はなかった。
熊は身動きしなくなった。5秒、10秒じっとしている。
冷や汗ものである。こちらもじっとして動きを見極める。
やおら熊は立ち上がるような動きを見せた。そして木の根でも飛び越えたのか、すこしジャンプするようなしぐさを見せて、のそのそと徐々にスピードを上げて遠ざかって行った。

本当の恐怖というものは遅れてやってくるらしい。ガタガタと震えはこなかったが、もう一頭いるかも知れないと辺りに神経をはりめぐらせる。
ともかくここに長居は無用だ。息を切らせながら、もう一頭に神経を集中し登る。
途中、後続の女房を振りかえって見た時、ひどく顔色が悪かったらしい。「おとうさん、だいじょうぶ?」と言われてしまった。それは自分でも分かってはいた。

林道が近づくにつれ、伐採作業のチェンソーの音が聞こえるようになってきた。徐々に緊張がほぐれる。あと一息という所で、ギョロとした目玉と出合った。猿だ。大型である。くそーっ、猿の大群に巻き込まれるのも面倒だなと思ったら、はぐれ猿らしく一匹だけだった。

もし山中で熊に出会ったら、という方法が巷間伝えられている。
色々あって、中には矛盾しているものもあり、どれをとったらいいのか私は知らない。
熊は人間の犠牲になって、その生活環境を奪われているのだという論理も分かる。
しかし、山で出会ってはそんなことは言っている場合ではない。

私は近所の長老から聞いたことが頭に残っていた。
「逃げてはダメだ。逃げないで戦う覚悟をしろ。」
そうすれば、何とかなるということだった。


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