奥羽本線 庭坂駅〜赤岩駅
 ( 廃隧道 4号 5号 二代目5号 ) 



きわめて危険なお散歩であった。
こんなお散歩はやるべきではない。
物好きもほどほどにしなければ
いくら自己責任とはいえ、他の人に迷惑をかけるようになる。

怪我をせずに無事帰還できたのは僥倖だった。

前回の6号 7号のお散歩が難度Bならば
今回のお散歩はウルトラDであった。

よってアプローチの方法、ルートの設定は省くことにする。




1899年の奥羽本線(福島米沢間)開業当時のトンネルは赤で示している。
1910年の集中豪雨で7号トンネルが使用不能に陥り、
翌年ルート変更の上、二代目5号、6号が完成。
この4号ー二代目5号ー二代目6号のルートは1961年まで使われ、廃棄された。





前回のお散歩で動物の頭骨ではないか?としていた物は、実はただの白い石であった。雪で流されもせず、そのまま存在していた。(背骨はどこかにいってしまったが)

とりあえずは初代松川橋梁の場所まで行くために、前回とは逆のコースを辿る。
地形は頭に入っているため、迷わずにここまで来ることができた。
ニヒト・アイレン」様のサイトによると、この7号隧道の福島側坑口にはプレートがあるという。
前回はムチャクチャすげえ所に来ちゃったという感じで、余裕が無く気付かなかった。
なるほど、あった。
初代6号隧道(110M)を通り抜け、初代の松川橋梁の場所に着く。

今回の目的は、この松川の対岸(南岸)の初代5号隧道に行けないだろうか、というものだった。

そういう目で改めて眺めるが、一目瞭然こりゃぁ無理かも・・・・・という険しさ。
断崖絶壁!早々に諦めムード。
何処か取り付く所はないだろうかとアチコチ周辺を探る。

少し西側に2代目の5号隧道の米沢側坑口と思われるものを見つけた。
が、こことて無理。
せっかくだからズームを使って撮影。
左側に青色の掛札が下がっているように見える。

近くで見てみたいものだ。
さらに右側(西側)にもトンネルの坑口が見える。

先ほどのが2代目5号隧道とすれば、これが2代目6号隧道の福島側坑口となるはずだ。
さすればこの隧道を繋ぐのは長谷橋梁であるはず・・ 
双眼鏡を使ってさがすと橋台と思われるものが見える。間違いなさそうである。

せり出した崖と崖にトンネルを掘り、その間を橋梁でつなぐというやり方である。
こういう工事を明治の人間で可能だったのは驚く。
とりあえずも松川まで降りて、下からルートを探してみることにする。
が、降りられるような良い場所が無い。

結局、初代松川橋梁の付近から降りることにする。
上から覗いただけでは見えなかったが、初代松川橋梁の橋台もさすがに傷んでいる。
橋台はレンガで造られているが、その土台は石積みであった。
松川まで降りるのだけでも容易ではない。
事実、朝方降った雨のために落ち葉に足をとられ、3メートルほど落下。(幸いにして怪我無し)

降りて松川南岸を見上げる。
とてもじゃないが登れるような所ではない。

残念ながら、断念するしかない

どらえもんのタケコプターを使って、ここまで辿りついたと思ってもらいたい。
いきなりで恐縮だが、あえてプロセスをカットした。

並みの危険さではない。

この画像が何であるかは未だ分からない。
とにかくも人工的な建築物にまで辿りついた。
プレートが無いので、この隧道がどの隧道であるのか分からない。
初代の5号か2代目5号かのどちらかと思われる。
この隧道を抜けてみて確かめようと内部へ入りかけたら、山側から物音。
カモシカだ。カモシカが駆け下りてきた。
あわててデジカメを取り出す。

(上の画像の左の急斜面を降りてきたのである。)
のんきなもので、「何だコイツラ」と言う顔でこちらを見ている。

熊でなくて良かったが、張り詰めた緊張感がほぐれ、ほのぼのとした雰囲気に。
さて、抜けてみることにする。
内部は綺麗であった。
これが初代5号であるならば既に廃棄から93年の月日が流れている。
対岸の6号も綺麗だったが、こちらの方がよりそうかな・・・と感じた。
トンネルを抜けると、初代の松川橋梁跡が見える。
間違いない。これが初代5号隧道である。

あの断念した5号隧道の米沢口に立つことが出来た。
米沢口にある5号隧道のプレート。

在ったのはいいが、今冬の積雪に耐えられるだろうか、と心配なくらい崩れかかっている。
あと何年もつだろうか。
5号隧道を戻る。福島側坑口から数十メートル先に建築物が見られる。

2代目5号隧道の何かと思われる。
横坑でも有れば入れるかな・・・と近づいてゆく。
あっさりと2代目5号隧道の福島側坑口であった。
隧道の出張りの部分であったわけだ。
この口にはプレートが無い。
この隧道も中へ入ってみることにする。
内部は真っ暗である。
この2代目5号隧道は164Mの長さであるので、出口から光が差し込むはずだ。
途中で崩落している可能性が高いので、慎重に進む。
画像のように、敷かれた砂利の上に、枕木の跡が見て取れた。
1961年廃棄であるから、その時の跡である。
慎重に慎重に足を進める。
中ほどに達すると、何となく薄明かりが差し込んでくる。
出口だ。
この隧道は福島側から見ると、左へフックラインを描いていたのだ。
だから真っ暗だったのだ。
米沢側坑口へと出る。
1961年まで使われていたのだから、何度か改修されたのだろう。
部分的にも崩落の跡は見られなかった。
対岸から見えた、青色の掛札もちゃんとあった。
青色の木札に何が書いてあったのか不明だが、その下にペンキで5と書かれている。
ここから長谷橋梁を経て、2代目6号隧道へと繋がるわけである。
画像は長谷橋梁の橋台。
戻って、この2代目5号隧道の前で昼食とする。
右側に初代の5号隧道の福島側坑口が見える。

日差しがやわらかい。
風も無く、鳥の鳴声を聞きながらお茶を沸かす。
このひと時がこたえられない。
おにぎりをパクつきながら、この隧道を繋ぐ、蝮澤橋梁の跡を眺める。
画像の真ん中に橋台があり、4号隧道の米沢側坑口が見える。
峻険の谷である。落ちたら真っ直ぐに数十メートル下の川まで落下。

ロープワークを駆使して、向こうまで可能だろうか、とF班長と相談する。
予定外ではあったが、行けるものなら行ってみたい。
余分な荷物は置き、とにもかくにも4号隧道の米沢側坑口に到着。

プレート等、4号であることを示すものは何も無い。
内部を伺うが、331mの長さなので、光などは見出せない。
内部は荒れている。
崩れたりはしていないが、コンクリート塊や木材などが散らかっていて歩きにくい。
一連の隧道とは性格を全く異にしているようだ。
置き去りにされたのか、スコップなども真っ暗闇のなかにあった。

すぐそこに誰かいるような、薄気味の悪さが残る。
およそ200mほど進入したかと思われる地点で、コンクリートで塞がれていた。
という事は、空気の出入り口は入ってきた坑口だけである。
ガスの発生や酸欠が無くて良かった。危ないところであった。

しかし、このトンネルは非常に雰囲気の悪いトンネルである。
真っ暗闇の中でストロボで撮影すると、こんな水玉みたいな物が写るのであろうか?
4号隧道の米沢側坑口付近の画像。

このトンネルだけ、他のと違う工法なのか、ご覧のような構造になっている。
現在使われている松川橋梁。

2代目6号隧道を除いて、探索してきた訳であるが、この2代目6号隧道の米沢側坑口が見当たらない。
おそらく現在の上り線の坑口とクロスしているのではと思われる。
あの2代目6号隧道の先も、4号隧道同様にコンクリートで塞がれているに相違ない。
先が塞がれている隧道は4号みたいに多分、気味が悪いに決まっている・・・・と思われる。


このお散歩はWebで公開して良いものだろうか、少し迷った。
笑い事で済むようなレベルの危険さではない。
中年探偵団の範疇を超えたものだった。
自分がやっていながら言えた義理ではないが、
「俺も行ってみっぺ」というのはヤメテクレとお願いしたい。







一週間後の5月2日、初代松川橋梁跡から撮影
初代5号米沢側坑門の周囲に岩つつじが咲き始める
見渡せるのも僅かな期間で、やがて葉陰に隠れてしまうのが惜しい


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