二年続きで、今年も「矢沢宰賞」は新型コロナウイルスに勝てませんでした。
賞そのものは例年通り実施されておりますが、入選者が一堂に会して贈賞する「詩の集い」は、事務局の判断で中止することになりました。とても残念でなりません。
でも、今年も全国の学校から一、三一〇編という多くの詩のご応募をいただきました。ありがとう!
詩を書く友だちはコロナ禍に負けていませんね。何よりもうれしいことです。
いつものように事務局から送られてきたすべての作品を、次々とひらいてていねいに読んでいくのは、いつもながら何ものにも替えがたい緊張と楽しいよろこびの作業です。
みなさんが詩を書くときの、それに負けていません。書いた人のさまざまな呼吸が、じかに伝わってきます。
ある詩賞の選評に、私は最近こう書きました。「詩を書く上で、長い外出制限によるマイナスの影響も一般に考えられるけれど、それを言い訳にすることは許されない」と。
このことを私は、ここでもきっぱり言っておきたいと思います。幸いみなさんの作品に、そうした作品はなかったけれど、海や山でのいろいろな遊びや家族と過ごす時間、夏休みが終わっての教室でのあれこれが題材になっていました。
それらがテーマになっていた多くの詩を読みながら、「ああ、それらが今年のみなさんの日常から制限されていたんだ」と痛感したことでした。
非常に残念です。いつも申し上げる「至福のとき」は、いつもとちょっとちがっていました。
作品のすべてに目を通して、最終的に四十二編にしぼりました(本プログラムに掲載)。
選評はそれぞれの作品に付してあります。入選の喜び・もれた悔しさをエネルギーにして、今後も詩を書きつづけてください。
1941年見附市生まれ。日大芸術学部卒。「現代詩手帖」編集長、銀座セゾン劇場総支配人を歴任。現在、個人誌「いちばん寒い場所」主宰。
詩集「きんにくの唄」「雲の縁側」(現代詩花椿賞)「雪、おんおん(現代詩人賞、詩歌文学館賞)」、電子詩集 他多数。
エッセイ集「落語新時代」「「現代詩手帖」編集長日録」他。句集「雪やまず」「身体論(吟遊俳句賞)」。
昨年新潟県知事賞受賞
夏休みに、ばあちゃんちに行ったよ。
二かいで、ひょっとことおかめのおめんを見つけたよ。
いもうととおめんをかぶってあそんでいたら、ばあちゃんが
「おっ!福来たるだね!」
と言ったから
ぼくは
「うん!服着てるよ!」
と言ったよ。
すると、ばあちゃんが
「わーっはっは!じゅんぺいくんにざぶとん一まい!」
とわらっていたよ。
二かいのへやをたんけんしていたら、
パパの赤ちゃんの時のアルバムを見つけたよ。
「たかゆき、たんじょう!!」
と書いてあったよ。
ぼくのパパは、今43さいで、なかなかかっこいいけど、
赤ちゃんの時のパパはとってもとってーもかわいかったよ。
はだかんぼうのしゃしんもあったから、
はずかしくなっていそいでゆびでかくしたよ。
「赤ちゃんの時のぼくと赤ちゃんの時のパパ、どっちがかわいかった?」
とママに聞いたら
「じゅんぺいくんにきまってるよー!!」
と言ったから、ぼくはうれしくなったよ。
ぼくの夏休みは、まい日ゆかいなことがあるよ。
ゆかいな夏休みがもうすぐおわるよ。
早く学校に行きたいから、夏休みがおわってほしいような、
おわってほしくないようななんとも言えない気もちだよ。
夏休みでばあちゃんちへ行ったときのあそびを、率直にえがいていて、その情景に思わずこちらも笑ってしまう。
ひょっとことおかめのおめんで、ばあちゃん「福来たる」、ぼく「服着てるよ!」、すかさず「ざぶとん一まい」と笑うばあちゃん。
楽しそうなふたりのやりとり。そればかりでなく、パパが赤ちゃんのときの写真。裸だからあわててゆびでかくす。
夏休みがおわって、早く学校へ行きたいような行きたくないような気もち。
ぬは否定が好きだ
何でもかんでも否定したがる
ぬは間違えられやすい
類似品に注意!
ぬは破壊力がある
しりとりでぬが来たら降参だ
ぬは恥ずかしがり屋
見つめられるとゲシュタルト崩壊して他のものになりすまそうとする
ぬはちゃっかりしている
目立ちたくないのに50音の中で誰よりも真ん中にいる
ぬは疲れている
リセットするために横になって休みたい
そして、ぬは寝(ぬ)。
ぬはただのひらがな
僕もただの人
ぬの仕事は誰かが代わりにできる
人の仕事も誰かが代わりにできる
でも僕の代わりはどこにもいない
ぬは悪い所ばかりではない
でも完璧でもない
そんなぬは誰よりもぬらしい
自分らしさはその人の本質だ
自分らしさは裏切らない
ぬはぬであるからこそ価値がある
辞書でしらべると「ぬ」の説明はいろいろあろうけれど、自分なりに「ぬ」について、あれこれ想像をふくらませている。
たしかに「ぬはただのひらがな」であり、「誰かが代わりにできる」けれど、「僕の代わりはどこにもいない」ことに気づいている。
「ぬ」という一つのことばから想像が豊かにひろがっている。
私はイワシ
イワシは皆と同じ方向へ泳ぐ魚
人は人に流される
私も人に流される
「これ良いよ!」
言われたままに真似をする
「それは違うよ」
自分は良いと思っても違うといわれて
やめてしまう
「こっちへ行こう」
「うん、いいよ」
言われたままに着いていく
私はイワシ
私の周りもイワシ
イワシの人が多いだろう
イワシの群れの私は一匹
みんなと同じように泳ぐのだ
群れから外れたらどうなる?
時に自分に問いかける
群れから外れ自由に泳ぎたい
行きたい方へ泳ぎたい
群れから外れた人生、それもそれで楽しいんじゃない?
皆同じじゃつまらない
私はイワシ
逆流して泳ぐ一匹のはぐれ者
それも良い
私は私
皆同じじゃつまらないから。
イワシは黒い束のようになって群れているのが習性であり、特徴である。イワシばかりでなく人間も、群れたり、群れを離れて「一匹」になって泳ぐこともある。
それぞれに良さ悪さがあり、楽しさもあるだろう。でも、自分なりに自由に泳ぎたい・生きたい。
他とただ同じじゃつまらない。「私は私」ということ。
ももに手をのばせ
たねやかわをかきわけてでっかいももをつかまえろ
かきに手をのばせ
へたやかわをかきわけて小さなかきをつかまえろ
ぶどうに手をのばせ
たねやかわをかきわけて
でっかいぶどうをつかまえろ
みかんに手をのばせ
へたやかわをかきわけて
でっかいみかんをつかまえろ
なしに手をのばせ
たねやかわをかきわけて小さいなしをつかまえろ
スターフルーツを手をのばせ
かわをかきわけて
だれかと手をつないででっかいスターフルーツをつかまえろ
「○○に手をのばせ、××やかわをかきわけて……」のくりかえしに興味をひかれた。
「××やかわ(皮?)をかきわけて……」の意味がわかりにくいのだが、同時にフルーツにちかづくふしぎな詩的興味をかきたてられた。
しかも、「でっかい」や「小さな」フルーツなど、一定でないところがおもしろい。
私のお父さんは本当のお父さんではない
でも、お母さんは
「血はつながっていないけど魂では本当のお父さんだよ」
と言う
私と初めて会った時に、
私のことを本当の子供みたいだと感じたと言っていた
もしかすると前世では本当の親子だったのかもしれない
お父さんは関西出身
いつも大笑いをしていて面白いことばかり言っている
そんなお父さんのオーラは黄色
スーパーポジティブ男
でも、お母さんの前は少しだけネガティブ
ちなみに私はスーパーネガティブ女
お父さんは釣りが趣味
でも魚の匂いが苦手みたいで食べれない
さばいている時は、とてもいやそうな顔をしている
お父さんは料理も上手
クックパットを見ながら正確に沢山の料理を作ってくれる
この世に無い料理でも「チャレンジチャレンジ」と言いオリジナル料理を作ってくれる
どれも美味しくなっているので本当にすごいと思う
ちょっと不器用なところもあるお父さん
いつも仕事から帰って来てもずっと笑顔
何でもこなしてくれるお父さんが大好き
「血はつながっていないけど」魂がつながっているお父さん。それこそ本当のお父さんだ。こまかいところまでよく観察できている。
それは本当にお父さんが大好きだからこそ。料理も工夫してうまい。
いいことばかりでなく嫌なことも、これからいろんなことがあるだろうけれど、両親と話し合っていこう。
僕の名前の湧真の湧は
勇気の勇じゃない
優秀の優でもない、
湧水とかの湧
スマホはなかなか変換してくれない
初めての人だとさんずいを書いてくれない
でも名前には意味がある
もしかしたら
勇気が湧いてくるかもしれない
良い考えが湧いてくるかもしれない
そんな意味が、あるかもしれない
自分の名前にこだわっている楽しい作品。ユーモアにもあふれている。「勇」でも「優」でもないというところがおもしろい。初めての人は確かにとまどうだろうね。
勇気やいい考えが「湧いてくる」−−親があれこれ深く考えてつけた名前だろうから、「スマホの変換」に時間がかかっても大事にしよう。
この副賞は、彫刻家江尻昭子さんが、「矢沢宰の何か言いたそうな学生服姿の写真を見て作りたいと思った」あの不思議な瞬間を大切にして制作したテラコッタをもとにした盾です。
あなたを見つめるこの宰の目は、あなたに何を問いかけていますか?
矢沢宰賞最優秀賞の副賞として第一回から第十回までは、かいばみ賞(旧三条結核病院前の全快橋がかかっていた川の名前)、第十一回から第二十六回までは、ポプラ賞(旧三条養護学校校庭前の道路にあったポプラ並木の木)が旧三条養護学校同窓生たちから贈られてきました。
第二十七回からは、実行委員会から宰の通った旧上北谷小学校体育館が平成二十一年に壊されたときに保存しておいた腰板を用い、副賞としました。体育の授業では見学することが多かった宰少年が背をつけたかもしれません。
矢沢宰賞の主旨から、受賞者に分け隔てなくすべてにゴールドメダルをと、第十三回より贈られています。
手ってすごい
物を持てるし、誰かに差しのべられる
手って怖い
物を壊せるし、人を傷つけられる
世界は思っているより広いらしい
色んな人がいて、輝きに満ちている
でも、人の手に怯えている人がいる
詐欺、暴力、SNS
平等って、なんだろう
そんなの分からない
音のない叫び
聞こえないじゃなくて、聞こうとしてない
目をそむけている人もいるだろう
そんな人が増えたら、
世界はどんどん汚れていく
一緒に差しのべない?
世界中でたった一人を助けるために
あなたのその手で、世界は変わる
明日の世界はきれいかな
「手」は、人にとってもっとも身近なもの。あらためてその「手」に注目している。
怖いといえば怖いけれど、他人に差しのべられもするし、ひとりの人を助けることもできる。
がさごそがさごそ
かきわける
かわいいあの子に
あいたいと
しげみのなかを
かきわける
あきらめかけた
そのときに
ようやくみつけた
あかいかお
いとしのいとしの
そのこつぶ
ぱくっとおくちに
ほうりこむ
かきわけたしげみの奥にあったのは、何かといえば「あかいかお」のいちごなのだ。
本文で「いちご」ということばは使われていないけれど、大好きないちごであることは明解。
僕が好きな君は、
僕じゃない誰かが好きで、
頑張って近付いたのに振り向いてくれない、
君が好きだけど嫌い。
君がこれ好きって言ったから、
話す話題もきっかけもつくったのに、
ふれてもくれない君のことが、
好きだけど嫌い。
でも
僕が辛い時、
顔にはだしてないはずなのに、
すぐに気づいちゃう君のことが、
嫌いだけど好き。
分からないことがあった時、
声をかけてくれたこと。
一人でいた時、
話しかけてくれたこと。
僕を好きじゃない君が
僕は好きだけど嫌い。
折にふれて「君」のことが気にかかる。「好き」と「嫌い」のあいだを心は勝手にゆれ動く。
それは自分でもよくわからないし、思うようにゆかない。「好き」と「嫌い」がゆれる。
もがくとは 前に進むこと
前に進むことは
将来がこっちに寄ってくること
将来がこっちに寄ってくることは
不安が迫ってくること
不安が迫り
自分の頭の上から足の先まで染みてくる
「前の自分に戻りたい」とふつふつと思う
不安が迫ってくることは
将来がこっちに寄ってくること
将来がこっちに寄ってくることは
前に進むこと
前に進むことは
もがくこと
もがくことは
希望をつかむこと
自分は前にも進み
後ろにも進む
今の自分はどちらに進んでいるかは
分からない
「もがくこと」に始まって「もがくこと」で終る。それは「希望をつかむ」こと。渦中にいる自分にもそれははっきりとわからない。
しかし、「もがくこと」でしか前に進めない。
君は何を見ているんだい
君の瞳には何が映っているんだい
君はいつもどんなことを思っているの
涙を流す君は
君の知らない君自身に
近づいているのかもしれない
君は一歩ずつ輝かしい未来に向って
今日も前進している
そんな君に僕は
憧れる
君は言葉を話せない
でも何かを伝えようとする
そんな君が
弟で
本当によかった
憧れの「君」はだれ? と読者は思いながら読む。よく観察している。
最後に「弟」とわかるのだが、友だち(男・女)でもいいわけだし、「自分」自身でもいいのだろうと読める。
一番楽しい 私だけの時間
絵の中に とびこんで
深く 深く
もぐっていく
現実ではできなくても
絵の中なら
なんだってできる
どんな動物でも
どんな花にでも
どんな人にも
たくさんのものに
出会うことができる
えんぴつと紙と消しゴムを持って
君も
君だけの世界にとびこもう
どんな絵でも
おかしくなんかない
だって
一生懸命君が描いた
世界にひとつだけの
すばらしい絵だから
どんなものにも出会える絵。自分の時間では、そこに飛びこんでいくことができる。
すばらしいのは「君が一生懸命描いた世界」であり、この世に一つだけしかない世界だから。
心って何だろう
心がとか心はとか言うけど
本当の心って何なんだろう
人は心が動かされているのか
人を好きになる
何かに熱中する
何かが嫌いになる
すべて心が動かされる
僕の心って何に動かされているんだ
僕に心はあるのか
心に聞いてみたい
何をしても得に感じることがない
熱中することもない
僕の心は壁におおわれている
僕は今、見えたおとし穴に落とされた
明日は大丈夫と願うばかりだ
でも乗り越えられていない
乗り越えようとしない
壁を怖れてしまう
明日の自分が見えない
あたったことのない壁に怖れる
心を動かしたい
動かさせてあげたい
自分の意志にどう答えてくれるか
僕は心に聞きたい。
心に改めて聞きたいことがいろいろとある。それを勝手に判断するのではなく、心に聞いてみたい。
「心があるのか」ということも含めて、よくわからない不安がたくさんある。
きらきらひかってる
ふーうふーう
ふくらませるの楽しいな
るんるんらんらん
楽しいな
お空にうかんでぱっと
きえた
もういっかい
ふーうふーう
ふくらませて楽しいな
らんらんるんるん
楽しいな
しゃぼんだまと楽しく遊んでいるようすだが、「ふーうふーう」と「楽しいな」がそれぞれ2回ずつくり返されているだけで、遊んでいるさまがそれぞれちがう表現で工夫された。
わからない言葉を教えてくれると
先生みたいだ
部屋のそうじをしてくれると
すぐ終わって魔法をかけたみたい
困っていると
何んで助けてくれる
いっしょに遊んでくれると
友だちみたいで楽しい
あらったお皿はピカピカで
ほうせきみたい
お花にいっぱいお水をあげて
ベランダをきれいにしてくれる
物をこわさないように妹を見ながら
家の仕事をする
天気のいい日は、
公園につれて行ってくれる
買い物は、
安いお店えらぶ
おいしいごはんを作って
まるでシェフみたい
家の仕事でつかれているはずなのに
もんくを言わない
スーパーヒーローみたいに
いろいろできる
家族みんなのために
家の仕事してくれてありがとう
私もお母さんみたいにどんなことも
がんばるようになりたいな
教えてくれたり遊んでくれたり、もともとの仕事をふくめて、お母さんの忙しい仕事をよく観察している。
まさに「スーパーヒーロー」みたい。でも、ときどきは怖いのかもね。
僕の部屋にはよくダンゴムシがくる
いろいろな方向に進んでいく
僕の方に進んできたり
机の方に進んでいったりする
時には丸まって子どもの頃に見たことのある正露丸のよう
僕は車いすに乗っている
だからたまに車いすのタイヤで
ふみつぶしそうになる
だから車いすのタイヤでふみつぶさないように気をつけている
こんなに小さなミニサイズのダンゴムシ
どんなに小さくなっても一つの命
その命を大切にしながらくらしたい
部屋ではダンゴムシを車いすのタイヤで、ふみつぶさないように気をつけて移動している。
そう、小さなダンゴムシにだって尊い生命があるのだから。やさしい心、その通りだ。
今、
人が空を自由にとびまわることが
できなくても、
いつか、
空をとびまわり雲にさわることが
できるかもしれない。
だって、
世界は変わるのだから。
今、
人の嘘を見抜くことが
できなくても、
いつか、
あなたの本当の気持ちを知ることが
できるかもしれない。
だって、
世界は変わるのだから。
今、
あなたのすぐとなりで口を見せて
笑うことができなくても、
いつか、
すぐ近くでも大声で笑いあえる日が
くるかもしれない
だって、
世界は変わるのだから。
だけど、
唯一ひとつだけ、
変わらないもの。
それは、
私にとっての“一番”が
あなただということ。
「今、……いつか、……だって、世界は変わるのだから」のリフレインが3節。だけど、最後には「変わらないもの」という。
変わらない「あなた」ということ。愛に限らない。
一瞬、手を止めて顔を上げて
己のことについて考えてみる
本が好き、運動が苦手
自分が好き、自分なんて大嫌い
私たちは愚かで、儚くて、
がむしゃらにもがいて生きている
一刻一刻と時が過ぎゆくこの世界で
唯々諾々としているだけではつまらない
どこに続いているのかも
行く手に何があるのかも
全くわからない
ただ、自分の道を歩んでいく
進む?
曲がる?
引き返す?
これは私が決める道
あなたは?
大テーマ。わかっていること・わからないことをふくめて、私たちは「がむしゃら」に生きている。行く手に何があるのか誰にもわからない。
でも、自分で決めて行くしかない。
ミーンミン ミーンミン
パチャパチャ パチャパチャ
トントントン トントントン
音は無げんだ。
音は作れる。
音は聞こえる。
音があることは、可能性を広げる。
もし、音がなくなったら。
私たちは、音だけでなく、気もちも
失ってしまうのではないだろうか。
ドーン ドーン
カッカッカッ カッカッカッ
シュワシュワー シュワシュワー
音は無げんだ。
音は話せる。
音を感じる。
音があることは、気持ちがある。
私たちはさまざまな音にかこまれながら、生活しています。生きものだけじゃなくて、そこには生活の音もある。
もし音がなくなったらと作者は考えている。最後の1行が肝腎。
僕は君が嫌いだ。
君の笑顔、ちょっとしたしぐさ。
そんな所に引かれた僕。
僕は僕が嫌いだ。
そんな僕を変えてくれたのは君だった。
僕を変えたのは君だ。
自分を肯定できたのもプラス思考になったのも、全部君のおかげだ。
君は僕をどう思う。
そんなことを今まで考えたことなかった。
この思いはなんなのか。
僕は君に告げた気持ち。
告げた思いが冬になるとしても
思いだけでも告げたい。
君は僕が嫌いとしても
根があるから崩れない関係
日々の時間がゆっくり進む。
僕を、見える世界を変えた君。
一緒にいると自然な笑顔になれる僕。
僕は君が大好きらしい。
「僕は君が嫌いだ。」に始まって「君」と「僕」の関係が、自分のなかでいろいろと動く。わからない、悩んでいる。
答えを急ぐことはない。最後に「僕は君が大好きらしい」と。
あつい雲 中から丸い ビー玉が
ポタポタと 地面にはねて はじけとぶ
とうめいで すきとおる
小さな小さな ビー玉だ
水たまり 中に入ると 消えてしまう
手の中に 中々入ってくれないよ
どこまでも 私のことを 追いかける
家の屋根から 落ちてくる
小さな子どもが 遊んでる
すべり台から 急こう下
とってもとっても 楽しそう
家の中にも 入ってる
てん井に しがみついて いるかもよ
いたずらの 子どもたちを 発見だ
雨もりで たくさんたくさん 落ちてくる
ちょっとだけ めいわくかけて いるかもね
青空が 広がっていく おわかれか
ありがとう とってもゆかいな 時でした
家に帰って また会おう
さようなら また今度
「ビー玉」とは雨粒のこと。この雨粒を、作者は嫌がっているどころか、一緒になって楽しくはずんで遊んでいるように感じられる。打算がない。
「ビー玉」への愛情さえある。
本はおもしろい
ページをめくるたびに新しい
今日も明日もページは新しい
まるで新しい一日をむかえるように
本はおもしろい
身近にいつもある
今日も明日もいつものように
本といっしょに明日がくる
本はおもしろい
本が無限につづけばいいのに
終わってほしくない物語
まるで人のように
本のページが新しい一日をひらく。本が好きな作者はどんな本を読んでいるのかな? 本は知らないことや珍らしい経験を提供してくれる。
いろいろな本をたくさん読もうよ!
さいしょはつるつるしてて、
せも高くて、
頭もかどがあったのに、
なくなってちょっと悲しいな。
服をきているけど、
服がだんだんぼろぼろになっていって、
服を切られる。
だんだんせが小さくなって小さい丸になるんだ。
ころころころころころがってまいごになっちゃうんだ。
でも小さくなるまで使ってくれてありがとう。
次は、新しいけしごむにバトンタッチだ。
次のけしごむもわたしと同じ気持ちになるのかな。
教室で毎日お世話になっているけしごむの身になって、小さくなるまでをとらえている。「まいご」になっちゃうまでもじっととらえている。
けしごむもきっとうれしいだろう。
きょうは友だちとあそぶ日だ
一時間目、まだ一時間目か
二時間目はやくあそびたいな
三時間目、あとちょっとだ
四時間目、あと少し
五時間目、はやくはやく
やっと家についた
ののかちゃんあいりちゃんを
むかえにいこう。
おやつ おいしいね。
おにごっこ、おにきめしよ
あいりちゃんおにだよ
みんなバイバイ
またきてね
五時間目が終わるのが「はやくはやく」と待ちどおしくて、家についてようやくお友だちと遊べる。
おやつやおにごっこで、楽しかった遊びの内容をもっと書いてほしかった。
木は人を見ている
人はボール遊び
木はそれを見ている
木は人を見ている
人はドッチボール
木はそれを見ている
木は人を見ている
人は絵を書く
木はそれを見ている
木は人を見ている
人はごはんを食べる
木はそれを見ている
人はいいなうごけて
木は「人を見ている」「それを見ている」とくりかえして、木が人のやることを動かずに見ていることをとらえる。
木は動けないから人をじっと見ているだけ。最後は木の実感。
ブロッコリーが木になってる
おすしがしんかんせんになってる
チャーハンがサーフィンになってる
ももがさくらの木になってる
コッペパンがでんしゃになってる
緑色のストローが竹になった
どうして?
びっくり!!
夏休みに見た ふしぎな世界
6例とも、現実にはありえないふしぎなできごと。「夏休みに見た」とあるけれど、夢だったのか幻だったのか。
それはそのままタネ明かししなくてもいい。豊かな想像力です。
ぼくは、最近たくさん悲しい事がありました。
これまで一緒に居た犬が亡くなったんです。
ぼくが、朝学校に行く前に亡くなりました。
そして悲しみを抱えながら学校に行きました。
もちろん学校では、落込んでいて、あまりしゃべりませんでした。
たくさんの友達が、「今日どうかした」とか「元気ないね」とか心配してくれました。
そして一人の友達に、今日あったことを話しました。
すると「そうだったんだぁー」と言ってなぐさめてくれました。
そのおかげで少し元気がでました。
そしてその友達にこれまでの犬との思い出を話しました。
そうしているとだんだんいつも通りになってきました。
そして翌々日火そうをしました。
初めてだったけどいっぱい花を入れてかわいくしました。
そして最後、今まで一緒に居てくれてありがとうと思いキスをしました。
そしてお骨が帰ってきました。
大切にして家へ行きました。
そして月日が2ヶ月ほどたった時、いとこの犬が亡くなりました。
またあの時の事を思いました。
そん時それまでは、元気だったのにとつぜん亡くなって、脳が追い付いてませんでした。
そして次の日また同じ場所で火そうをしました。
今回は、いとこの犬だったので、その人達に花を渡していっぱい花を入れて、かわいくしました。
あの時と同じだなぁーと思いました。
最初の頃、今まで一緒に居た犬がとつ然いなくなったから、心がさみしい気持ちになりました、
でも友達など支えてくれる人が居たから、つらい時も笑顔でいられました。
今は、友達と仲良く遊んだり話したりして楽しんでいます。
そして一番大事なのは、友達おたがいを支えあっていって、相手が元気がない時はなぐさめて、自分が元気がない時とかになぐさめてもらって、やっぱり友達と居ると楽しい。
友達は大事だと思いました。
愛犬が亡くなって、学校へ行っても元気がない。友だちにそのことを話したら、ラクになった。いとこの犬のときも同じこと。
友だちと支え合うことが大切ということを学んだ。
こうして私がベッドに入って
天井を見つめる時間には
見えない何かに追いかけられる
怖い夢を見る人も
昼間の話を思い出し
笑う人もいるのだろう
今もこの世界では
いろんなことを
考えている
たくさんの人が
生きている
ああもうそろそろ寝なくちゃな
わかってるけど
あと少しだけ
ゆかいな世界のみんなの想像
私にさせてはくれないか
ベッドに入って、あれこれと想像をふくらます。たくさんの人たちはどんな生き方をし、どんなことを考えているのだろうか。
ひとりで楽しむことができる、愉快な想像の世界。
ああ妹ずるい宿題なしずるい。
あまえんぼうああずるい。
ああ妹ずるい遊ぶ時間ありすぎああずるい。
ああずるいずるい自分のおかしありすぎてずるいずるい。
ああずるいずるいおもちゃが、ありすぎてガマンできない。
ああずるいずるい。
お兄さんから見れば、あらゆる点で「ずるい」と感じるかもしれない。でも、お兄さんもそのように「ずる」かったのだ。
はっきり「ずるい」と言いつつ、妹への愛がいっぱい。
消しゴムって、
にん者みたい。
だってまちがえたこと
消せるんだもん。
ドロン!
いっしゅんで消せる
かくれみのじゅつ!
消しゴムって、
にん者みたい。
だって分身
できるんだもん。
白と黒のにん者たちが
どんどんふえていく
分身のじゅつ!
消しゴムって、
にん者みたい。
だって変身
できるんだもん。
自分の好きな形に
変えられる
変身のじゅつ!
消しゴムを「にん者」に見立てたところがお手柄。3つの章で書いていることはその通り。
「かくれみのじゅつ」「分身のじゅつ」「変身のじゅつ」と受けとめたところが愉快。
雨上がりの青空
いろとりどりの虹が出る
赤、オレンジ、黄、緑、青、あい色、紫…
七色のリボンが空をかざる
虹は見わたせばたくさん見つかる
私の虹色、あの子の虹色、仲間の虹色
海の向うにも 私の知らない所にも
それがあつまって 一つの大きな虹になる
輝く虹のリボンが 世界中をかざる
見つけよう あなたの「虹色」を
「私の虹色」をはじめ、さまざまな虹が集まって「一つの大きな虹になる」という発想は美しいし、きっとそうなのだろうと思わせる。
それが空の七色のリボン。自由な想い。
夢には色々な色がある
赤、青、黄色
色々な色がある
私の夢は何色だろう
今は知らなくていい
いつか分かるから
今は一歩ずつ未来にむかって歩いていこう
夢には感情の色がある
赤いよろこび 黄色のきたい
オレンジの恋 青のこうかい
そして水色の希望
私の夢は何色だろう
そう思うと心が不安になる
私の夢は何色だろう
きっときれいな色だろう
今は希望をもって一歩未来へむかって
歩いていこう
「夢には色がない」というのは疑わしいね。「私の夢は何色だろう」と3回くり返される。作者は「夢には色がある」と信じているのだ。
何色かはこれから自分の未来が決める。
お母さんー
お母さんー
ドタバタ走りながら二階へ向かう
「なんで空は青いの」
きょうみしんしんな私。
信号の進めは何色?
青でしょ?
涙がこぼれそうなときは
涙がこぼれないように上を向くでしょ?
ほら見て
青だよ。進まなきゃ
それを聞いてから私は
悲しい時、空を見る
そうすると
空がほほえんでくれる。
空の青さに「なんで?」と疑問を持つことは大事なこと。それに対するお母さんの答えがいい。
信号の青ということは「進め」という合図。悲しいときでも空の青を見上げ進め。
桜が舞いおりて
最後の記憶のページは
そっと閉じ始める
命の炎が消えてく
最後の時に向けて
そっととまり始める
夢が叶うって言ってくれた先生も
きっと大丈夫だって言う家族も
皆
私が気がつかないと思っているのか
偽りの仮面をかぶる
皆
嘘つきさんばかりだ
皆
私を見てくれないんだ
そして
私も仮面をかぶる
まるで気づいていないフリをして
たぶん誰もが私が純粋だと思ってる
だから
最後の一年は
貴方たちの理想でいてあげる
最後の一年
最後の春かもしれないから
春が終わった日
私が終わった日
ちょっとへそ曲がりの作品。みんなも私も「偽りの仮面」をかぶっている。そう見えることもあるけれど、でも、本当は真実のお面をかぶっていることもある。
「脱皮」する私。
ママは、料りがとくい
おいしい食材を買ってきて
トントントンと食材を切って
にんじん、
じゃがいも、
たまねぎ、
お肉、
ママはいろんなものを作る
りょうりをしている時のママは
とってもえがお、
とっても楽しそう、
とってもリズムがいい、
とってもやさしい
料理をしながらいろんなことを
考えている
きっと
ごはんを食べる人をそうぞうしながら
ワクワクしているんだろうな
でも
食材をえらぶ時のかおは、
とってもしんけん
いいのがなかったら
いろんなスーパーを
はしごする
いいのがみつかった時の
ママの頭
すごくえがおだ
逆に
いいのが
見つからなかった時の
ママのかおは、
すっごくぶきみで
いっつもなるべく
ママの
買物には、
ついていきたくないと
心からとっても
思う
料理が得意なママは、それを食べる人の笑顔を想像しているのだろう。きっとそうだ。しんけんな顔をしているさ。
だから、ママの買物にはついていきたくない、それも本音。
土曜日の午前三時
おなかが痛かった
痛いというより変な感じだった
今まで体験したことがなく
眠れなかった
その日の朝
病院に行ったら
盲腸と言われた
入院が決まって
死ぬかもしれないと思った
入院中は、ご飯も食べれず、
お風呂も入れず、
トイレに行くときも、
ずっと点滴といっしょだった
でも
入院してみたら
今までユーチューブばかり見ていたが
テレビの面白さに気づき
母からの電話に勇気をもらった
最初は点滴だけだったが
だんだんご飯も食べられるようになってきた
五日後に退院できた
退院後も抗生剤の苦い薬を飲むことになった
苦くても直すために頑張るぞ
盲腸で入院したときの経験。入院して「テレビの面白さに気づ」いたというおかしさと、母の電話に勇気づけられた経験。
それらをひっくるめて、はじめての経験は忘れがたい。
風のように
そよそよと
波のように
寄せては返す
春の花びらのように
冬の雪のように
ひらひらと
風にゆれて
舞(ま)い上がる
夏の空のように
秋の森のように
あざやかにかがやく
思いをのせて
かろやかにまわる
希望をのせて
指先で星空を目指して
音にのせて
つま先でステップをふむ
光を目指して
私は踊(おど)る
踊る自分の経験から書かれた作品でしょう。「そよそよ」「ひらひら」と踊ることは誰にもむずかしい。
でも、かろやかに踊ろうと努力しているのだ。どんな光が見えてくるか。
飛べない鳥でいたくない
青い空が見たい 雲にもう一度触りたい
いつからだろうか
空がせまく 苦しくなったのは
私は今 地面に落ちた
救いを求めて必死に歩く
すると どうだろう
色とりどりの花 四葉のクローバー
ここには空にはない幸せと温かさで
いっぱいなのだ
上を飛ぶものも無い
落とそうとしてくるものも無い
みんなが同じ道を歩いている
本当の幸せとは
高く飛ぶことだけではない
私は飛ばない鳥でありたい
緑の中で眼むりたい
雲達とさよならしたい
もう二度と
モノクロの笑顔を浮かべないように
あなたも飛ばない鳥でいよう
周りの重荷で落ちてしまう前に
翼が折れて飛べなくなる前に
飛べなくて地面に落ちた鳥。地上には地上の危険があるだろうが、空にない幸せと温かさがある。
「本当の幸せとは高く飛ぶことだけではない」という考え方にいたっている。
いつ会える
毎日見ているカレンダー
指折って数える年二回の楽しみ
何かする
どこかへ行くわけじゃない
みんなで集まるリビングで
ただみんながいて、みんなと話をして
みんなとごはん食べて、笑いながらいる
時間がぼくにとっての幸せ。
おじいちゃんおばあちゃんと過ごせる
数少ないきちょうな時間
遠くはなれているからなかなか会えない
ぼくのじいちゃん
電話の声は、いつも近いのに、遠くにいるぼくのばあちゃん。
友達は、すぐ会える所におじいちゃんもおばあちゃんもいる。
ぼくだけさみしい気持ち。
夏休みの一番の楽しみを
コロナがぼくからうばってしまった。
去年の夏も今年の冬もかなわなかった
じいちゃんち。
この夏こそぼくの願い…
また散ってしまったけれど
今回オリンピックを見て思ったんだ。
くやしさは、次への楽しみにつなごうって。
会えない分、残念な分。
次会える時楽しみにしておこう。
そして、
今より、大人になったぼくを見て
ほめてもらおう。
そのために、また今日からぼくの
楽しみのカウントダウン
みんなと一緒にいる時間が幸せなのに、今は友だちにも、祖父母にも会えない。さみしい気持ち。
そのくやしさは「次への楽しみにつなごう」と前向きに「カウントダウン」開始。
花は花だけでは咲けない
人も同じ
日光は家族 空気は友と
水は知識で 肥料は言葉
「ありがとう」言葉をかけられ
強くなる
たくさんのものに支えられ
成長する
グングン グングン グングンと
そして
咲かせる
人という花を
花も人も同じように「日光」と「家族」、「空気」と「友」の関係が大事である。
たくさんのものに支えられながら成長して、強くなるのだ。最後に「人」という花を咲かせよう。
そこに生きる楠の大樹
大地に根を張り
空に向かい深呼吸
脈打つ命の鼓動を響かせて
楠は微笑む
砂遊びする幼子の見上げた瞳と目が合って
楠は耳を澄ませる
雨に濡れた虫たちの幹に伝わる小さな呼吸
楠は思い出す
風が運ぶどこか遠くの土と涙の記憶
楠は歌う
枝に集まる鳥達の色とりどりのさえずりと
楠は想う
夜空の星に果てしない宇宙の物語
楠は生き続ける これからも
脈打つ命の鼓動を響かせて
実際に楠の大きい樹と、じっくり向き合っているように思われる。
じっとしている楠の樹に託して、「微笑む」「耳を澄ませる」「歌う」「想う」など、さまざまな生き方を重ねる。
ぼうっと 北の大地を歩いていると
ひっそりと 何かが巣にいるようだ
こそっと 木の影が見ている
ざわっと 音がした
おわっと 突然姿を表した
ふわっと した毛なみだ
さらっと 木の実を取っていく
あらよっと 木の上へかけのぼる
ぷくうっと 口にほおぼる
ぶわっと 少しこぼした
すうっと 巣に帰っていた
ホワット?エゾリス
ほわっと いやされた
エゾリスのようす13態を、実際に見ていたとは思えないが、各行のあたまには「ぼうっと」とか「ひっそりと」と工夫されている。想像されたものもあるのだろう。
かわいい。