矢沢宰ってどんな人
昭和19年5月7日中国江蘇省で生まれ、父の現地召集で母と故郷の古志郡上北谷村河野に引き揚げてきた。上北谷小学校2年生のとき腎結核が発病し、右腎を摘出。その後療養生活を繰り返し、1年遅れて上北谷小学校を卒業。卒業生を代表して答辞を読むが、その後激しい血尿に倒れ、直ちに新潟県立三条結核病院小児科に入院。絶対安静の日が続く。詩や日記は入院後の14歳の秋から書き始めた。昭和36年5月から病院付属の三条養護学校中学部に通い始め、翌年3年に特進。2年間で中学部を卒業する。同時に三条結核病院も退院し、5年ぶりに実家に帰る。昭和38年県立栃尾高校に入学。文芸部に入る。順調な学校生活を送るが、高校2年生の2月腎結核が再発。三条結核病院に再入院する。そして、昭和41年3月11日、劇症肝炎を発症し、21歳の若さで没した。
死と向き合う病苦との闘いの中で綴られた500編もの詩は、栃尾高校文芸部から遺稿集「それでも」として、また三条結核病院で宰の主治医だった吉住昭等有志の手によって遺稿詩集「光る砂漠」として上梓された。その詩集を、当時のお茶の水女子大周郷博教授が、毎日新聞の「母と子のうた」欄で紹介すると、たちまち全国的な反響を呼び起こした。また、これらの遺構集のほかに周郷博により詩集や日記が刊行され、さらに東京芸大萩原英彦教授によって合唱組曲にも作曲されている。
宰の13回忌に建てられた自筆の詩「風が」が刻された墓碑は、上北谷小学校脇の墓地に、また、全国の宰ファンの協賛を得て、平成3年に建立された「少年」の詩碑は、大平森林公園にある。
昭和19年5月7日
中国江蘇省東海県海州新大街5号「海洲鉱業開発」の社宅でに父矢沢元、母レウの長男として生まれる。“宰”の名は、親しくしていた中国人呉顕頭(うしんとう)という人がつけた。
昭和20年7月31日
父の現地召集で、母と一緒に父の実家の新潟県古志郡上北谷村河野7番地(現在の見附市河野町)に帰り着く。
昭和20年8月15日
終戦
昭和26年4月
村立上北谷小学校入学
昭和27年12月
2年生の年の暮、友達と裏山へ行き、雪を赤く染めた血尿で発病に気づき、腎結核と診断される。
昭和28年4月
新潟大学病院泌尿器科で右腎摘出手術を受ける。手術を受ける前に「これが最後かも知れない」と祖父と記念写真を撮ってもらう。
昭和32年12月
残った左の腎臓にも結核発病。
昭和33年3月
一年遅れて見附市立上北谷小学校を卒業。
昭和33年3月27日
新潟県立三条結核病院小児科へ入院。血尿強度で輸血と止血剤の連用、安静を強いられる。初め俳句を読んでいたが、立川看護婦にもらった詩集が作詩の動機となる。
昭和33年11月3日
初めて「日記」を書き始める。
昭和33年12月24日
イギリス人の宣教師の訪問により、初めてキリスト教に接する。
昭和34年3月13日
父が肺結核を再発、手術を受ける。
昭和34年5月
詩集「それでも」を編む。
昭和34年10月
中原中也の詩に感動。聖書や芥川全集を読む。敬虔なキリストの信者を志し、詩作深まる。
昭和35年6月
入院以来の絶対安静で鏡を手に空や雲を映す生活。2年3ヶ月ぶりに自分の両足で20メートルほど歩く。
昭和35年8月
詩集「詩の散歩」を自装でつくる。
昭和35年10月
2年弱で作詩200編に達す。この年、NHK新潟ローカル、ラジオ新潟、「新詩人」などに詩をしばしば投稿、その幾編かが入選。
昭和36年4月
病状が著しく改善し、新潟県立三条養護学校(三条結核病院に付設)中学部1年に入学。
昭和36年5月
4年数か月ぶりで入浴。
昭和37年1月
祖父の死。
昭和37年4月
養護学校中学部3年に特進。
昭和38年3月20日
養護学校中学部を卒業。卒業式では答辞を読む。退院して5年ぶりに見附市の実家に帰る。
昭和38年4月
新潟県立栃尾高校へ進学。実家から通学。文芸部に入る。
昭和38年11月
憧れていた柏崎の海へ行く。
昭和39年3月
初めて単身上京。
昭和39年8月
父が病気再発。大学進学の問題にも悩む。
昭和39年12月
アルバイト(栃尾で輸出品のカードの穴あけ)をする。
昭和40年2月
高校2年の時、腎結核再発。
昭和40年3月1日
三条結核病院内科に再び入院。
昭和41年3月11日
高校復学を夢見る矢先、劇性肝炎を発症午前2時15分永眠。