戦乱の時代が過ぎて久しく、武家の在り方も形骸化し、腰にぶら下がる二本差しはもはや装飾と同義である。やれ名高い刀鍛冶の銘だ、幾らの値がついたとうそぶいたところで、抜かれなければ床の間の掛け軸ほどの価値もない。羽織袴で居丈高に威張り散らす侍の中には、重さに耐え切れず大刀を竹光に変えて差すものも居る始末。
そんなご時勢ではあるが、総領息子ともなれば話は別だ。次男三男のごくつぶしならいざ知らず、いずれ武家の主となるものが、鯉口を切ろうとして指を切ったのでは格好がつかぬ。たとえ生涯において斬りつけたものが血曇も残さぬ庭の木のみであったとしてもだ。
そんな武士の見栄と体面の維持のため、またはごくたまさか己を磨くため、ぬるま湯もかくやという泰平の世であっても、城下町にはそれなりの数の剣術道場があった。士族のみを受け入れるところもあれば、志さえあれば市井にも門戸を開く道場もある。それなりに熱を入れて剣に打ち込むものが集まれば、互いを競わせることで上達も早くなる。他流試合をすればその力量は名高く広まり、我こそはと血気盛んな若者がこぞって戸を叩く。修練の厳しさに逃げるものも多いため、門人はそれほど増えないが、残るものの質を思えば損はない。
町並みから少し外れた地に構えられたこの道場もそうしたひとつで、一年も通えばその上達ぶりは目にも明らか、仕合えば負けることを知らぬ。師の人柄か、門人はみな己の腕をひけらかすような真似もしない。その道場に通うと言えば、立派なものだと畏敬の眼差しを向けられた。
今日もまた、道場からは勇ましい掛け声と竹刀の打ち振るわれる音が高らかに響く。通りすがりにそれらを聞く者はみな、誠の武士とはかくあるべきよと褒め称えた。
とはいえ、彼らとてひとたび剣を置けばただの若者と変わらない。休息の合間に話すことと言えば、町人であれ士族であれ相場は決まっているのだ。どこそこの店の娘が可愛いだの、あの茶屋の女は色っぽいだの、語るものの年に応じて艶の度合いも変化する。年かさのものが語る遊郭での武勇伝には多少の誇張こそあるだろうが、聞いているだけで白粉の匂いが立ち込めるような艶話にみな目を輝かせた。
この日は、色事に強い男が一風変わった話を披露した。
―――『紫薫屋』なる陰間茶屋にあやかしの如く美しい色子がいる。
(中略)
通された部屋は然程広くはないが、置かれた調度はどれも値が張りそうなものばかりだった。漆塗りの膳には先に出されたものよりも贅沢な菜が盛られている。衝立の向こうに敷かれている布団が視界に入って、少年の脈拍が一層速くなった。
「あ、あの…」
「なに?」
意を決して目の前の男に声をかけると、気負いのない応えが返った。いまだ正座のまま固まっている客に対して、男はさっさと膝を崩してくつろいでいる。脇息に肘をついて少年を眺める様は、どちらが客なのか判別に苦しむところだ。いくらこちらが物慣れぬ若造とはいえ、随分となめた真似をする。そう腹立たしく思う部分はあっても、いざその顔を見てしまえば途端に心が萎縮する。頬を染めて視線を彷徨わせる少年を、男は楽しそうに見つめた。
「脚をくずしたらいい」
痺れてしまうよ。揶揄するように忠告されて、少年はむっと眉を寄せた。それが機となり、息を吸い込んで言い放つ。
「悪いが、私はお前の客になるつもりはない」
「あの部屋に居たのに?」
間髪いれずに切り返されてぐっと詰まる。あそこで格子戸越しに彼を眺めていた時点で、確かに客は客だ。
「それは、色々事情があって…。とにかく、私は花代だって持ち合わせていないし」
先の席料は奢ってやると言われていたし、そもそもこんな状況を予想しようはずもない。家に戻れば多少なりとも融通の利く金子もあるが、今の懐は寂しいものだった。
「大丈夫、付けがきくから」
「いや、だからそういうことではなく…」
なんとか弁解しようとするのに、男が耐え切れずに吹き出す。あからさまにからかわれたのだとわかり、少年は眉を吊り上げた。
「からかうためにこんな場を設けたのか!」
「そういうわけではないけれど」
治まらぬ笑いに肩を揺らしながら、男は目尻に浮かぶ涙を拭った。
やけにはしゃいだその様子は、庭で見た折の怜悧な雰囲気とはまったく異なっている。一体何がそれほど楽しいのかと視線を向ければ、柔らかく瞳を細めて微笑まれ、また熱が上がった。
「金のことはいいよ。そもそも稼ぐために居るわけではないから」
男が陰間茶屋にいる理由が金のためではないとはどういうことなのか。まさか天性の色狂いなのかと寒々しい想像をしてみるが、それならば通う客を断るはずもない。
困惑した様子に男はことさら笑みを深め、するりと少年へとにじり寄った。
伸ばされた手は細く骨ばっているが、少年のそれよりも成熟した男のものだ。体躯も、細身ではあるがしっかりとした骨格で、剣を手に日々鍛錬に励む同胞と比べても遜色がない。年よりも身体が小さく華奢な少年のほうが、まるで客をとる色子のようだ。
艶めいた意図をこめて手の甲を撫でられるのに、ぞくり、と痺れが走る。感じたことのない高揚と、それが引き寄せる記憶への嫌悪。相反する感情に、少年が慄いたように後ずさった。
「やめてくれ、私は――私は駄目なんだ」
怯えた風に震える様に男が首を傾げる。
「男は初めてという意味で?」
直裁に問われるのに頭を振って、視線を下げたまま少年は言い募る。
「男が、ではなくて、こういうことが…駄目なんだ」
元服を済ませた後に、道場の仲間に遊郭へ連れて行かれた。嫌がっても聞き入れてもらえず、「一度すれば病み付きになるぞ」と彼の馴染みの店に放り込まれた。あらかじめ話をつけていたのだろう、目合わされた妓は慣れた風に少年を誘ったが、乱れた着物の下の白い肌を目の当たりにしても恐れしか沸いてこない。知らぬゆえの緊張と高をくくった女の手が、若く張りのある少年の皮膚を撫でさすった。柔らかな掌が下肢を這うのに身体は反応するが、裏腹に少年の心はおぞましさに鳥肌を立てる。無理やりに引き出された快楽に熱を吐き出した瞬間には、あまりの気持ち悪さにうめき声をあげていた。
流石にその様子を不審に思い、妓がなだめるように背をさするその感触にすら怖気が走る。四肢を縮こまらせて震える少年に、妓はそれ以上触れようとはしなかった。
敵娼は気の優しい女で、少年の体たらくを連れてきた同胞には告げず、口裏を合わせてくれた。お陰で彼の苦い夜の一幕は知られることなく、「これでお前も一人前だ」と肩を叩かれたのだった。
以来、たまに誘われても、一度断れば、味を知ってもなお興味を惹かれぬというならば誘うだけ無駄だと諦められるようになった。あの部屋で揶揄されたように、時折話の種にされることはあっても、無理やりに女を抱かされるようなことはない。男としてこのままではいけないと思えど、あの時のおぞましさを思い返せば、ふたたび誰かと肌を合わせるのは怖ろしかった。
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