【幻想デルタ 本文見本】





 学研都市ヘリオポリス。
 ここには最高峰と謳われるカレッジを始め、高い偏差値を誇るアカデミーや、世界有数の企業が研究施設を構えている。
 居住者の多くは十代から三十代のため、娯楽施設も他の都市と比べても過不足ない程度には存在した。無論、夜になれば未成年が繁華街をうろつくのは校則違反になるが、騒ぎにならないラインを弁えていればそれほど目くじらを立てられることもない。アカデミーに入るとともに、親元を離れて寮生活を送っている少年達にとっては、羽目を外すなと言うほうが無理な話だ。学校側としても、警察沙汰など引き起こしさえしなければ、成績を落とさない限りは半ば放任している。
 そして今日もまた、週末をどのように過ごそうかと騒ぐ学生たちの声が教室に溢れていた。
「良かったら、アスランも行かないか?」
 新しくできたアミューズメントパーク――と言う名を借りたショットバーらしい――に行こうと盛り上がっていた集団のひとりが、帰り支度をしていたアスランに声を掛ける。
「いや――折角だけど、俺は止めておくよ」
 内心、またか、とうんざりしながら、表情には出さずに返す。
 誘ってきた相手は学級委員長を務める生徒で、責任感が強いのか、妙な正義感なのか、ともすれば浮きがちなアスランを何かと気にかけてくる。誰と約束するでもなくひとり帰途に着こうとする自分を仲間はずれにでもしている気分になるようで、このように声を掛けるのも初めてではない。
 一度や二度ならとにかく、いい加減アスランがその気遣いを歓迎していないことを悟ってはくれないものか。数えるのも馬鹿らしい頻度のそれに、やはり表には出さず心中でため息を落とした。
「そう言うなよ。行ってみれば案外楽しいから」
 いつもなら、いかにも残念そうな顔で「そうか」と諦めるのだが、今日はどんな心境の変化か、懲りずに追いかけてくる。教室を出ようときびすを返したアスランに駆け寄り、引き止めるためか、肩に手を置いた。
 瞬間、皮膚の内側を無数の虫が這いずるような不快感が全身を巡る。跳ねそうになる四肢を寸でのところで抑え付け、高ぶった神経を深呼吸で宥める。振り払いたいと訴える感情を理性で律して、アスランは何気なさを装いながら身を引いた。幸い、相手は更に手を伸ばそうとはしなかった。
「悪いが、興味がないんだ」
 普段は波風を立てたくないという思いから丁重な言葉を選んでいるが、この時は流石に余裕がなかった。過分に冷たく響いてしまった台詞に舌打ちしたくなる。強い拒絶に、声を掛けてきた生徒の顔が怒りと羞恥で歪んだ。
「――そうだよなぁ。ザラはヤマトにしかキョーミがないんだよなぁ!」
 あからさまに揶揄の響きを乗せて言を発したのは別の生徒で、それに付随するように下卑た笑い声が続く。持ち前の正義感とやらが戻ったのか、委員長が「おい、やめろよ」と制するが、下手なかばい立てなど逆効果にしかならない。悲しいかな、そんな中傷めいた科白を言われるのも慣れてしまっているので、アスランはさっさと教室を後にした。ヘリオポリスの中でも随一の偏差値をたたき出すアカデミーの生徒だ。この程度の諍いを物理的な嫌がらせに発展させるほど、知能レベルは低くない。
 廊下を早足で進みながら、掴まれた肩に残る不快感に眉を顰めた。
 自分でも嫌になる。一時期より大分ましになったとはいえ、今回のような不意の接触には未だに慣れることができない。なんの含みもない手にさえ嫌悪を募らせるのは相手に失礼だと頭ではわかっているのだが。
「アースラン。何怒ってんの?」
「っキラ」
 内省に沈んでいるうちに足が止まっていたらしい。いつの間に近くに来ていたのか、正面に立つキラが、アスランの顔を覗き込んだ。
「またクラスの奴らになんか言われた?」
「別に…」
 図星を衝かれた気恥ずかしさに視線を逸らせば、無遠慮な指先が眉間に寄った皺を突つく。子供に対するような仕草にむっとする反面、触れられても平気な唯一の指先に、アスランは複雑な心境になった。
人付き合いの苦手な自分にとって、キラ・ヤマトはただひとり、本音で話せる相手だ。他の誰かにされれば気分が悪くなるだけの行為も、彼に対しては拒絶する気が起きない。
 下世話な連中がはやし立てるような――いわゆる同性愛と言われる――関係では決してないが、ただの友人かと問われると、この頑ななまでの線引きは自分でも異常ではないかと思わずにいられない。
(―――多分、刷り込みなんだろうな)
 諦念に似た結論を弾き出し、気を取り直してアスランは昇降口へと歩を進める。だが数歩進んだところで、てっきり一緒に寮に帰るものと思っていたキラがついてこないのに、ふたたび足を止めた。
「どうした? まだ帰らないのか?」
「うん。今日は用事があるから」
 具体的な内容を告げない物言いに、思い当たるところを見出してアスランの顔が歪む。それに気づいているだろうに、キラは意に介した風もなく「遅くなるかもしれないから、裏口の窓開けてね」と続けた。
「――夜遊びの片棒を担がせるなって、何度言えばわかるんだ」
「硬いこと言わないで。なんならアスランも一緒に来る?」
 紹介してって前から言われてるんだ。その言葉に今度こそはっきりと憤りを表情に浮かべて、アスランは挨拶もせずキラに背を向けた。



***中略***



 キラの幼馴染。
 かつてと同じ偽りの肩書きと、以前と違う偽物の名前。
 本当の名前を告げることは、気絶しても苦しげに魘されていたアスランを思い出せばとてもできない。それでも、まったくの嘘を吐くのは辛くて――否、偽りの名前で呼ばれるのは辛すぎて、ミドルネームを名乗った。彼にファーストネームしか教えていなかったのは僥倖だ。
 ファミリーネームは、親切だった伯母のものを借りた。
 実の親のものは嘘でも使いたくなかったから。
 溢れる想いを悟られまいと、必要以上に緊張して「はじめまして」と言ったカガリに向けられた眼差しは、過去に見たこともないほど冷たかった。初対面の人間に対する警戒心以上の何かが暗く揺らめいていたのは、きっと気のせいではない。
 彼の身の上に降りかかった酷い運命をキラから聞かされて、自分の身を切られるような痛みを覚えた。迷惑を掛けたくないという思いすら忘れて、養父にプラントへ向かわせて欲しいと懇願するつもりだったが、記憶のない彼を刺激するだけだとキラに止められた。
 いつか彼が落ち着いたら何があっても駆けつける。そう思いながら時間だけが過ぎ、時折連絡を寄越すキラも、逸るカガリを止めるばかり。
 キラからは事情も、アスランの状態も聞いていた。仕方がないとわかっている。それでも、三年経ってもなお消えない想いにカガリも限界だった。
 一年だけでもいいからと養父に無理を言って、とうとうカガリはヘリオポリスのアカデミーへの編入を実現させた。
 ――キラとアスランの関係を告げられたのは、合格を知らせた直後だった。
 頑なにカガリをアスランに会わせようとしなかったのは、真実を知って傷つくだろうカガリを慮ったのか。それとも、今さら現れようとする過去の残像が疎ましかったのか。
 キラの言葉が嘘ばかりだったとは思えない。けれどその中に、隠しきれない思惟は含まれていなかったか。
 ――結局、考えても詮のないことなのだ。疵を負ったアスランを支えていたのはキラで、その相手を彼が選んだのなら、なんの助けにもなれなかったカガリの出る幕はない。
 三年前からずっと色褪せない感情はどこに持っていけばいいのだろう。自分の欲求と、相手への迷惑との間で散々悩んで、最後は我侭な感情が理性を振り切った。
『一年したらオーブに帰る。アスランのことも忘れる。もう二度と逢わないから』
 卑怯にも泣き落としたような様相でキラに懇願し、とうとうキラのほうが折れてくれた。
 こんなことを頼んでいい相手じゃないのに。何度も謝るカガリを、昔よりもずっと大きくなった胸に囲って「謝るのは僕のほうだよ」とキラは呟いた。
 不用意に失われた過去を引き戻さないためと、名前を封じた。もし僅かでもアスランの様子がおかしくなればそこで終わりだと決めて。
 彼が倒れて、これまでかと諦念が頭を過ぎったけれど、目覚めたアスランはカガリのことを思い出してはいなかった。
 よかったと胸を撫で下ろす反面、自分は本当に彼の中から消えてしまったのだと突きつけられたのは、予想した以上に心を苛んだ。
 そうして、『キラの幼馴染のユラ・ヒビキ』として彼との付き合いが始まった。付き合いと言っても、そうそう会う機会があるわけではない。アカデミーのハイクラスはミドルクラスに比べてカリキュラムも過密で、週末には補講を催されることもある。
 それ以上に、カガリから「会いたい」というのはどうしても気後れがした。キラにとって自分はきょうだいであるとともに、恋人に横恋慕する厄介な存在で、アスランに至っては、ただの知り合いに過ぎない。
 それでもキラはカガリのために三人で会う機会を作ってくれ、けれど会えば会ったで、一向に柔らかくならない翡翠の眼差しに胸が抉られる。思い出してもらえない以上にこれは苦しかった。
「防衛本能なのかもしれないね」
 ぽろりと零した弱音に、電話の向こうでキラが述懐する。
「思い出したくないから、そのきっかけになりそうなカガリを必要以上に警戒しているのかも」
 そうかもしれない。ならばこの気持ちすら、アスランにとっては負担になっているのだ。
 あんなに逢いたいと望んで、養父やキラに迷惑を掛けて押し通した意志がぐずぐずと溶けていく。
 どの道一年後には、自分はオーブに戻らなければならない。最初から諦めるために会いに来たのだから、嘆くほうが間違っている。
 そう踏ん切りをつけてみても、聞き分けのない心は未練がましくしがみつこうとする。かといって、アスランにこれ以上負担は掛けられない。カガリはなおも一緒にと誘ってくれるキラに、もういいよ、と告げた。
「もういいんだ。だから今度からは二人で遊ぼう。もちろん、アスランを優先してくれていいからさ」
「……無理しないで」
「ううん。ちゃんと、吹っ切れるから……」
 口に出す端から嗚咽が込み上げてきて、ちっとも吹っ切れていない自分が嫌になる。
 今日はもう無理だ。そう思って就寝の挨拶をしたカガリの声に、キラの言葉が被さった。
「僕を、恨んでる?」
恨む――キラを?
 ずっとアスランの傍に居たキラ。カガリを寄せ付けなかった傍らで、アスランの心を手に入れたキラ。
「――恨んでなんかいないよ」
 悲しくて、辛くて。代われるものなら代わって欲しいと何度も願った。
 それでも、キラに対する負の感情はどこを探しても存在しない。
 キラだってきっと必死だった。壊れかけたアスランを二本の腕で懸命に支えていたはずだ。
「おかしいよな私たち。同じ相手のこと好きになっちゃって。はは、泥沼」
「カガリ……」
「でもさ、どんな喧嘩したっていいんだよ。何があったって、私たちは大丈夫だろ。だって私たち、きょうだいなんだから」
「――そうだね……。ありがとう、カガリ」
 お休み、と言って、電話はキラのほうから切れた。



***中略***



 土砂降りと称していい勢いで降り注ぐ雨に、走り詰めて上がる息が余計にし辛い。それでも、足を止める気にはならなかった。勘でしかないけれど、ユラはまだこの街にいると思ったから。
 彼女が声を掛けた二人連れはアスランの同級生で、普段からあまり良くない噂を身に纏っていた連中だった。人気のない裏庭にユラをおびき寄せて何をするつもりだったかは考えるまでもない。
 自分がどんな危機に晒されていたかも知らず――アスランがどれほど気が気でなかったかも知らず――浅はかな安直さを見せ付けられて、メーターが振り切れた。
 腹に凝った憤りのまま下種な脅しをかけて、溢れ出した衝動に身を任せて強引に口付けた。
 場の雰囲気に流された――違う。
 抑え付けるために触れた華奢な身体に、本能が食らいついたのだ。
 あれほど嫌悪していた人肌の温度に、いとも簡単に血は沸騰し、触りたくて触れていた。慣れない舌が逃げを打つのすら官能を煽って、雄の本性をむき出しにして貪った。
 もし彼女が逃げ出さなければ、きっとあの衝動は自分で止められなかっただろう。
 悲痛な声と、ぼろぼろと零れた涙に胸を衝かれながらも、アスランは自分の中に噴き出す感情をようやく自覚した。
(好きなんだ――彼女が)