走ったおかげか、中庭に張り出されたクラス表の前はまだすいていた。
軽快な足取りで掲示板に走り寄り、自分の名前を探して行ったりきたりする金の頭にアスランが笑みを浮かべる。
高校の制服を着て、以前よりずっと大人びて見えても、そういうところは何ひとつ変わっていない。相変わらず元気で表情のくるくると変わるカガリの様子に、実のところ顔が緩まないようにするのが大変だった。
三年の距離をものともせず、昔のままの距離感で接するのはとても楽しい。けれどアスランは、心のどこかでほんの少しの物足りなさを自覚する。
幼馴染ゆえの気安さで笑いかけてくれるカガリを失いたくない。その反面、その絶対の領域から先へと進みたい。
もとより長期戦は覚悟していたが、改めて自分たちの関係の心地よさと、それゆえの頑なさを思ってアスランはそっと息を吐いた。
「えーっと…、あ、あった! 私A組だ」
「僕はD組だった。アスランは?」
「アスランF組だぞ。なんだよ、皆ばらばらかぁ」
残念そうにカガリがごちる。アスランのクラスは渡り廊下を挟んだ向かいの校舎らしい。合同授業でも同じになることはなく、下手をすれば一日会わないこともありそうだ。
「でも辞書とか借りやすくていいかもね」
「はなから頼る気でいるなよ、お前は」
さして気にする風でもなく軽口を言うキラに、つい持ち前の説教気質を発揮する。
アスラン自身も二人と――比重で言えば、よりカガリと――クラスが分かれたことは残念だったが、こればかりは仕方がない。
「でも部活始まったら行き帰りも別々になっちゃうし、クラスくらいは一緒が良かったな」
いまだ納得できないと不満を零すカガリの言葉に、アスランは心の中で手を打った。
中学の間は生徒会に引きずり込まれてそんな余裕はなかったが、折角なので、高校では何かのクラブに入るものいいかもしれない。もともと身体を動かすのは好きなほうだし、運動神経だって並よりはいいと自負している。
そう、たとえば――陸上部などどうだろう。
いかにもな理由の裏に、率直な下心を忍ばせて思案する。だが、そんな拙く青い計画は、ふいに後ろから伸びてきた腕と、やたら自信ありげな声によって蹴散らされた。
「やあやあやあ待ってたぞ!」
「っはい!?」
突然肩を叩かれて不覚にも声が裏返る。何事かと振り向けば、やたら派手な髪色の男――バッジはひとつ上の二年生だ――が満面の笑みを浮かべている。
「あの、なんなんです一体」
不躾な行動に眉を顰めながら、一応先輩なのだからと言葉だけは丁寧に問いかける。不満げな相手の様子をまったく意に介さず、ますます笑みを深めて、男はアスランににじり寄った。
「君が将来有望な期待の新人、アスラン・ザラ君だろ? いやあ有能な後輩ができて嬉しいぜ!」
なんだその若手議員の売り込み文句みたいな前置きは。
意味不明の評価と、何より名前を知られていることにますます謎が深まってしまう。
「なんで俺の名前を…というか、あなた誰です」
今度ははっきりと表情と声に棘を含ませて誰何する。態度の硬化した後輩に、楽しいおもちゃを見つけたと言わんばかりな人の悪い笑みを浮かべながら、男が種明かしをした。
「俺はハイネ・ヴェステンフルス。現生徒会副会長で次期会長ね」
「…生徒会選挙って5月じゃなかったっけ?」
突然現れた男――ハイネに圧倒されていたキラが、ぽつりとつっこみを入れる。その言葉を耳ざとく拾って、ハイネは人差し指を振る。
「投票なんてするだけ無駄だぜ。この俺が落ちるわけないだろ」
「いや、だろって言われても…」
知らないし。心中で呟きながら、キラは生徒会のイメージを改めざるを得なかった。
「その副会長が、俺になんの用ですか」
なかなか話の進まないことに苛ついて、目上への礼儀を九割がた放棄した口調でアスランが問いかける。
「よっくぞ聞いてくれた! お前、ミゲル知ってるだろ? ミゲル・アイマン」
確かにその名前をアスランは知っていた。いや、知っているどころか、中学生活の大半を彼に振り回されたと言っても過言ではない。
ミゲルは、中学で一学年上の先輩だった。中学に入るや否やなぜか目をつけられて、そのまま生徒会に引きずり込まれた。
寮生活でも、堅物な自分を何かといえばからかい、面倒なことは先輩権限で押し付ける。酔っ払えば「アスランのくせに生意気だぞ!」などと、どこぞのガキ大将まがいの理不尽な理由で吐くほど酒を飲まされたことも一度や二度ではきかない。
もちろん根は気のいい人で、強引な中にも兄貴分としての気遣いや優しさがあったし、本当に嫌なことは決してしない。なんだかんだで付き合っていたのは、やはり友人として彼のことが好きだったからだ。
一年早く卒業した彼は、最後に「高等部でお前の席を空けて待ってるからな」と言っていた――結局それは、守ることができなかったのだが。
彼や他の友人との、忙しくて騒がしくも楽しかった日々を思い出して、アスランはなんとなくしんみりとした気分になった。
ほんのつかの間思い出に浸り、だが、すぐに現実に立ち戻る。
なんでいきなりミゲルの名前が?
いやそれより。
ハイネと名乗るこの男――ものすごく、ミゲルとキャラが被ってないか?
「…つかぬことを伺いますが、ミゲルとはどういうご関係で…?」
「母方の従兄弟だ!」
予測しつつも外れてほしいと思っていた答えが、正鵠を得て返ってくる。
この一声で、彼が声をかけてきた理由も、この先の自分に待ち受けるものも見えた気がして、アスランは目眩を覚えた。
「いやーミゲルが『俺の後を任せるはずだった奴が恩を忘れてそっちに高飛びした。生意気だが見所はあるからお前のところで可愛がってやってくれ』なんて言うからどんなのが来るかと思ってたけど、うん、お前合格!」
合格って何にだ。というより、恩を忘れて高飛びという言い草には文句の百個もつけたいところだ。
心中で毒を吐きながら、それでも懸命に「…俺は高校では部活をしたいと思っているのですけど…」と抵抗を試みた。
「あ? 悪いこたあ言わないから止めとけ。掛け持ちもできないじゃないが、うちの生徒会は忙しいぞ」
ハイネの中では、既にアスランの生徒会立候補は確定済みらしい。
あくまで選挙制なので選ばれないという可能性も勿論あるが、「俺が全面バックアップするって言えば敵なしだぜ」と笑われれば、それも果敢ない希望だった。
言いたいことを言い終わって気が済んだのか、足取りも軽くハイネはさっさと校舎に入っていく。深いため息とともに肩を落としたアスランに、「まあ、頑張ってね…」とキラが役にも立たない慰めをかけた。
「…優秀な人材ならここにもいるんだけどな…追い立てないと働かないけど」
まるで他人事な幼馴染に、アスランは恨みがましく呟いた。
「冗談でしょ、僕は永遠の帰宅部愛好家なの!」
「…理不尽だ…」
(中略)
どれくらい時間が経ったのだろう。扉を締め切っているせいで室内は暗く、時計の針すらよく見えない。
いい加減戻らないと、フレイやミリアリアが心配する。頭では早く立ち上がらなければと思っているのに、身体は一向に言うことを聞かない。
ふいに、重たい戸を引き明ける音が低く響いて、カガリの肩がびくり、と揺れる。体育館の扉を、誰かが空けたのだ。
やがて徐々に近づいてくる足音はひとつだけ。
誰かが探しに来たのだろうか――それとも。
息を殺して小さく縮こまるが、まるでカガリが隠れていることを知っているとばかりに、足音は正確に倉庫の扉を目指している。
とうとう扉の前で止まった誰かが、勢いよく引き戸を開いた。
すっかり日も暮れたのか、体育館も夕闇に染まり、僅かな明かりを背にして立つ人物の顔は見えない。だがその背格好は男のもので、まだ終わっていないのかとカガリは絶望的な気分になった。
入り口の男は一瞬虚を突かれたように立ちすくんで、それから足早に近づいてくる。思わず後ずさるが、あと一歩と言うところで、やっと相手の顔が見て取れた。
「ア――」
アスラン、とつむぐ前に、伸びてきた腕がカガリの上体を引き寄せる。
制服の胸元にきつく顔を押し当てられ、回された腕の力が更に増して、苦しいほどだった。
突然の抱擁に言葉を失うカガリの耳に、切なげな息を吐く音と、搾り出すような安堵の声が響く。
「もう大丈夫だから…遅くなってごめん」
震える身体を宥めるように、背中を何度も撫でられて、カガリの全身から力が抜けていく。
怯え、萎縮していた心がゆるりと解けていくのに、堪えていた涙が今度こそ溢れそうになった。
おずおずと胸に縋ると、一層深く抱き込まれる。己の身体でカガリを守ろうとしてくれているのが伝わってきて、冷えていた指先に熱が宿っていく。
けれど、アスランの掌が頭を撫でる感触の奇妙な遠さに、今の自分の格好を思い出す。
(違う)
――助けに来たのは、私じゃなくて
真相に思い至り、自分でも驚くほどの力でアスランの胸を押し返した。とっさのことで体勢を崩した相手が、突然拒絶されたことに呆然としている。
「いきなり何するんだよ、びっくりするだろ!」
勢いをつけて立ち上がり、わざと呆れた口調でカガリは言った。そして取ることすら忘れていた鬘を乱暴に引いて、自分がラクスではないことをアスランに叩きつける。
「カガリ! ここにいたのね」
その声に振り向けば、ミリアリアの姿が扉の向こうに見えた。いまだ戸惑った風にカガリを見続けるアスランを置いて、カガリはミリアリアに駆け寄った。
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