佐久間象山(さくまぞうざん・しょうざん)  

 1811〜1864年。幕末の学者、砲術家、思想家、開国論者。信州(長野)松代藩士。

 名は啓(ひらき)、大星。通称は啓之助、後に修理。

 天保3年(1832)江戸に遊学し、佐藤一斎について漢文、朱子学を修めた。江戸では玉池

 吟社を営んでいた梁川星巌とも交際があった。天保7年に帰国後は子弟を教授した。

 天保10年再び江戸で藩学問所の長を任される。藩主真田幸貫が海防掛老中に就任すると

 江川坦庵に砲術を学び、「海防八策」を提出した。蘭学の習得にも努め、西洋技術の摂取に

 よる産業開発と軍備充実を唱えた。更に黒川良庵にオランダ語を学び、短期間の内に原書

 から直接知識を得るまでになった。

 嘉永3年(1850)深川藩邸で砲術の教授を始め、翌年には日本橋木挽町に塾を開き、兵学

 や砲術を教えた。この頃の門人に吉田松陰、勝海舟、橋本佐内、小林虎三郎らがいる。

 また同時期、勝海舟の実妹順を娶った。

 象山は西洋知識の深化に伴い、直接外国事情を知る必要を痛感する。これを門弟吉田松陰

 が実行に移すことになる。安政元年(1854)ペリー二度目の来航に際し、松陰は海外密航を

 企て失敗。松陰が幕府に捕らえられると象山も連座して幽閉され、後に故郷松代での蟄居を

 言い渡される。象山は9年におよぶ蟄居の間も洋書を耽読、西洋の知識を深めていった。

 文久2年(1862)暮れ、蟄居を許されると長州藩、土佐藩は象山を招いたがこれを辞す。

 象山は既に攘夷論の限界を悟っていたと思われる。その後、将軍徳川家茂に召命された為、

 開国論を引っ提げ上洛した。

 攘夷の嵐吹き荒れる京都に上ることを親族、門人は危ぶんだが、象山は意に介さなかった。

 京都では将軍家茂他、一橋慶喜、松平容保、島津久光や皇族、公卿に持論を説いたが、

 当時長州を中心とする攘夷論は依然として強い勢力を保っていた。

 元治元年(1864)7月11日山階宮邸からの帰途、三条木屋通りで肥後の河(川)上彦斎ら

 攘夷派浪士により暗殺された。享年54歳。

 象山は身の丈6尺近い長身、体格も良く、異相で眼光鋭く、近づき難いほどの威厳があった。

 襲撃を受けた際も、愛馬に打ち跨り、一目で象山と判るいでたちであったという。

 僅か数日後、蛤御門の変が勃発、長州は敗走する。加えて同年、英仏蘭米連合艦隊下関

 砲撃事件が起き、長州の攘夷派は衰退した。

 象山は漢詩や和歌、書画も巧みで、東洋の精神文化と西洋の科学知識に精通した稀代の

 人物であった。


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