廣瀬淡窓(ひろせたんそう)  

 1782〜1856年。江戸後期の儒学者、教育家、思想家。豊後日田(現在の大分県)の人。

 名は簡、後に建。広瀬旭荘は実弟。

 幼少より四書、詩経等を学び、16歳の時、筑前の亀井南冥・昭陽父子に学んだ。

 大病をして郷里へ帰るが、その後も病気がちで虚弱であった為、家業は弟に譲り、寺の一部

 を借りて子弟に教授した。26歳の時、桂林荘を新築するが、次第に評判を呼び、収容しきれ

 なくなったので10年後、咸宜園を建てて移った。

 淡窓は門下生を身分、学歴、年齢の区別無く平等に扱い、広く門戸を開放。独自の人格形

 成を重んじた教育をおこなった。

 やがて鎮西に咸宜園ありとその名は全国津々浦々に知れ渡り、日本中から入門者が集まる。

 門弟から高野長英、大村益次郎、長三洲、清浦奎吾、廣瀬林外等、英才を数多く輩出した。

 天保13年(1842)幕府は功績を賞して、淡窓に士籍を与え、苗字帯刀を許している。

 咸宜園は広瀬青邨(廣瀬家養子)、廣瀬林外(淡窓の甥、廣瀬旭荘の子)等に引き継がれ、

 明治30年頃に閉塾するまで4000名以上の門弟を世に送り出した。

 淡窓は九州を代表する漢詩人でもあり、詩はその人柄と同じく、清らかで優れ、淡々とした

 風趣で洗練されていると評される。


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