梁川星巌(やながわせいがん)  

 1789〜1858年。江戸後期の漢詩人。美濃国(現在の岐阜県)の人。名は孟緯、字は公図。

 家は代々農業を生業とする豊かな豪農であった。

 18歳の時、家督を弟に譲り、江戸に遊学し、山本北山の門下となる。菊池五山、大窪詩仏

 等をして先々恐ろしいばかりの才能と賞された。後には、北山門下の十哲に数えられた。

 29歳で一旦帰郷。文政2年(1819)には、京で頼山陽と出会い意気投合したといわれる。

 翌年春、再従妹であり、後に女流詩人としても名を成す稲津紅蘭を娶る。

 文政5年秋、二人は西国への旅に赴き、備後で菅茶山、広島で頼杏坪、豊後で廣瀬淡窓

 等々、諸国を行脚する間に多くの文人墨客と交流し、数々の名勝、旧跡等を廻った。

 この西遊は5年にもわたった。

 旅の途次、三原に逗留している際、有名な「常盤の狐を抱くの図に題す」が詠まれた。

 故郷に戻っても、すぐにまた京、大阪の文人、画人を訪ねる旅に出た。

 天保2年(1831)9月、幾度も詩酒を交わした頼山陽の病床を見舞い、江戸へ下る旨を伝え

 別れを告げる。山陽病没の数日前であった。

 江戸では藤田東湖や多くの旧友達と交わり、神田お玉ヶ池のほとりに玉池吟社を設けた。

 吟社開設から京へ戻るまでの10年程の間に、星巌の存在は詩人から憂国の志士へと変化

 していく。この頃、佐久間象山も訪れ交流をもつ。

 晩年は京にあって勤皇の志士達の精神的支柱として大きな影響力を持った。

 安政5年(1853)、当時猛威をふるったコレラ流行により急逝。

 数日後、交流のあった梅田雲浜、頼三樹三郎(鴨崖)、吉田松陰、橋本佐内等が捕縛される。

 世にいう安政の大獄である。星巌も存命であれば、間違いなく捕えられていたといわれる。

 星巌は頼山陽と並ぶ江戸期を代表する詩人であった。門下にも森春濤、鱸松塘、大沼枕山、

 河野鉄兜等多くの英才を輩出し、明治期の詩壇興隆をもたらした。

 著書に「星巌集」「春雷余響」等がある。


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