1702〜1763年。江戸中期の朱子学者。豊後(現在の大分)鶴崎の生まれ。
名は儀(ぎ)、定政。通称儀右衛門。別号青柯。父は肥後細川藩に仕えていた。
同じく細川藩藩医であった叔父秋山需菴の養子になり、秋山姓を名乗った。
幼い頃より聡明であったが、年を重ねるうち他に抜きん出る存在となっていった。
19歳の時、藩主細川宣紀公は玉山を儒学に専念させるべく、需菴には別の後嗣に藩医を
継がせた。後に藩主に従って江戸に遊学し、林鳳岡の門に入った。鳳岡もその才を認め、
代講を任せるほどであったという。
江戸では諸侯に招かれる事も多く、交友も荻生徂徠門人である服部南郭、高野蘭亭、等
数多かった。宣紀公が亡くなった為、肥後に帰り多くの子弟を教育した。
藩主細川重賢公の信頼は殊のほか厚く、玉山もまた傍にあって重賢公を良く支えた。
藩校の設立を建言し時習館が設けられた。玉山は初代学頭となり、禄200石を給わった。
玉山は体格が良く、威風堂々としており、大の酒好きでもあったらしい。
詩はもちろん、文、書、画も巧みであり、熊本の学問は玉山によって大いに盛んになった。
亡くなるまで作詩を続け、臨終の間際「清鏡無底、水月似我」と大書して没した。
熊本市立田山小峯墓地にその墓がある。肥後文教の祖といわれる。
【時習館】
宝暦5年(1755)名君と謳われた細川家8代、藩主細川重賢公が熊本城内(現在の二の丸
公園)に創設した藩校。以降明治4年迄、多くの優れた人材を輩出し続けた。
藩の子弟の人材育成を目的としたが、庶民でも学力優秀な者は入学が認められた。
時習館の名は「論語」の中の「学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや」より付けら
れたという。
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