漢詩の予備知識
 【   】の項目をたどると大まかな流れをつかめると思います。
 ※印の項目は関連語句や補足的な説明です。
 漢詩年表をご覧になり、興味を惹かれたところをクリックして読まれるのも良いかと思います。
【漢 詩 の 歴 史】
 漢字は中国において紀元前1500年以前に生まれたとされます。
 漢字を使用して何かを表現するという試みが、それから間も無く始まったであろうことは想像に
 難くありません。中国の漢詩は、少なくとも三千年の歴史をもちます。
 紀元前の昔から、まさに長江の流れの如く、絶え間なく詠い継がれてきました。
 漢詩の質・量の大きさは、世界文学の中に於いても類がありません。
 漢詩は唐代(618〜907)に質量共に最も興隆期を迎えます。
 わが国に於いてはどうだったでしょうか。
 唐の影響もあり日本では、天智天皇の御代に漢詩が作られ始めたとされています。
 それ以後、わが国の文学は、直接・間接に多大な影響を受けていきます。
 
 ※天智天皇
 第38代天皇。在位668〜671。舒明天皇の子。
 中大兄皇子としても有名。中臣鎌足と共に蘇我氏を滅ぼし、大化の改新を行った。
 また、初めて戸籍や漏刻(水時計)を作成した。
【詩  経(しきょう)】
 漢詩の源をなすものが、詩経です。撰者は伝わっていません。
 中国最古の詩の総集で五経の一つ、というだけでも後世への影響の大きさが分かります。
 漢代初期の学者、毛亨(もうこう)が伝えた書が唯一の完本である為、「毛詩」ともいわれます。
 西暦紀元前12世紀頃から紀元前6世紀頃まで(周時代の初めから春秋時代の末まで)の
 およそ600年間に黄河流域の諸国で詠われた詩と推定され、305編が集められています。
 中国の文明は黄河の流域から起こりました。
 3500年位前に文字が作り出され、詩は古代社会の重要行事である“祭り”とともに発展した
 らしいのですが、後にそれらが編集されて「詩経」が生まれたようです。
 「詩経」の特色は、第一に四言詩ということです。
 一句が四字からなり、四句で一章、三章で一遍をなすのが典型的な形式です。
 四言で、素朴な反復表現が多いのが「詩経」の一大特色です。
 すべて読み人知らずで、古代社会の民衆の哀歓が穏やかに詠われています。
 「詩経」に付けられた「序」が、我が国の 「古今和歌集」の序に取り入れられ、詩文学の理論
 の基本に据えられています。
【楚  辞(そじ)】
 春秋時代から戦国時代にかけて長江流域に楚の国が栄えました。
屈原像
屈原像(武漢)
 (※楚 成立年不明。紀元前223年、秦に滅ぼされた)
 この地方の民間歌謡が「詩経」の刺激を受け、楚の王族の出身
 の屈原(くつげん)という天才詩人によって文学的に高められて

 「楚辞」となりました。

 屈原は晩年不遇で江南に追放され、後に淵に身を投げて生涯を閉じますが、時世や自身の
 不運を憂えていた時期に、代表作である自伝的長編叙事詩「離騒」を作ります。
 讒言によって都を追われた屈原自身が理想の君主に会えない葛藤を、美人を探してさまよう
 姿に寓して夢幻的に詠いました。
 主に現実世界を詠った「詩経」には見られなかった詩の世界でした。長江一帯は地形も変化
 に富み、気象条件も複雑であった為、 その様な幻想的な詩歌が生まれたといわれています。
 詩の形式も楚の歌謡は「詩経」と異なり “三言が基調で間に休止符をはさむ”ものでした。
 当時、中国の北方と南方では、全く異なる詩が詠われていたようです。北と南が風土や習俗を
 異にするために、詩風の違いが起きたと思われます。
 @現実的と幻想的 A抒情的短編と叙事的長編 B質朴な表現と華麗な修辞 C四言と三言
 等、様々な点で相違する「詩経」と「楚辞」の二つの詩歌が、以後の詩歌にいろいろな影響を
 与えていきます。 
【五 言 詩 の 誕 生】
 戦国末期から漢代の初めにかけては、主に楚辞の調子の短編が作られました。
 漢代に入って百年ほど経つうち、民間に新たなリズムの詩が生まれました。
 それが“上二・下三”と切れるリズムの五言の詩歌です。 古代の通商路であるシルクロードを
 通ってきた、西洋音楽の影響があるといわれます。
 このリズムは中国人の好みにも合い、西暦の始まる頃に全編が五字の五言詩が誕生します。 
 ※赤壁の戦い(せきへきのたたかい)
 中国後漢末期の西暦208年、現在の中国湖北省揚子江の南岸で、劉備と孫権の連合軍が、
 曹操の軍を破った戦い。
 これ以後、三国志で知られる天下を三分する形勢となっていく。
 ※竹林の七賢(ちくりんのしちけん)
 中国の魏代末期から晋代にかけ、俗塵を避けて竹林に集まり、清談を行った七人の隠士。
 阮籍(げんせき)、H康(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、
 阮咸(げんかん)、王戎(おうじゅう)
 日本では、近世になって障屏画の主題として多くとりあげられた。
【近体詩の起こり】
 詩は、貴族の社交的な集いの場で創作、鑑賞され、次第に洗練の度を加えて、美しく華やか
 で魅力あるものになっていきます。
 一方、民間では、五言四句の短い軽い詩が詠われだしました。
 四句の詩というのは最も短い形式で、これが後に「絶句」(後述)となっていきます。
 五世紀の末になると、声調(音の高低の変化)によって新しい動きが興ってきます。
 声調の配列を意識的にする事によって、特に聴覚的な美を添えようとする動きです。
 より積極的に配列方法を工夫しようとする試みが、やがて「近体詩の法則」を生み出します。
 
【律詩の誕生】
 五世紀頃まで、二十句ほどで一詩を成していたものが、次第に無駄な表現を省き、バランス
 のとれた安定した形として、八句の形式に固定されます。
 また修辞法の進歩により、対句をきちんと構成するようにもなり、ここに「律詩」が誕生します。
 近体詩の「絶句」も「律詩」も、完全な形になるのは唐代に入ってからですが、およそこの頃に
 成立の端緒が開かれたといわれます。
 ※文選(もんぜん)
 中国の詩文集。梁の武帝の長子、昭明太子(蕭統)の編。6世紀前半に成立。
 周代から梁まで約千年間の文学作品の中から優れた作品800余編を選び、体系だてて
 収録した現存する最古の詩文集。
 当初30巻であったが、唐代に李善が注をつけて60巻のものを編した。
 古代からの文学作品は膨大な量であったが、その選択基準は「文飾と質実とを兼ね備えて、
 君子の趣ある文」とのことだったらしい。
 登場する作者は名の分かるものが130余人、同時代の人もいたが全員が当時既に故人で
 あった。(その頃は、人が亡くなった後、文の評価が定まると考えられていた。)
 中国古代文学の主要資料で、日本には聖徳太子の時代以前に渡来しており、知識層の
 間でたいへん重用され、愛読された。特に近江・奈良朝、平安初期に人気が高かった。
 「白氏文集」と並んで広く愛読され、後世の文学に大きな影響を及ぼした。
 ※初唐の四傑
 王勃(おうぼつ)、楊烱(ようけい)、盧照鄰(ろしょうりん)、駱賓王(らくひんのう)
 初唐は唐成立以前の六朝時代の繊細で華麗な詩風の名残が残る時代。
 
【絶   句】
 絶句は古詩を最小単位で断ち切ったところからその名があると云われます。
 四句よりなる最短の詩形ですから、作詩にあたってはまず要点を絞り、言葉を吟味せねばなり
 ません。詩人のセンスの見せ所ですが、その点では日本の和歌や俳句に似通っています。
 絶句は、何でも小さく短くしてしまう日本人の伝統や嗜好にあっていたのかもしれません。
 漢詩が日本人に受けた一因ともいわれます。
 実際の作詩においては、その他様々な技巧が使用されます。
 決まり事としては、まず起承転結にかなっていること。
 韻を第2・4句に踏むこと。(第1句も踏む場合がある)
 平仄(ひょうそく)という音声のうえの厳格な規則。景と情とを組み合わせる。
 来歴、典故を踏まえた言葉を用いて、膨らみを持たし、印象的な語を並べて感覚に訴える。
 表現に含みを持たせて余韻を漂わす、等々。
 様々な技術を駆使して、詩人達はこの短詩形を磨き上げてきました。
 
【律   詩】
 律詩の場合、第3・第4句と第5・第6句は必ず対句でなければなりません。
 (第1・第2句と第7・第8句は対句でも、対句でなくてもいい)
 詩の構成の中間に位置する対句(第3・第4句と第5・第6句)の出来の良し悪しが作品の価値
 の八割を占めるとも云われています。
 また近体詩は原則として同じ漢字を2度使いません。
 他にも韻をふむという重要な決まり事もあります。
 第2・4・6・8句の末尾に同じ調子や響きの語をそろえます。(第1句目も踏むことがある)
 更に日本人には分かりにくい平仄(ひょうそく)という音声のうえでの決まり事もあります。
 かつての大詩人達が、詩のセンスと共に大変な学力を兼ね備えていたことが分かります。
 ※対句(ついく)=句と句が向かい合い、お互いにつり合った状態になっているもの。
 対になるものは等質でなければならない。
 ※全対句=律詩の八句が二句ごと全て対句の構成をとるもの。
 ※首聯(しゅれん)=第1・第2句  頷聯(がんれん)=第3・第4句
 頸聯(けいれん)=第5・第6句 尾聯(びれん)=第7・第8句
 
【七言詩の登場】
 七言の起源は古いのですが、長い間、本格的な詩としては意識されませんでした。
 それが五言詩の爛熟の末に、新しい様式として注目され始め、六世紀頃から詩の世界に
 現れ出します。五言詩で開発された技法を踏襲するわけなので進歩は早いのですが、
 それでも増えた二字分を完全に活かせるまでには一世紀余りかかりました。
 西暦700年頃になって、五言を凌駕する最もポピュラーな形になりました。
 
【唐   詩】
 中国で南北朝が隋(581〜618)によって統一された頃、日本では聖徳太子が現れました。
 わが国の文化水準もかなり上昇し、太子の制定した十七条憲法は政治道徳上の心得を漢文
 によって記したものでした。
 聖徳太子が小野妹子を隋に遣わせたことは、新しい時代の幕開けでもありました。
 ※聖徳太子
 574〜622。用明天皇の皇子。叔母、推古天皇の摂政として内政、外交の尽力。
 太子は冠位や憲法の制定、法隆寺や四天王寺等の建立と政治の刷新や仏教の興隆に尽く
 したが、同じように漢文学の発展にも大いに力を揮った。
 初の遣隋使派遣で僧や学生を留学させると共に、太子自ら、高麗の僧や博士に仏典や漢籍
 を学んでいる。そこで培った知識は、有名な十七条の憲法や、わが国初の国史の編纂(焼失)
 に活かされたことであろう。
 また三経義疏(さんきょうのぎしょ)は、現存する日本最初の漢文による書物といわれている。
 
 隋・唐約300年間に十数度の使節(遣隋・遣唐使)が往来しました。
 その結果、わが国の漢詩文の水準、教養は急速に高まりました。九世紀後半、白居易の影響
 のもと、菅原道真が登場します。漢詩の受容の第一期時代ともいわれます。
 この時代が中国では唐の時代で、詩の最盛期にあたります。
 唐300年は、4期に分けられます。
 初唐(618〜710年)・盛唐(711〜765年)・中唐(766〜835年)・晩唐(836〜907年)
 (注:年代の区切り方には諸説あります。)
【奈 良 ・ 平 安 時 代】
 ※懐風藻(かいふうそう)
 奈良時代の漢詩集。全一巻。撰者は諸説あるが未詳。
 天平勝宝3年(751)成立。万葉集の成る20年ほど前ということもあって、作者の3分の1は
 万葉集の歌人。多くが五言詩。
 近江朝以後、約80年間、64人の漢詩120編を年代順に編纂した日本最古の漢詩集。
 書名の由来は序の「先哲の遺風を忘れざらんとするがために、故に懐風を以て之に名づく
 云爾」からきている。
 ※万葉集
 古代歌謡が長い年月の間に形を整え、個性化し、奈良時代に純粋な文芸作品として成立。
 これによって和歌は叙情文学として完成され特有の文学様式が確立した。
 現存する最古の歌集。撰者未詳。大伴家持(おおとものやかもち)が深く関わったといわれる。
 仁徳天皇から淳仁天皇の代まで、約4世紀半の短歌・長歌・旋頭歌・仏足石歌・連歌の5体、
 約4500余首が収められている。(大部分は奈良時代の歌。)
 作者は多くが貴族階級や官僚だが、東歌(あずまうた)や防人歌など全国、各階層の人の
 歌も含まれる。素朴な感情を率直に表現し、また写実的で人間味に溢れていることが特色。
 代表歌人として、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、山部赤人(やまべのあかひと)、
 山上憶良(やまのうえのおくら)、額田王(ぬかたのおおきみ)等。
 ※空海(くうかい)
 774〜835。真言宗の開祖、弘法大師。讃岐国屏風ヶ浦に生まれる。幼名は真魚。
 両親他一門一族の反対を押し切って、和泉槇尾寺にて出家。苦行修練を重ねる。
 804年、遣唐使の一員として最澄、橘逸勢(たちばなのはやなり)等と共に入唐。
 密教の奥義を授かり、808年に帰国。後に勅許を得て立宗開教し、真言宗の開祖となる。
 様々な分野において一流の才能を発揮したが、特に書道の世界では嵯峨天皇・橘逸勢と
 共に三筆と称される。
 ※凌雲集(りょううんしゅう)
 嵯峨天皇の命による、初の勅撰漢詩集。全一巻。
 弘仁5年(814)、小野岑守(おののみねもり)が中心となり編纂。
 延暦元年(782)から弘仁5年までの33年間の作品を集めた。作者23人、詩90篇からなる。
 その中でも嵯峨天皇の作が最も多い。
 唐詩壇の影響が強く、懐風藻と比較して、技巧上の進歩も大きいといわれる。
 作品の配列は階級順になっている。
 小野岑守は小野篁(おののたかむら)の父で、空海とも親交があった。
 ※嵯峨天皇
 786〜842。第52代天皇。在位809〜823。桓武天皇の皇子。
 漢文学を好まれ、凌雲集、文華秀麗集の編纂を命じた。
 その詩才も時代を超えて第一級のものである。能筆でも知られ、三筆の一人。
 政務面では、蔵人所(くろうどどころ)、検非違使(けびいし)等を設け、当時の律令制度を
 強固なものにした。
 ※文華秀麗集
 凌雲集編纂後、嵯峨天皇が藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)に命じて撰した、勅撰漢詩集。
 撰者は他に、菅原清公(すがわらのきよきみ)、滋野貞主(しげののさだぬし)等。
 全三巻。弘仁8年(817)頃成立。
 凌雲集の選に漏れたものや、それ以後の作を集めた。作者26人、詩148篇。
 作品の配列は、階級でなく11に分かれた類題ごとになっている。
 凌雲集より長篇が増え、文辞も更に洗練されている。
 ※経国集
 全20巻だが現存のものは6巻。凌雲集、文華秀麗集とあわせて勅撰三集とよばれる。
 前2集は漢詩集だが、この集は文章を含む漢詩文集である。
 淳和天皇の命で良岑安世(よしみねのやすよ)が滋野貞主(しげののさだぬし)等と編纂。
 天長4年(827)成立。作者178人、作品1000余篇。
 ※白氏文集
 中唐の詩人、白居易の詩文集。845年に全巻成る。全71巻。
 824年、友人の元C(げんしん)によって前集50巻が編集されていたが、後に自選の25巻を
 加えた。元は75巻であったが4巻は失われた。
 日本では特に平安朝後期に絶大な人気があり李白や杜甫以上に尊ばれた。
 菅原道真等、以降の文学に多大な影響を与えた。
 ※菅原道真
 845〜903。平安朝第一の詩人との誉れが高い。
 白楽天は平安期最も人気があった詩人だが、その再来とも言われた。
 家系にも学者が多く、祖父は最長・空海と共に唐に渡り、帰国後大学頭・文章博士。
 父もまた同じ職にあった。
 道真も12歳で既に梅の詩を作り周囲を驚かせた神童であったらしい。
 大宰府左遷の時、我が家の庭の梅を詠んだ、「こちふかばにおいおこせよ梅の花あるじなし
 とて春な忘れそ」はあまりにも有名。
 学問の神として、現在道真を祀る神社は1万以上にも及ぶ。
 ※古今和歌集
 平安時代の初期は漢詩に人気が集り、和歌は衰退する。
 しかし、次第に固有文化への関心が高まり、六歌仙の登場とその後の古今和歌集の選定で、
 再び和歌の全盛時代が訪れた。
 延喜5年(905)醍醐天皇の命により、紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(きのとものり)、
 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)が撰した。
 延喜13年(913)頃成立。初の勅撰和歌集。
 長歌・短歌・旋頭歌、約1100首を収めるが、ほとんどが短歌。
 万葉集の重厚な五七調に比べ、軽快な七五調が多くなった。
 三句切れを主とし、優美・繊細・理知的・技巧的。
 組織的な構成と相まって後世に大きな影響を与えた。
 紀貫之による序文は、和歌の本質や歴史を述べ、文学論の先駆けとされる。
 作者は六歌仙、撰者等。
 
 ※六歌仙
 平安時代初期、9世紀中頃の6人の優れた歌人。
 在原業平(ありわらのなりひら)、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、小野小町(おののこまち)、
 文屋康秀(ふんやのやすひで)、大伴黒主(おおとものくろぬし)、喜撰法師(きせんほうし)
 
【宋 代 以 後】
 唐から五代を経て宋になる間に、詩風も少しずつ変わっていきました。
 理屈っぽくなったり、詩を受け入れ楽しむ底辺が広がったことで詩が日常化してきます。
 それに伴って題材も、従来詩にならなかったものにまで広がり、詩人も増え、唐詩に無い趣の
 詩を詠うことで、唐詩に迫ろうという試みが興ってきます。
 以後、詩壇は“唐風”と“宋風”の二つが勢力争いをしていきます。
【鎌 倉 時 代】
 ※新古今和歌集
 鎌倉初期の勅撰和歌集。20巻。古今集から新古今集に至る8つの勅撰集の第8。
 後鳥羽上皇の院宣により源道具(みなもとのみちとも)、藤原有家(ふじわらありいえ)、
 藤原定家(ふじわらていか)、藤原家隆(ふじわらかりゅう)、藤原雅経(ふじわらまさつね)、
 寂蓮法師(じゃくれんほうし)が撰し、元久2年(1205)成立。
 事実上、歌の取捨には上皇の意向が重きをなし、上皇自らによっても改訂されている。
 作者は上皇、撰者の他、西行(さいぎょう)、慈円(じえん)、藤原俊成(ふじわらしゅんぜい)、
 式子内親王(しきしないしんのう)、藤原良経(ふじわらよしつね)等。
 歌風は主観と客観の融合、絵画的、物語的、象徴的、あからさまな表現を避け、言外に余韻
 を含ませるといったもの。
 縁語・掛詞・比喩等の用い方がより技巧的になり、先人の歌の語句・趣向等を取り入れて作歌
 する、本歌取りの技法が発達した。
 ※三体詩(さんたいし)
 全三巻。南宋周弼(しゅうひつ)の撰。1250年成立。
 七言絶句、七言律詩、五言律詩の三詩体を収めたことから三体詩の名がある。
 主に中唐から晩唐までの作品から約500首を集めた。
 特に中唐・晩唐を厚く扱っている。
 日本では室町時代の五山期以後禅僧などに好まれた。
【五 山 文 学】
 日本での漢詩興隆の第二期は、鎌倉時代から室町時代にかけての時代です。
 京都・鎌倉五山の禅宗の僧侶を中心に漢詩の高い水準を保ちました。
 彼等は杜甫や蘇東坡、黄山谷などを好んだそうです。
 この時代は近体詩、中でも七言絶句が流行しました。
 室町時代の絶頂期に義堂周信や絶海中津が登場します。
 
 ※五山(ごさん・ござん)
 格式の高い、五つの大きな寺。中国の制をまねた禅寺の格式のひとつ。
 足利義満の時に、京都五山・鎌倉五山が定められた。
 ※義堂周信(ぎどうしゅうしん)
 1325〜1388。土佐の生まれ。禅僧、鎌倉五山文学の最高峰の一人。
 14歳で出家し、19歳で京都天竜寺に入り、無窓疎石(むそうそせき)等に師事。
 著書に「空華集」「東山空和尚外集抄」等。
 ※絶海中津(ぜっかいちゅうしん)
 1336〜1405。土佐の生まれ。禅僧、五山文学の双璧の一人。
 8歳で仏門に入り、13歳の時、京都天竜寺に入り無窓疎石のもとで修業。
 著書に「蕉堅稿」「四海語録」「絶海録」等。
 ※唐詩選
 中国唐詩の選集。全7巻。五言古詩、七言古詩、五言律詩、五言排律、七言律詩、五言
 絶句、七言絶句を一巻ずつに分けて収める。
 明の李攀竜(りはんりょう)の編とされてきたが、彼の死後、それをもとに何者かが編集し直した
 ものとする説が有力。
 皮肉にも、李攀竜撰のものより、内容が通俗的、大衆向きなことが世に広まる一因であったと
 いわれる。
 李白・杜甫など盛唐期の詩に重きを置き、中唐・晩唐期は軽視されている。
 そのため白楽天や杜牧の詩は一首もとりあげられていない。
 作者128人の詩を詩体別に465編を収録。
 中国では明代後期に流行。日本には江戸初期に伝来し、荻生徂徠が高く評価し、徂徠門弟
 の服部南郭が訓点を施し出版したこともあって漢詩入門書として広く普及した。
 ※全唐詩
 康熙帝(こうきてい)の命により彭定求(ほうていきゅう)、楊中訥(ようちゅうとつ)等が編集し、
 1706年に完成。全900巻。作者2200余人、詩48900余首を収録。
 ※唐詩三百首
 全6巻。清の孫洙(そんしゅ)の撰。唐詩三百余篇を収録。
 五言古詩、七言古詩、五言律詩、七言律詩、五言絶句、七言絶句を一巻ずつに収めた。
 三体詩や唐詩選のように作品選択の偏りがなく、初唐から晩唐まで、唐詩の名作をほぼ網羅
 している。中国では唐詩選よりも広く読まれた。
 
【江 戸 時 代】
 江戸時代は漢詩文の最も栄えた時代です。
 武士から町人に至るまで漢詩文の教養はゆきわたり質・量ともに最高の状態に達しました。
 18世紀に入ると、荻生徂徠。同世紀後半から19世紀に入ると当時の中国の清朝の詩も入っ
 てきます。この時期には、頼山陽等優れた詩人が多数輩出しました。
 
 ※僧界の凋落により、彼等に代わって詩界の中心になったのは儒者や武士であった。
 幕府の昌平黌(しょうへいこう)や各藩校で学び、著名な漢詩人の私塾で作詩に取り組んだ。
 中でも荻生徂徠とその一門は一世を風靡する。彼らが尊んだ唐詩選は以後唐詩を学ぶ者の
 必読書となった。一門には太宰春台・服部南郭・平野金華・高野蘭亭・山県周南らがいる。
 尚、詩吟も安政(1854〜1860)の頃、江戸・昌平黌の書生たちが始めたという説がある。
 
 ※幕末
 日本の漢詩の流れにあっては短い期間だが、特別な状況下で作られたこともあって独特の
 趣をもつ。激動の時代に生きた維新の志士達の熱い心情が伝わってくるようである。
 一部に文学的に云々との議論もあるが、才学に恵まれた憂国の志士達の情熱が人の心を
 揺り動かすのは至極当然である。
 これらは技巧を越えた存在価値を持ち、吟詠の世界でも多くの作品が詠い継がれている。
 溢れ出る心情を詠うということは、技巧以前の詩の本来あるべき姿でもあろう。
 
【明 治 以 降】
 明治に入ると、滔々(とうとう)たる欧化の波に、漢詩文化は衰退の兆しをみせ始めます。
 殊に日清戦争以後、学校教育が急速に普及しだすのと反比例して、漢詩文の教養は
 衰えていきました。要するに若年層で漢詩を作れる人が減少していきます。
 その中にあって、激動の時代は多くの個性的な作者を生みました。
 夏目漱石や森鴎外は、深い教養から独自の漢詩を作りました。
 
 ※この時期の作者は大きく二つに分けることが出来る。
 旧体制下で漢学の教養を身につけた人と、西洋の学問に学んだ文人、文化人達である。
 明治前期は急激な西洋化が進んだが、意外にも詩の世界は興隆を遂げた。
 その大きな要因として幕末の志士達が詩を己の思想を著す道具とし、技量も進歩したこと。
 更に志士達や後を継いだ著名人、実力者、学者等が詩を善くした為に、市井の詩道繁栄に
 役立ったこと。私塾・詩社が江戸期から存続のものに加えて多く成立したこと。
 また、印刷技術の発達で新聞・雑誌・詩集により多くの名作を鑑賞したり、文芸評論を目に
 することが出来るようになったこと。
 鎖国が解け中国との往来が可能になって詩文化の交流が深まったことが挙げられる。
 
【現   在】
 明治以降にも、専門詩人は伝統を受け継いで出ています。今日、漢詩文の教養は
 数百万の詩吟人口、 書道の普及によってまた盛んになる傾向にあります。

詩 の 形 式
 
 古体詩、近体詩の区別は、唐代になってから言い出されたものです。
 近体とは現代風の詩という意味で、唐代に確立された詩の規則に合致したものをいいます。
 これに対して隋以前風の詩を古体または古風、古詩といいます。
 また、唐代以後でも近体のきまりに合わない詩はその中に含まれるようです。
 五言古詩も七言古詩も漢代に始まりましたが、後者は唐代に盛んに作られました。

漢詩の形式

 ※楽府(がふ)
 前漢の武帝が創設した音楽を司る役所の名でしたが、後に楽章を意味するようになる。
 長短句で句数は自由。多くの場合、楽器に合わせて歌った。
 その形式を真似、伴奏を伴わないものが、唐の時代に流行り、新楽府と呼ばれた。
 ※排律
 五言や七言の十句以上の偶数句からなるもの。律詩の拡大版ともいえる。
 ※五言律詩
 五言の詩句は2字と3字で切れる重いリズムを持っている。
 また律詩という詩形は安定感、重厚さをいうものを感じさせた。
 五言律詩やその拡大版ともいえる五言排詩は官吏登用試験の科挙(かきょ)の試験に盛んに
 用いられた。
 ※五言古詩
 唐代に現れた近体に対し、それ以前から存在した詩形。
 一句が五字ずつでできて、句数は6句以上の偶数からなる。
 原則として、偶数番目の句末ごとに押韻する。
 前漢時代に登場して以来、最も正統的な詩形であった。
 ※七言古詩
 五言古詩と同じく、近体発生以前から存在した形式。
 一句が七字からできている古詩。6世紀末頃までは、主に楽府に用いられた。
 ※七言絶句
 絶句は対句を不可欠としなかったため律詩よりもきまり事の束縛は緩く、また七言という詩句の
 4字と3字で切れるリズムが軽やかさを生むということで、七言絶句は私的な宴会や行楽の場
 等で多く愛唱された。

漢詩を鑑賞し詠う
 
 詩には色々な詠い方が在り、従って色々な鑑賞の仕方が在ります。
 詩にはどんな思いがこめられているのか、どのような工夫が秘められているのか。
 人口に広く知れ渡ってきた詩を、何度も見直しているうちに新たな発見をする事もあります。
 自分だけの新たな解釈を見出したり、今までの解釈に疑問をいだく事もあるでしょう。
 漢詩の魅力とは、必ずしも詳しい解説によってのみ得られるものではありません。
 むしろ無心に読みあるいは詠っているうちに、味わい得られるものです。
 昔の人が「詩は味得すべし、解得すべからず」と言ったそうです。
 かといって、決して解説が無用であるというのではありません。
 解説も味得を助ける重要な一手段です。
 
 とにかくあまり難しく考えず、実際に詩を読み、心の琴線に触れたものを詠ってみることが
 早道ではないでしょうか。まずは読み、詠ってみましょう。

本の絵  参 考 文 献     
漢詩のこゝろ 石川忠久 (時事通信社)
漢詩の世界 石川忠久 (時事通信社)
漢詩の魅力 石川忠久 (時事通信社)
中国名詩鑑賞辞典 山田勝美 (角川書店)
漢詩名句辞典 鎌田正・米田寅太郎 (大修館書店)
唐詩解釈辞典 松浦友久 (大修館書店)
漢詩をよむシリーズ 石川忠久 (NHKライブラリー)
中国名詩鑑賞・李白 前野直彬 (小沢書店)
中国名詩鑑賞・新鈔唐詩選 斎藤F (小沢書店)
日本漢詩(上・下) 新釈漢文大系 (明治書院)
漢詩の名句・名吟 村上哲見 (講談社現代新書)
新書漢文大系・唐詩選 目加田誠・渡部英喜 (明治書院)
和歌の解釈と鑑賞事典 井上宗雄・武川忠一 (笠間書院)
漢文名作選・古今の名詩 田部井文雄・高木重俊 (大修館書店)
漢文名作選・日本の漢詩文 田部井文雄・高木重俊 (大修館書店)
NHK漢詩紀行(1〜5) NHK取材グループ編 (日本放送出版協会)
陶淵明全集(上・下) 松枝茂夫・和田武司 (岩波文庫)
万葉・古今・新古今 保坂弘司 (学燈文庫)
大辞泉 松村明 (小学館)
吟詠集・香雲W社(第1集上・下) 瓜生田至 (香雲堂吟詠会総本部)
吟詠集・香雲W社(第2集) 瓜生田至 (香雲堂吟詠会総本部)
吟詠集・香雲W社(第3集上・下) 瓜生田至 (香雲堂吟詠会総本部)
香雲堂教本簡訳集 瓜生田至 (香雲堂吟詠会総本部)

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