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連休中につらつら思った支配人の独り言

まずCG映画について。「APPLE SEED」を観た後に他のフルCG映画と比べて思ったのはわざとアニメ顔にしたのは正解だったなと思ったこと。だってフルCGでリアルに描いたとしてもそれはやはり作り物。質感はどうしたって違和感を感じる。将来驚くべき処理能力で作られたとしても現実空間ではないものをリアルにしても違和感は消せないのではないだろうか。ただ「攻殻機動隊」で描かれるような電脳空間、「マトリックス」のマトリックスになればそうではなくなるかもしれないがそれは既にCGではなくその人の脳内で直接映像を組み立てているので見え方も違うだろうし。リミテッドアニメのようなキャラクターをフルアニメのように動かすという事に使えるこのやり方はうまいと思った。そこからアニメーションの現場へのフィードバックが進めば業界に産業革命が起こると思うのは考えすぎか?次に考えたのが映画の定義。支配人はアクションが好きだけどアクションで難しい話はご法度と言われている。何故か?観客はアクションを観にきているのであって小難しい御託や説教なんぞは聞きたくない。ただただアクションを観てスカッとしたいのだが斬り合いするにしても撃ちあうにしても理由は必要だし登場人物だってどんなダメなホンでもそれなりの人格ってのは与えられている。それにクライマックスからオチまでをつけないといけない。いや放り出すのも逃げるのもありだ。だけどそれを纏めることや編集ってのは必要。ほんでそれをお客に観せて判断を仰ぐことになるんだけど今まで名作と言われる作品は数あれど脚本と演出のかみ合っている例はどれくらいなんだろう。と考えた次第。よく監督自ら脚本を書いたり、編集まで関わるってのはよくあるがそこまでしたってダメなときもあるしとんでもない快作になることだってある。多分映画学校やなんかではそこらへんのモデルケースについて語られているんだろうがそこに嵌っていれば大丈夫ってわけでもない。ホンと演出だけでは成り立たない出演者がいるからだ。そのキャラクターに命を吹き込む者がいなければ映画とならない。言い換えればそれがそろっていればどんな駄作、名作(これも観た者の主観による)も紛れもなく映画なのだ。よくこんなものは映画ではないという言葉を聞くがそれは間違い。劇場でかかった時点でそれは映画なのだ。その上でこの映画は嫌いだ、好きだということしか言えない。作劇方法がどんなに変でもそれを指してダメ等いうのはヌーベルバーグが出てきたときに「こんな撮りかたは映画じゃナイ」といった頭の固い連中と同じということだからだ。どんな作品にも作った者たちの思いが入っているそれが気に入るか入らないかということに加え描写や作劇方法が気に入るか入らないかということだけなんだなと「交渉人」と「リベリオン」を観ながらつらつらと考えていた。さぁKILLBILLでも借りてこようかな(笑)
*追加 映画の定義なんだけれど今かかっている映画も含め「俺はこーゆうのは映画とは認めない」とか「これは映画じゃないと思う」ってのはアリだと思う。百人が百人とも同じ考え方なんて気持ち悪い事だし。ただそれを他人にも「そう思うだろ!」とか「お前の認識はおかしい」ってのには大反対つーか異議を唱えたい。それこそファシズムの走りだしそういうものから目をそらすことだから。この国では論議やディベートが出来ない人が多いのは自分の意見に沿わない連中を敵視するからで認めるってことをしないからでそれがネットによりさらに拡散した。匿名性が高いのに意を異にするものを罵倒し疎外する。村八分の心理と同じである。もちろん正統な評価ってのは下されるべきだとは思うがそれもその観た人の感性なんだから。そーいや昔ある人がいってたなぁ・・・・・・・・・・・・「オトナになれ」って。でもオトナもコドモも関係ないよちゃんと感想を言うことは誰でも出来る行為なんだから。あとはそれを認め自らのスタンスをも明示すること。それが一番大事です。

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