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それもまた、ありふれた日々(3)
Odd and Ordinary days




 ザナルカンドの上に、真っ青な空が広がっていた。
 陽気に誘われるように、アーロンは街に出た。用もないのに外に出てみようかと思ったのは、セプトの家に来てから初めてのことだった。
 ザナルカンドでの生活にかなりなじんできたとはいえ、まだまだ妙な言動をしてしまうことはあった。しかし、回りの人たちは彼が一風変わった人間だということも理解して、あからさまに変な目で見られることは少なくなった。彼もまた、自分の無知を無理に隠そうとはしなくなった。ザナルカンドの街への違和感がなくなることはなかったが、初めの頃のような極端なまでの驚嘆の念や拒絶感は消え、この大都市をあるがままに受け止める心の余裕が生まれていた。
 どこまでも続く大きなビルの群れ。あちこちから聞こえてくる機械のうなり。まばゆいばかりの人工的な明かり。
 スピラでは想像もできないようなものも、このザナルカンドでは、ありふれた日常の光景。
 どこに行こうとしているのか足早に通り過ぎる人、街角でおしゃべりに余念のない人、店先で品定めを楽しむ人−−−−−そんな人混みの中に自分も溶けかかっていることに気づき、アーロンはふと思った。そろそろティーダに会いに行ってみようか、と。
 母をも亡くしたあと、ティーダは親戚の家に引き取られたことは人づてに聞いていた。ブリッツボールの練習も再開し、彼は2、3度その姿を見に少年チームの練習日に合わせてスタジアムにも行っていた。
 しかし、少年に声をかけようとはしなかった。ザナルカンドで暮らしていく自信が持てないままでは、とうていそんな気にはなれなかった。
 これまではティーダの様子を見に行ってもただ遠くから眺めるだけだったのには、もうひとつ理由があった。何を話せばいいのか、どう接すればいいのかわからなかったからだ。
 だが、今度ティーダに会ったらなんでもいいから話しかけてみるつもりだった。ジェクトとの約束を果たすため、次の一歩を踏みだそうと。何を話せばいいのかは今もわからない。でも、それでいいと思っていた。彼はティーダのことをほとんど知らない。ただ、ジェクトから聞いた話で知っているのみ。だから、まずは自分の目であの子がどんな子か知ろうと思った。知らなければ、何も始まらないのだから。
 次の練習日に合わせてスタジアムに行ってみようか・・・・・次はいつだっただろう・・・・・・・・・・・・・。そんなことを考えながら歩いていると、アーロンを呼ぶ声が聞こえてきた。
 彼はそちらに振り向いた。何度か会ったことのある、セプトの知り合いが工事現場の入り口に立っていた。
「おー、やっぱしアーロンか。どうした、セプトに用事か?ちょっと待ってな。すぐ呼んできてやるからさ」
彼はそう言うなり、奥の方に走っていってしまった。
 類は友を呼ぶと言うかなんというか、セプトの友人にはおせっかいやきな早とちりが多い。アーロンは苦笑いしながら、黙って立ち去るわけにもいかないだろうとそこで待つことにした。
 しばらくしてセプトは、まだ骨組みだけの建物の中から現れた。
「お、どしたよ、珍しいな、あんたが外に出てくるなんて。急ぎの用事か?」
「いや、そういうわけじゃない。たまたま通りかかったところを呼び止められただけだ」アーロンは肩をすくめた。「今は、ここで働いていたんだな」
「おう。たぶんあと3ヶ月くらいはここにいるぜ」
アーロンは工事中の建物を見上げた。まだ柱と床しかないとはいえ、できあがればかなり立派なものになりそうなことが見て取れた。
「これは、何を造っているんだ?」
「こーきゅーまんしょん、ってヤツ。オレより0が1コだか2コだか多く稼ぐような連中が住むようなのな。こういうのを造るだけじゃなくって一度は自分が住んでみてえよなあとも思うけどさ、オレなんかにゃ一生かかってもムリだよなあ・・・・・・・・」セプトはため息まじりに言った。そして、ふっとアーロンの方を見ると、続けた。「そーだ。今晩、仕事仲間と飲みに行くから晩メシはいらないって言ったよな?ちょうどいいや、あんたも来いよ」
「俺も?」
「そーそー。留守番なんかさせないで、はなっからそーすりゃよかったんだ。おまえさんお得意のエンリョなんかするんじゃねーぞ。みんな、今話題のモンスターハンターさまと話をしてみたがってんだからさ。ま、あんたよりひとまわりもふたまわりも年上のおっさん連中と飲んだっておもしろくないってんなら無理にとは言わねえけど」
「いや、そんなことはない。・・・・・・・・・・・行く」
「おっし。そんじゃ、決まりな」セプトはにかっと笑った。「そんなら、えーと−−−−あと2時間くらいで仕事が終わるから、そのくらいにまたここに来いや。待ってるからよ」
彼はそう言うと、そそくさと仕事に戻っていった。
 2時間か・・・・・・・どこで時間をつぶそうか・・・・・・・・・・・・・。そんなことをぼんやりと考えるうち、アーロンの目は忙しそうに働く人々を追っていた。
 −−−−こういうのも、いいものだな。
 彼らも生活のために働いているのであって、仕事は楽しいばかりではないだろう。しかしその姿には、悲壮感もなかった。
 スピラでは、物を造るという行為には、それがいつ破壊されるかという不安が必ずつきまとう。それゆえ大きな建物というのはスピラには数えるほどしかないし、それ以前に、そういったものを新たに造ろうという気力がない。それがここザナルカンドでは、ただ庶民が住むだけのためにこんなに立派なものが次々に造られていく。あたりまえのこととして。
 −−−−俺もここで働かせてもらえないだろうか。
 魔物はそんなにひんぱんに出るわけではなく、魔物退治だけでは食べるのがやっとという程度にしか稼げなかったが、こんなことを考えたのは金の問題ではなかった。ザナルカンドの普通の人々にたちまじって働くことで、『シン』のいない世界の暮らしというものをもっと深く知りたいと思った。
 そうだな。あとでいっしょに飲みに行くのなら、その時にでも頼んでみようか。もらえる金はいくら少なくてもかまわない。ただ、また新たな経験をさせてもらえるのならばそれで−−−−−。
 突然の悲鳴。
 アーロンは我に返った。
 彼は悲鳴が聞こえた方に目をやった。建築中のビルのはるか上の階で、いくつもの影が奇妙な動きを見せていた。
 まさか−−−−−−。
「アーロン!よかった、まだここにいたか!!」セプトが血相を変えてビルから飛び出してきた。「魔物だ!魔物が出た!!」
 アーロンはビルへと引き返すセプトのあとを追って、仮設リフトに乗り込んだ。
 リフトは二十いくつかの床を通り過ぎて止まった。そしてドアが開いた時、アーロンはその光景に眉をひそめた。
 −−−−−なんだ、これは??
 小型の魔物が床や天井をびっしりと埋め尽くしていた。スピラでもめったに見ることのないほどの、ものすごい数の魔物。
「こんな・・・・・・・さっきまでは、こんなんじゃ・・・・・・・・・・・・・・・・・」
青ざめていたセプトの顔が、いちだんと青くなった。
「セプト、早く逃げろ」
アーロンは剣をかまえると、言った。
「だけど、こんなにたくさんが相手じゃ、いくらあんたでも」
「いいから行け!どうせ手伝えはしないんだろう?!だったら邪魔だ!!」
彼はそう言い放つと、魔物たちに斬りかかっていった。
 アーロンの剣のひとふりで何匹もの魔物が幻光虫となって飛び散った。フロアは瞬く間に妖しい光で満たされた。次々に襲いかかってくる魔物を彼はかたっぱしから斬り捨てていった。しかしどんなに倒しても振り払っても、魔物の数はいっこうに減る気配がなかった。
 さすがに息があがり始め、剣の動きがにぶくなってきた。それを待っていたかのように、魔物の群れがいっせいに動き出した。風が渦を巻き、ほこりが舞い上がった。
 −−−−くそっ、目が・・・・・・・・・!
 砂ぼこりが目に入り、開けていられなくなった。それでも音と気配だけを頼りに魔物をなぎはらう。しかし四方八方から襲いかかる魔物すべてを倒すことはできなかった。顔や腕に、かすり傷がいくつもできた。一匹一匹は非力とはいえ、あまりにも数が多すぎた。やられることはないだろうが、しかしこれではきりがない。
 ふと、強い邪気を感じた。
 彼は、なんとか開けられるようになった左目をそちらに向けた。
 大きな影が、上の階から柱を伝うようにしてずるりと降りてきた。それは床にへばりつくと体をふるわせた。体表を覆うトゲかウロコのようなものが飛び散り、1匹1匹の魔物になった。
 これが、元凶。
 アーロンは剣を構え直した。雑魚は襲ってくるにまかせ、目標をその魔物一匹に定めた。魔物もまた長い触手を立て、彼の動きをうかがった。無数の魔物がたてる羽音に似たうなりの中に、奇妙な静けさがただよった。
 長い対峙の後、彼の剣がかすかな動きを見せた。
 その時、何かが魔物の後ろ足のあたりで爆発した。魔物は小さな悲鳴をあげ、後ろを向いた。アーロンもはっとして、そちらに目をやった。
 物陰に、人の姿が見えた。
「アーロン!やっぱムリだって!逃げろ!!」
「セプト?!」
 魔物はその巨体に似合わぬすばやさで身をひるがえし、セプトに襲いかかった。彼は一度はなんとか攻撃をよけた。しかしもう一度振り下ろされた鋭い爪が彼の体を捉え、背中を切り裂いた。彼はのどをつまらせたような声と共に、その場に倒れた。
「セプト!」
アーロンは魔物の背後から斬りつけた。魔物は再び彼の方に注意を向けた。そして血に濡れた前脚を今度は彼に振り下ろした。アーロンはそれをかわし、返す剣で脚を切り落とした。すさまじい叫び声がフロア中に響いた。彼は間髪入れずに魔物の脇をすり抜け、背後を取った。そして、首に剣を突き立てた。
 巨体が、声もたてずに床に崩れ落ちた。痙攣が止まると同時に、魔物の体は淡い光と化した。その光に飲み込まれるように、小さな魔物たちも溶けていった。
 そしてそこは、殺風景な工事現場に戻った。
「セプト!」
アーロンは荒い息を吐きながら、彼の姿を探した。
 何を爆発させたのか、床にはかなり大きな穴が開いていた。そしてそのあたりに血が飛び散っていた。ひきずったような血の跡がそこから資材の山の方に続いていた。その陰から、わずかに足がのぞいていた。
 セプトはそこまで逃げたところで動けなくなっていた。
「セプト!!」
アーロンは彼を抱き起こした。彼はうっすらと目を開けた。そしてアーロンの姿をみとめると、かすかに笑みを浮かべた。
「アーロン・・・・・・・・・魔物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ばか!どうして逃げなかった?!」
「もっかい・・・・・・カッコイイあんた・・・・・・・・・・見たかったんだ・・・・・・・・・・・あんたやっぱし・・・・・・・すげえよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「もういい、しゃべるな!すぐに誰か−−−−−−−」
「アーロン・・・・・・・・・・」セプトはアーロンの服をつかみ、助けを呼びに行こうと立ち上がりかけた彼を引き留めた。「アーロン・・・・・オレ・・・・・・・・・・・オレな・・・・・・・・・・・・・・・・・」
やっと聞き取れる声でひとつの言葉を言った時、セプトの手から力がするりと抜け、床に落ちた。苦しげな呼吸が突然寝息のようにおだやかになり、それもやがて、止まった。
「セプト!」アーロンはセプトの体を揺さぶった。「セプト!目を開けろ!息をしろ!死んでしまう!早く−−−−−−!」
しかしどんなに呼びかけても、セプトがそれに応えることはなかった。彼はどこか微笑んだような表情を浮かべたまま、二度と覚めぬ眠りについた。
「セプト−−−−−−−−!!」



×××



 数日後。
 アーロンを訪ねてきた人たちがいた。中年の女性と、十代の少年少女。セプトの家族だった。
 セプトの死を彼らに知らせなければとは思いながらも連絡先がわからず、そのままになっていた。だが、ザナルカンドで初めての魔物による犠牲者のことは、彼女たちの耳にも嫌でも入っていた。
「・・・・・・・・・・・・・・・あんたが、アーロン?」
セプトの別れた妻は、しばらく戸口で立ちつくしたあと、そう言った。
「はい・・・・・・・・・・・」
彼は、彼女の顔がどうしてもまともに見られなかった。
「そう・・・・・・・・・・・。あの人がちょっと変わった人を拾ったってことは噂で聞いてたけど・・・・・・・・・・あんたが、ね」
「セプトのこと・・・・・・・・・・・・・・申し訳、ありませんでした」
「いいよ、あやまらなくても。あの人のことだ、いらんって言うのに勝手にちょっかいだして、勝手に死んだんでしょ?」
「しかし、彼がまだあそこにいたことに気づかなかったのは、俺の責任です」
「あの人はいつだってそうだった」彼女はアーロンの言葉が耳に入ってないかのようにつぶやいた。「いつだって、そう。自分より、他人が大事。家族より、友だちが大事。自分の手には負えないことがわかりきってる頼み事もほいほい引き受けて、何度どんなに困ったことになっても全然こりなくて、自分から面倒に首をつっこみたがって。でも・・・・・・・・・それでも・・・・・・・・それで死んじゃうくらい、お人好しだとまでは、思ってなかった・・・・・・・・けど・・・・・・・・・・・・・・・」
彼女は突然、崩れ落ちるように床に座り込んだ。そして手で顔をおおい、大声で泣き出した。娘は彼女のそばに寄り、母の肩をそっと抱いた。
 彼女は、セプトが嫌いになって別れたわけではなかったのだ。ただ、彼の長所があまりに度を超していて、家族としていっしょに暮らしていると我慢できなくなってしまっただけで。
「お母さん、やっぱり今日は帰りましょう」
母の泣き声がおさまってきたのを見て、娘はそう言った。そしてふらつく母の体を支えて立たせると、そのまま外に出ていった。少女は、アーロンの顔を一度も見なかった。
 そしてあとには、セプトの息子ひとりが残った。
 小柄で線の細い、おとなしそうな少年。さほど背は高くないががっちりとした体格だった父親とはあまり似ていなかった。それもまた、セプトのいらだちの種だったのかも知れない。
「−−−−−−遺品の整理には、母が落ち着いたらまた改めて来ます。それまで、あなたが預かっていて下さい」
少年は、小さな声ながらしっかりとした口調でそう言った。そしてきびすを返した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・ちょっと待ってくれないか」
アーロンは少年を呼び止めた。
 彼は戸棚から一通の封筒を出し、それを少年に渡した。
 少年は封筒を開け、中を見た。入っていたのは、ブリッツボールのチケットが2枚。1ヶ月後のエイブス対ダグルス、一番人気のカードだった。
「・・・・・・・・・・・・・・なんですか、これは」
「セプトから、君に」アーロンは言った。「セプトは・・・・・・・・・・君のお父さんは、幼かった君に自分の理想を押しつけるあまり、ついつらくあたってしまったことを心から後悔していた。なんとか君とやりなおしたい、真剣にそう考えていた。彼は、そのきっかけにしようと、このチケットを買ったんだ。そして、どうやって君を誘おうか考えているうちに・・・・・・・・・・・こんなことになってしまった」
「いりません」少年は封筒を突き返した。「行きたいとも思いません。僕は、ブリッツは嫌いです」
僕はお父さんは嫌いです−−−−アーロンには、そう言っているように聞こえた。
 彼は、封筒をなんとか少年に握らせた。
「君のことは、お父さんにいろいろ聞いた。君がそう言う気持ちは、俺にも理解できるつもりだ。それでも敢えて、君に頼みたい。お父さんの気持ちも考えてあげて欲しいと。試合までまだ一ヶ月ある。それまでだけでいい。それで結局お父さんを許せないというのなら、これは捨てるなり誰かに譲るなりしてくれてかまわない。だけどできれば・・・・・・・・・君が今一番大事に思っている人と、ふたりで行って欲しい」
 少年はしばらく、封筒をじっと見つめていた。しばらくしてそれを無造作にズボンのポケットにつっこむと、ぺこりと頭を下げた。そして母と姉のあとを追って、帰っていった。
 またひとりになると、アーロンは食卓の椅子に座り込んだ。
 −−−−−−これで、よかったんだろうか。
 あのチケットは、セプトが死んだ後、見つけたものだった。
 セプトのベッド回りを片づけていた時、一冊のアルバムが枕の下から出てきた。セプトがまだ赤ん坊の息子といっしょに写っている写真が張られていたページに、チケットが挟んであった。それを見て、セプトが最後に言った言葉の意味がアーロンにはようやく理解できた。
 『ブリッツ』
 いくらセプトは何よりもブリッツボールが好きだったにしても、苦しい息の中で言うにはあまりにも奇妙な言葉。
 セプトはこう言いたかったのだ。『息子とブリッツを見に行きたかった』と。
 その願いは永遠に叶えられることはなくなってしまった。今はもう、あの少年が父の想いを無にせず、家族、友人、あるいはもういるのかも知れない恋人と共に試合を見に行って、亡き父へのたむけとして欲しいと願うだけだった。
 ふと人の気配を感じ、アーロンは頭を上げた。
 部屋の中はすっかり薄暗くなっていた。そして、テーブルを挟んだ向かい側に、人影があった。
「祈り子様・・・・・・・・・・・・・・・」
「アーロン・・・・・・・・・・・・・・ごめん」
祈り子は、かすれた声で言った。
「どうしたんですか?あやまったりして」
「ザナルカンドに魔物を出していたの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぼくなんだ」
「あなたが?」
「死人がザナルカンドに来れることは、理屈としてはずっと前から知っていた。だけど、本当にここに来たのはあなたが最初で、『生活すること』が必要になるとは知らなくて・・・・・・・・・・・・・・・・」
「それで、俺が金を稼ぐ手段にしようと?」
祈り子は小さくうなづいた。
「それならそれで、他にも方法はあったはずなのにね。でも、あなたは施しみたいなことは嫌がるかなとか、ついいろいろと気を回しすぎて・・・・・・・・・・・。やっぱり、慣れないことはやるもんじゃないね。だんだんコントロールがきかなくなってきて、とうとう、ザナルカンドで最初にできたあなたの友だちを、死なせて、しまった」
「−−−−−−いいんです。魔物退治という仕事があったからこそ、ザナルカンドの人たちはこんな俺でも必要とし、受け入れてくれた。それに、セプトのことは、そこまできちんと気を配らなかった俺が悪いんですから」
「あなたならそう言うと思った。だからよけいに−−−−−つらかった」
祈り子はそう言うと、うつむいた。外見とは不釣り合いな老成した雰囲気や自信はすっかり消えていた。
「−−−−−−−−ねえ、アーロン。スピラに帰る?」長い沈黙の後、祈り子は言った。「あなたは『シン』の意思でここにやってきた。だからぼくひとりではあなたをスピラに戻すのは難しいけど、他の祈り子たちの力を借りればなんとかなると思うよ」
 スピラに−−−−−−−帰る。
 しばらく忘れていた望郷の念が、アーロンの心を満たした。
 いくらくだらない掟にしばられていようと、理不尽な死に支配されていようと、それでも愛すべき、彼の故郷。
「−−−−−帰りません」さんざん想いをめぐらせたあと、アーロンはきっぱりと言った。「俺はまだ、帰れないんです」
「アーロン・・・・・・・・・・・・・・・・」
「俺は、ジェクトとの約束を果たすために、俺自身がザナルカンドに来ることを望んだんです。だけどここでは、俺は自分では何一つできない赤ん坊同然だった。まずはここで暮らすことから覚えなければならなかった。そしてなんとか足元が固まり、ようやくこれから自分が成すべきことを始めようとしているところなんです。今ここで負け犬のように逃げ帰ってしまったら、俺は何のためにここに来たのかわからない。それに−−−−今まで親身に世話を焼いてくれたセプトにも申し訳ない」
「でも、あなたが将来を託された子供はティーダひとりだけじゃない。スピラでも、やるべきことはあるよ」
「ユウナのことはあまり心配していません。彼女にはキマリがついていてくれる。いい家族もできたようだ。だけど、ティーダにジェクトの想いを伝えられるのは、俺しかいないんです。俺は、ジェクトと同じ悩みをかかえていたセプトのためにも、ジェクトとティーダの間に父子の絆を取り戻してやりたい−−−−そうも思っています」
「そう・・・・・・・・・・だね」祈り子はかすかにうなづいた。「わかったよ。もうスピラに帰れとは言わない。だけど、困ったことがあったら遠慮なくぼくに言って。できるだけのことはするから。それから、ユウナの様子はなるべくこまめにあなたに伝えるようにするよ」
「はい・・・・・・・・・・お願いします」
「それじゃ、ぼくはそろそろ帰るね」祈り子は立ち上がった。「アーロン、あんまり無理はしないでよ」
「はい」
「それから、もう一度言わせて。本当に−−−−−−ごめん」
 祈り子は姿を消した。暗い部屋の中に静寂が戻った。
 アーロンは明かりをつけず、窓から差し込む街の光を見つめていた。
 すべては、これから。
 ザナルカンドの地にようやく根付いた今から始まる。
 この先の道は、ひどく困難で長いものになるだろう。そう思うと、孤独と不安に押しつぶされそうだった。
 それでも、逃げ出すつもりはなかった。
 もうこれ以上、後悔したくなかった。




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