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REBIRTH・7章(3)




 エドベリが指した男を、クリュセはほとんど重要視していなかった。ふるいおとすだけの根拠がなかったのでリストに残っていたようなものだった。
 ノアキスという名のミドル・エリート。当時工業・農業関係を総括する部門にいた人物だ。被害者がいた部署の人事を担当していた関係で、彼も事情聴取の対象になっていた。
 クリュセは自分の裁判の傍聴人のリストも検索してみた。そこにもノアキスの名があった。そして彼の比較的新しい写真を捜し出したとき、クリュセは息をのんだ。いつだったか、法務庁の下っぱたちが何度目かの無罪申し立ての撤回を強要に来た時に混じっていた、妙におどおどしていた老人。その顔を彼は自分の記憶に見いだした。
 まったく関係ない部署の−−−−それも年齢から言って、すでに引退していたに違いない−−−−者が、法務庁の職員に混じっていた。そのために、相当な根回しをしたことは想像するまでもない。
 彼がなぜクリュセにそれほどの興味を持っていたのか。それは、クリュセが、彼がぬれぎぬを着せた男の息子だということを知っていたからに他ならない。
 クリュセはその結論にとびつきたい衝動を押さえた。決定的な証拠、それがなければならなかった。
 本人に聞くのが一番だ。クリュセは市民登録を検索してノアキスの所在を調べた。が、その結果に、彼は目の前がまっくらになった。
 ノアキスはわずか2年前に病死していた。
 その時、クリュセは初めて気がついた。関係者の半数近くがすでにこの世にいないことに。
 それでも、誰か事実を知っているはずだ。まだ生きている人間の中の誰かが。人脈、行動記録、集められる限りのノアキスの記録の中に何かすがるものをクリュセは探した。
 ノアキスはミドル・エリートとしては平凡な部署を担当し、格下げされない程度の成績をあげていた。問題は、彼は人事決定に直接影響をおよぼす成績管理を主な仕事にしていたことだった。
 能力至上主義の現代社会で、学業・業務成績は重大な価値を持つ。それゆえ成績記録改竄を試みる者はあとをたたなかった。だがそのことごとくが何重ものチェックで発見され、厳罰に処されていた。そのはずだった。
 クリュセはノアキスが担当した人事記録を事細かに調べ上げた。そして少しでも納得のできない箇所を見つけては、当事者にかたっぱしからあたった。そのほとんどは生きていてもすでに第一線をしりぞき、悠々自適な生活を送っていた。大昔のこと、それゆえこの問題をいきなりつきつけると、少しつついただけで彼らはすっかりうろたえ、べらべらと証言した。それからあわてて黙っていてくれるようクリュセに哀願した。
 だがその代償にノアキスが彼らから得ていたのは、金や生活の便宜−−−−汚職のおきまりの代価にすぎなかった。殺人事件とは何一つつながってくれなかった。
 まるっきり関係のない犯罪を掘り出しているだけなのか?そんな疑問が胸に浮かびながらも、他に道は見つからなかった。



×××



「だから、用件を言っていただかないと困ります」
タルシスはインターフォン越しに言った。
「とにかくオレはあんたに用があって来たんだ。用件は中で話す。さっさと中に入れろ」クリュセはドアの前でどなった。「トップ・エリートの要請を拒否する権限が、あんたにあるのか?」
 インターフォンは切れた。もっと強硬な手段を取らないとだめか、とクリュセが思い始めた時に、やっとドアが開けられた。
 引退したロー・エリート、タルシスは調査対象になった者の中では若い方だった。それでもすでに70近く、しかも年より老けてみえた。
「そちらにおかけください」
老人はクリュセに上座の席をすすめた。その慇懃無礼な態度からは、自分の半分にもならない年の若造に対して腰を低くしなければならない不満がありありと見えた。
「で?これで用件を話していただけるんでしょうな?」
「25年前の成績記録改竄疑惑について。あんたにも証言してもらいたい」
「そんな・・・・・・・・・今頃!」
タルシスの青白い顔が、完全に蒼白になった。そして椅子からずり落ちた。
「おい・・・・・・・・?!」
クリュセはテーブルに脚をぶつけながら、老人のそばに寄った。タルシスは床にうずくまり、ぜいぜいのどを鳴らしていた。心臓マヒでも起こしたか、とクリュセはあわてた。背中をさすってやるうちに、老人の様子は少し落ちついてきた。医者を呼ぼうと、クリュセはさする手は休めずにもう一方の手でセルのマイクを伸ばそうとした。
 しかし、タルシスはクリュセの手をはたいた。
「・・・・・・・・・ご心配なく。トップ・エリートの方の手をわずらわすほどのことではありませんよ」
タルシスはそう言うと自分で椅子に座りなおし、背筋をしゃんと伸ばした。
「失礼しました。あまりにも意外なお話だったので。で、いまさらそんなことを調べてどうするおつもりで?私はこの通りの老いぼれ、死ぬのを待つだけの身です。不正を暴露されても、痛くもかゆくもありませんよ」
「他の連中もみんな口をそろえてそう言ったよ。倒れまでしたのは、あんたが初めてだったけどな」
「しかし、数学者のあなたがなぜそんなことを調べているんです?あなたには何のかかわりもないことのはずだ」
「かかわりがあるかないか、それはオレが決める。−−−−あんた、本当に医者を呼ばなくていいのか?」
「お気遣いはけっこう。引退はしましたが、まだちゃんとこれを持っていますから」タルシスは自分のセルを軽く叩いた。「心配なさるお気持ちが本当におありなら、お帰りいただきたいのですがね」
クリュセは眉をひそめた。
「それだけ元気ならば、もうひとつ訊く。アルバ、というロー・エリートも実力不相応な地位を得ていたひとりか?ローワーに殺されるなんてなさけない死に方をした男だよ」
「私は・・・・・・・・何も」
そう答えるタルシスの唇は、細かく震えていた。血の気の戻りかけた顔が、また白くなる。
 何か知っている!クリュセは、たたみかけるように言葉をついだ。
「まるっきり覚えてないってことはないだろう。事件の後、ローワーの管理、というより、監視が異常に強化されたじゃないか。現場労働者が少しでも不穏なそぶりを見せれば持ち場を変え、給料を減らした。正当防衛の名の下に、大勢のローワーがエリートやトップ・ノーマルにケガを負わされた。そしてふだんの3倍以上の人間が刑務所にほおりこまれた。生産管理にたずさわっていたエリートが何も知らないとは言わせない。あんただって粛清に参加したクチだろう。事件直後に、あんたは生産責任者に名をつらねているからな。忘れたというのなら思い出させてやるよ。あんたが軽工業課の課長に昇格したのは事件の3ヵ月後、622年の10月だ。そしてそのあとも、順調に出世しているな。15年というもの、ろくろく地位があがらなかったくせに。あんたのローワーいびりのやり口が、それほどシティのお気に召したのか?それともなにか?自分をアピールするために、そんな状況を自分で作りだしたのか?手頃なエリートを殺して?」
「私じゃない!」タルシスは、はっとして口を押さえた。そして、言いなおした。「私は、何も、知らない」
「私じゃない、というセリフはどこから出た?!」クリュセはタルシスのえりもとをしめあげた。「私じゃない、と言うのなら、いったい誰だ?」
 クリュセは手に力をこめた。タルシスが息をつまらせるといったんゆるめ、またしめあげる。それを何度か繰り返すうちに、タルシスは苦しそうに答えた。
「・・・・・・・・・ノアキスだ。彼が、アルバを殺したんだ」
クリュセは手を離した。タルシスは床にくずれ落ちた。そして、つぶやくように話し始めた。
「・・・・・・・・あの日、私は在庫点検の準備に追われていた。書類も臨時動員するノーマルの手配もだいたい済み、最後に現場をチェックしておこうと倉庫に入った。その時私は、見てしまったんだ」
「何を」
「言わなくても、わかるだろう!」
そう叫んだきり、タルシスは黙りこくった。
 うつむいたタルシスの禿げ頭をじっと見つめ、クリュセは待った。ただじっと待った。老人が話を続けるのを。
 何十分にも感じる時間がたち、タルシスはふたたび口を開いた。
「−−−−彼は、黙っていろ、と言った。黙っているだけでいい、と言った。そうしたら好きなだけ出世させてやる、と。なぜ彼があんなことをしたのかは知らん。どうやってローワーを身代わりにし、罪から逃れたのかも知らん。新しい地位は快適だった。私はそれだけでよかった!」
「証拠は?」
「証拠・・・・・・・・・」
「そうだ、証拠だ!きさまの言うことを、はいそうですか、とそう簡単にうのみにできるとでも思うのか?」
「・・・・・・・・・ない。もう。念書を書かせた。保身のために。しかしそれも、ノアキスが死んだ時に、処分してしまった」
 ノアキスが死んだ時に?
 その時点で、形ある証拠は何もかも消滅したと言うのか?本人自身だけでなく?
 クリュセはひどい脱力感に襲われた。
 その瞬間を見逃さず、タルシスは寝室に逃げ込んだ。クリュセはあわてて追ったが、老人の方が一瞬早かった。ドアが閉まると同時に鍵がかかった。
 ドアの向こうで、タルシスは叫んだ。
「あんたのようなトップ・エリートに何がわかる?!やっとのことでエリートの地位にしがみついている我々のことが・・・・・・・・。ノアキスは死んだ。あの事件に関係した者も、どれだけがまだ生きているか。いまさらどうしようというんだ?!いったい、何が目的だ?何が楽しくてこんな昔の・・・・・・・・・・!」
「いけにえにされたローワーが、オレの父親だったと、したら?」
老人は急に静かになった。
 クリュセは手近にあったサイド・テーブルを力まかせにドアに叩きつけた。何度も繰り返すうちに表面に大きな傷がついたが、鍵はこわれなかった。彼はドアをけとばすと、きびすを返した。
「わかった。あんたの言うことを信じてやる。−−−−しかし、どっちにしても、まともな死に方はさせてやらんから、覚悟してろ!」
「ま・・・・・・・・待ってくれ!」タルシスはドアをわずかに開けた。「私は全部、正直に喋った。知っていることは全部だ!だから・・・・・・・・・・・」
「感謝してるよ、だから、今すぐこの手で絞め殺してやりたいところだが、それだけはかんべんしてやる」クリュセは肩ごしに振り向いた。「それとも、その方がいいか?」
 クリュセはタルシスの部屋をあとにした。
 老人が言ったことを一言一句信じたわけではなかった。しかし、あの男は自分からノアキスの名をあげた。
 主犯は、2年前に死んだ男で間違いはないのだろう。
 2年前。外で暮らしていた間のこと。
 追放される前に、決心していたのならば。
 ノアキスはなぜ殺人を犯したのか。どういった経緯でクリュセの父親に罪をなすりつけたのか。本人がこの世を去った今、それを知る者は誰もいない。
 関係者のリストを作った時の、死亡という文字の多さ。
 クリュセは自分を責めた。
 だが、いまさらどうしようもないことだった。
 証拠探しの間に彼が見つけた、エリートたちの汚い欲望のすべてを表沙汰にすることが、父に対する唯一無二のつぐないだった。



×××



 閉鎖されたと言っても、展望室に入ることは不可能ではなかった。エレベーターは変わらず作動していたし、入口は電源が切られているだけだった。外の暮らしで鍛えられたクリュセの腕力でなら、なんとかドアをこじあけることができた。
 中は調査のために多少片づけられてはいたが、事故の時そのままに近い状態だった。砕けたコンクリートに、曲がりくねった鉄骨が散乱していた。
 そこに、ひょろひょろではあったが、蔓草がからみついていた。クリュセは微笑んだ。事故からもう数カ月、水も満足にないというのに、この生命力!
 生きのびてやる、とあがいていた追放直後のことをクリュセは思い出した。苦しい中の妙な充実感がなつかしくなった。
 外の世界。ささやかな夢を抱く自由、そしてその夢を叶え、守る自由を与えてくれたところ。
 父の無実の確証を得た今では、シティには何の未練もなかった。
 村の人々への唯一のわだかまりも消すことができた。メムノンが渡してくれたデータで、クリュセは父が追放された場所を知った。シティから南に20キロ。サークたちの行動範囲からは完全にはずれていた。父がどんな最後を迎えたか、そこまでは誰にもわからない。しかし、村人が以前捕らえて食ったという人間の中に、クリュセの父親は絶対にいない。
 あとは、シティの体制を崩壊させるだけ。
 完全に打ち砕くことができるとは、クリュセは考えていなかった。長は言っていた。人の心が成長するには時間がかかる、と。彼らにしても、一万年もかけてあそこまで自分たちを育ててきたのだ。しかし、そのきっかけになる一石を投じることはできる。それだけ済ませたら、彼はシティから姿を消すつもりだった。
 村の大体の位置はわかっている。そこまでどうやって行くか、残った問題はそれだけだった。400キロは、あまりにも遠い。
 その時、クリュセは背後に人の気配を感じた。
 振り返らず、神経を集中する。間違いなく、誰かいた。つけられている、そんな感じはずっとあった。だが相手の姿を確かめることはできず、好奇の視線にさらされて疲れ切った神経のせいかも知れないと思っていた。
 だが、ここには人が来ることは、ない。
 クリュセは気づかないふりをして、ぶらぶらと歩きだした。視界の端に、その誰かが動く姿がわずかに見えた。
 ここでの事故は、誰かがオレを殺そうとして起こした。自らそう結論づけたんじゃなかったか?その上、あの時よりも敵は増えているはずだ。
 彼は、体内の血が冷たくなるような感触を覚えた。
 クリュセは立ち止まった。
 尾行者も、立ち止まった。
 つけてきているだけだろうか?
 クリュセはふい、と曲がった柱の陰に隠れた。崩れかけた階段から、かろうじて残った2階部分に上がる。
 そこからは下の様子がよく見えた。尾行者の姿も丸見えだった。男は柱のそばで、あたふたとあたりを見回していた。
「オレに、何か用か?」
クリュセは言った。
 尾行者は驚いて、上を見上げた。男の足元のコンクリート片の山が崩れ、大きな音をたてた。男はあわてて逃げだした。
 クリュセはあとを追った。瓦礫や枯れた植物でひどく足場が悪かったが、山歩きに比べればどうということはない。しかし尾行者は完全に足をとられ、ほとんど逃げられないまま彼に捕まった。
 クリュセは尾行者をはがいじめにし、言った。
「もう一度訊く。何の用だ?」



×××



 アリシアは自分のオフィスで、ためこんでしまった仕事を片づけていた。仕事はおもしろいくらいにはかどった。クリュセが生還して以来、これほどまでに心静かだったことはなかった。
 エドムがクリュセにつけていた尾行をくびにし、不慣れな者をアリシア自身が選んで代わらせた。そしてクリュセは尾行者を捕らえ、その意味に気がついた。
 それはアリシアがしかけた最後の、そして後戻りのきかない罠だった。
 警備カメラには、室内が平穏無事であるように見せかけるニセのデータが送り込んであった。オフィスで何が起こっているのか、すべてが終わるまで誰にも気づかれないように。
 引き出しの中には、幕を降ろすために必要なものが用意してある。
 罠を完成させる、一切の準備は整っていた。心の準備を含めて。
 そして、彼女は待っていた。
 許可を得ることなく、オフィスの扉がいきなり開けられた。待ち人、来たる。
「アリシア、話がある。人払いをしてもらいたい」
クリュセが立っていた。
「どうしたのよ、血相を変えて」
アリシアは仕方ないといった風情で書類を置いた。
「すみません、キリオス、お止めしたんですが・・・・・・・・・」
クリュセのうしろで秘書がおろおろしていた。
「かまわないわ、一段落ついたところだから。行きなさい。用があれば呼びます」
 ドアが閉まった。クリュセはつかつかとアリシアに歩み寄った。そして両手をデスクに叩きつけた。
「オレをつけまわしていたのは、おまえか?」
アリシアはぼんやりとクリュセを見上げた。
「そうよ。今頃気づいたの」
「なぜだ?」
「仕事の一環」
「誰の命令だ?目的は?」
アリシアはクスリと笑った。
「クリュセ、あんたは本当に私がシティの指示で動いていると信じたの?これは私の−−−−正確には、私たちの個人行動よ」
「私たち?」
「だけど、あんたがここに来るように取り計らったのは、私一人の判断。誰にも言っていないわ」
「訳のわからないことには、もううんざりだ。もっとわかりやすく話してもらおうか!」
「かみくだいて話してわかるようなら、あんたはもうとっくに理解してていい頃よ。5年前の、いえ、もうそろそろ6年ね、あの殺人事件のことを調べていたでしょう?」
「・・・・・・・・・なんだって?」
「違うとは言わせないわ。検察局に不法侵入したり、行政データをハッキングしたり。かと思えば、あさっての方向で脅迫事件を起こしてみたり。行動の予測がつかなくて、見失わないようにするのが大変だったわよ」
「たいしたもんだ。一体どこまでオレの行動を把握しているんだ?」
「質問に答えなさい」
「ひとつだけ、知りたいことがあった。あの事件に限って、言えば」
「ひとつ?あれだけ動き回っておいて?そんな嘘をついても、何にもならないわよ。正直に言いなさい。真犯人はわかったの?」
アリシアの微笑みは少しずつ薄っぺらになっていった。
「アリシア、おまえ・・・・・・・・・」クリュセは目を見開いた。「どおりで、じじいどもをしめあげたところで何も・・・・・・・・・・・・・・」
「クリュセ、まさか−−−−−−本当に」
何もしていなかったの?
「オレを殺人犯にしたてたのは、おまえなのか?」
 動揺はすぐにおさまった。どんな形で知られたことにせよ、どれほどの差があることか。アリシアは頬をゆるませ、はっきり言った。
「−−−−そうよ」
「なんだって、また・・・・・・。オレはてっきり・・・・・・・・・・・・・」
「どうだっていいわ。もう終わりにしましょう」
 アリシアは引き出しに手を入れた。
 その手は、銃を握って出てきた。
「アリシア、何のつもりだ?おまえは自分で自分の経歴に傷をつけようというのか?」
「正当防衛よ。私はそれで通すし、それで済むはずだわ。あんたはとんでもない剣幕で飛び込んできたんだし、以前私に危害を加えようとしたことがあるのは皆知っていますからね」
「傷には、変わりない」
「これは、賭よ。これまでシティはあんたを保護してきた。ローワーの出だろうが反抗的だろうが、果ては前科者だろうが。あんたの頭脳がかわいかったから。シティの判断は、同じように私を保護してくれる。私の未来は、ほんのわずかな修正を要求されるだけで、大局的には何も変わらない。私は必ず市長になる。傷をひとつ、負ったまま。それでもトップにのぼりつめた時、私は自分の能力に全幅の信頼を置くことができるのよ」
彼女の声には、不自然な力がこもっていた。
「アリシア、銃を置け」クリュセは静かに言った。「おまえには、無理だ」
「何が無理だと言うの!」
アリシアは引き金を引いた。
 弾はクリュセの頬をえぐった。一瞬の間をおいて、血が彼の頬を染めた。
 クリュセはニッとアリシアに笑ってみせた。彼女の顔から血の気がひいた。銃はゆらゆらと、彼女の手から落ちそうに揺れていた。
「これで終わりか、アリシア?この程度の傷では人間は死なんぞ」
アリシアは唇をかすかに動かした。歯が鳴る音が漏れた。
「おまえのような純粋培養にやれることじゃない。−−−−少しは期待したがね」
 クリュセはアリシアの手から銃をもぎ取った。そして銃口を彼女に向けた。
「クリュセ・・・・・・・・・やめて」
アリシアは椅子からころげおちた。隅の方へとはって逃げる。銃口はぴたりと彼女に向けられていた。
 逃げ場はなかった。
「ひとりで獲物をしとめなければならない時には、一撃でとどめを刺せなかった時のことを必ず想定しておくことだな。手負いの獣は、恐ろしいもんだ」
 クリュセはにっこり微笑んだ。そして引き金を引いた。
 アリシアは小さな悲鳴をあげた。
 しばらくして彼女はおそるおそる頭を上げた。顔のすぐ横の壁に穴があいていた。
 銃口はまだ彼女の方を向いていた。
 アリシアはクリュセに何か言ってやりたかった。さっさと撃てばいいでしょう、とか、これであんたも本物の殺人犯よ、とか。しかし何一つ声にならなかった。彼女はおびえきったまなざしをクリュセに向けるばかりだった。
 クリュセは小さく首を振った。
 彼は銃をポケットにしまった。耳からセルを丁寧にはずし、そっと机に置いた。
 そして何も言わずに出ていった。
 クリュセの姿が消えると、アリシアはずるずると床にへたりこんだ。
 そして泣き始めた。
 くやしかった。くやしくて、たまらなかった。
 アリシアは静かに、声をたてずにいつまでも泣き続けた。




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