夕の六刻より十分ほど前。大概の兵は就寝時間を向かえ、この時間に活動しているのは一部の研究機関の人間と、夜勤についた見回りだけとなる。夜間も眠らず活動を続ける施設もいくつか存在するが、少なくとも兵舎と施設の七割は夕闇に溶け込んでしまう。
自室のディエラスは、薄暗い部屋の中、ごそごそと動いていた。
机の上におかれた戦闘用グローブを、ぎしっという摩擦音を立てながらはめる。その身は、昼と同様の軍服に覆われていた。
「…………」
無言で、その手を見つめる。そして視線を上げ、部屋を軽く見回した。
「……っは」
軽く息を吐く。そして大きく吸った。
目を瞑る。そのまま数秒。
ふたたび目を開けたとき、その蒼い瞳は深く強いものを部屋の入り口へと向けた。
歩む。その足取りはしっかりとしている。
部屋の扉が駆動音を立てて開いた。
廊下は照明が押さえられ、かなり薄暗くなっていた。
そのまま、部屋を出るように足を踏み出す。
「どこへ行くんだ?」
不意に、扉の横から声がした。
身構えるように、高速で二歩目を踏み出し、声の主のほうへ向き直る。
「……カズンズ」
「就寝時間はとっくにすぎてるぜ?」
腕を組み、扉の脇の壁に寄りかかるように彼は立っていた。
「……どこだっていいじゃないか」
「まあな。お前ならべつにどこ歩き回ったって問題はねえしな」
軽く目を瞑り、彼は口の端を軽くあげて笑った。
壁から背を離し、ディエラスに向き直る。
開かれた目のブラウンの瞳は、まっすぐディエラスの目を見ていた。
「……実を言うとな、昼の暗号解けてたんだよ」
「……へえ、そうだったんだ。じゃあ、なんで教えてくれなかったの?」
ディエラスは平静を装うかのように、彼のせりふに質問を返した。
「俺に解けたもんが、お前に解けないはずはないよな。なんで隠したのか聞くのはこっちだ」
ディエラスは軽く息を呑む。カズンズは続けた。
「わかってんだろ? 俺がお前の友人ってだけでそばによく現れていたわけじゃないことくらい」
「……やっぱり、監視されてましたか」
はっと、カズンズは息を吐いた。
「こっちとしちゃあ心苦しかったさ。だが、お前がマークされるような行動ばっかとってたのが悪い」
その一言を聞き、ディエラスは構えをとく。息を整えた。
「服従の精神なんて、植えつけられるわけにはいかないよ。そんなもの、僕は望んでない」
しっかりとカズンズの顔を見つめる。その答えに対し、カズンズは左手を腰に添え、右手で顔の半分を覆った。そしてつぶやく。
「どうもおかしいとは思っていたんだ。お前だけ、忠義が感じられないってのはなんでなんだろうってな」
「なんでだろうね」
ディエラスはゆっくりと一度目を瞑った。
「でも、僕は自由になりたい。それは揺るがないことだよ」
拳を強く握る。開かれたその蒼い目には強烈なまでの意志が灯っていた。
「教育をもろともしない精神か……よくそんなんでこんな役職につくまでやってきたもんだ」
カズンズはあきれたようにつぶやく。そしてその手を顔からはずし、視線をふたたびディエラスの目に移した。
「……なにをするつもりだ」
「無論、ここから脱出する。ここで得た力の全てを駆使して。そのために、今日までやってきたんだから」
そう言うと、ディエラスは右腕を腰の裏へ回す。同時に足を開き、しっかりと接地。左腕を前方へ上げる。
「どうしてもか?」
カズンズは動作なく問いを続けた。
「今日の今以外タイミングが合うことはないだろうから。このチャンス、逃すわけにはいかない」
構えを動かさず、ただ右手だけに力がこもる。小さく硬質な音がディエラスの腰の辺りから鳴った。
「……わかった」
カズンズがすっと右手を降ろす動作の間に、ディエラスは横なぎに右腕を振る。その手には、刃が二の腕ほどの長さをした軍用の高密素材(ハイマテリアル)ナイフが逆手に握られていた。
高速で繰り出される斬撃は、甲高い金属音ではじかれる。とっさに振り上げられたカズンズの左手には、金属製のメカニカルな外見をしたトンファーが装着されていた。
はじかれた右腕の流れを利用して、反動で左足を蹴り上げる。すかさずカズンズの右腕が突き出され、ガード。そのまま左腕のトンファーをディエラスのボディめがけて突き出すが、これを何とか戻した右腕の刃で受け止める。
ディエラスは左足を戻す動作で勢いをつけ、バックステップ。距離をとろうとするがカズンズは踏み込みで追いつく。
その勢いを殺さずに、カズンズはディエラスに体当たり。ディエラスの体は軽く宙に浮くが、そのまま身を反りあいた左手だけでバク転につなげる。バックステップの分ダメージが軽減されたので、苦もなく彼は体勢を立て直した。
傍目からみれば何が起きたかわからなかっただろう。それほどまでの短時間で彼らは3メートルほどの距離をとることになった。
「万が一、軍に対する反抗の気配を見せた場合の対処ってのもあってな。悪いが、お前の行動は妨害させてもらうぞ」
言い放つカズンズ。対し、ディエラスは無言。
体当たりをした直後あたりに装着したのか、カズンズの右腕にもトンファーが見えていた。
通路は狭い。横に逃げることができない以上、取れる行動は……進むか、退くか。
この先の行動において、相手がすぐそばにいることは好ましくない。かといって、相手とこれ以上の距離をとるためには、まず相手の動きを封じるほどの打撃を与える必要があるが、それが次の一撃で決められる確証はなかった。
「ちなみに、お前の選んだイルセナ、どうするつもりなんだ?」
「……申し訳ないけど、おいていかせてもらうよ。これから取りに行っている余裕なんか……ない!」
言った直後に背後に向けて駆け出した。
尋常ではない瞬発加速で、十メートルほどの距離を1秒かからずに踏み切る。その先にあるのは、窓。
ディエラスはそのスピードを緩めることなく、次の踏み切りで窓に飛び込む。
とはいえ、ここは軍事施設の一環だ。防弾性の硬質素材で作られた透明な窓は、体当たり程度で破れるものではない。
しかし、彼はあいた左手を窓に向けた。
その手の中心辺りに、薄ぼんやりとした青白い光が灯る。
飛込みと同時に突き出される左手。その光が窓に触れたとたん、
がんっという体に響くほどの強烈な音とともに、窓はおろか周辺の床や天井までが粉々に炸裂した。
降りかかる破片を浴びながら、ディエラスは宙を舞う。虚空に投げ出された身はそのまま重力による加速を受け落下を始めた。
轟音が耳の横を抜けて行く。
二人がいたのは兵舎の十七階。高さにして約四十メートル。落下時間こそ十秒に満たないだろうが、常人ならばその地面との衝突で間違いなく命を落とす。
だが、ディエラスは空中で軽く姿勢を制御すると、その足で兵舎前の広場へ着地した。どんっという鈍い音があたりに響き、舗装された地面がひび割れる。
曲がった足を戻す動作で横っ飛びにはねる。左方におよそ五メートルほどとんだところで、先ほどディエラスが着地した地点にカズンズが落下速度を殺さずに右腕のトンファーを打ち込んでいる姿が見えた。ふたたび強く、鈍い音が響く。立て続けに入れられた衝撃に、舗装面が耐え切れずに破片が吹っ飛んだ。
土煙が上がる。ディエラスはすぐさま体勢を立て直すとその土煙の中心に切り込んでいった。
(……悪いけど、捕らえた!)
足場は悪くなってはいるが、しっかり踏み込むのには問題ない程度だ。数歩で加速をつけ、斬撃を走らせる。
が、という音がした。右腕がとまる。
先ほどの状況で、体勢を立て直したとは思えない。だが、攻撃は何かに阻まれた。
土煙がはれ始める。その腕の先を見た。
その刃は、氷柱に突き刺さっていた。
「くっ」
慌てて氷柱から刃を放し、ふたたび距離をおこうとする。そこに、土煙を突き破り、氷柱を砕いて横薙ぎにトンファーの一撃が叩き込まれた。
「がっ」
呼気が漏れる。何とか左腕をかかげて体への一撃は免れたが、その身が十メートルほど後方へはじかれた。
「……あぶねえあぶねえ」
カズンズが立ち上がる。
その右腕は、巨大な氷に覆われていた。
「……あらかじめ仕込んだのか」
しゃがみこむように体勢を立て直しながら、ディエラスはつぶやいた。
接触物の氷化。それがカズンズの持つKEYの力だ。
人の思考に反応して、周囲の空間の組成を書き換えるという特性を持つKEYは、よく『精神エネルギー』などと言われる。その効果はさまざまであり、温度変化や、力学的なものなどが存在する。それを使う各人によって個別な差があるのだ。彼の場合、空間を構成する素子を水分に変化させ、それを瞬間的に冷却することができる、といったようなものである。
「四宝剣の選考からもれたとはいえ、俺だって『皇帝の庭(エンペラーズガーデン)』の強化兵だぜ。戦闘実用レベルのKEYが使えるのはお前だってわかってんだろうが」
「失念してたよ」
言って、立ち上がる。
「でも、次はそうはいかない」
手元のナイフをくるっと反転させ、順手で握る。
「……はぁ」
すると、カズンズは軽くため息をついた。
「残念だが、俺一人でお前の相手をするのはここまでだ」
そういうと、彼は構えをとく。右腕の氷が、砕け散った。
「な……」
「俺があの会話を解読して、その情報を他に流さなかったわけがないのくらい、想像できるだろうが。時間稼ぎとしてはこんなもんだ」
言われて、ディエラスははっとしたように振り向く。
二十メートルほど離れた場所に、一つの影があった。
暗闇の中、流れるように光を返す薄茶の長髪。
「いくら同郷の出とはいえ、四宝剣とまともに一対一で闘おうとはおもわねえよ。ここでお前に本気であたるのは、俺だけの役目じゃないのさ」
「……レオン」
第十節
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