多磨全生園の図書館・ハンセン病図書館 関係文献
 
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栗下鹿骨「図書館通ひ」(1922年)
原田樫子「復興の図書館と私の感想」(1924年)
栗下信策「図書室」(1929年)
図書係員 後藤生「全生図書充実の為に」(1935年)
「全生病院昭和一〇年統計年表」(1935年)
「待望の図書館竣工に際し 世人の御同情に訴ふ」(1936年)
鈴木庫治記「図書開館記念短歌会」(1936年)
「全生図書館の開館式」(1937年)
「全生病院昭和一二年統計年表」(1937年)
全生会々長・文化部長発園長宛「御願書」(1951年)
全生会々長・文化部長発園長宛「御届書」(1952年)
「座談会 若い人大いに語る」(1952年)
「〈座談会〉学園、少年団、児童寮、図書館、絵の会、書の会」(1959年)
「白書 全生図書館」(1960年」
〔参考〕「東京都議会宛の請願書」(1965年)
林 芳信「回顧五十年(17)」(1966年)
多磨全生園入所者自治会「中央委員会事務規定(抄)」(1969年)
「ハ氏病文庫規定」(日付なし。1969年頃)
鈴木楽光「きき書き 全生園むかし昔(五)入園した頃」(1972年)
大竹 章「写真風土記(64)」(1977年)
松本 馨「年頭に当りて」(1977年)
松本 馨「療養通信」(1977年)
大竹 章「写真風土記(78)」(1978年)
原田嘉悦「図書館」(1979年)
大竹 章「写真風土記(134) 図書館別館」(1983年)
「ハンセン病図書館内規」(1983年)
多磨全生園ハンセン病図書館を訪ねる(1988年)
松本 馨「文書伝道と自治会活動(10)〜(11)」(1990年)
山下道輔「ハンセン病図書館にかける願い」(1990年)
大谷藤郎「資料の保管等について」(1990年)
「自治会日誌」(1990年)
室伏修司「図書館の秘儀=\―多磨全生園ハンセン病図書館を訪ねて」(1991年)
大竹 章「資料展示室」(1991年)
山下道輔「ハンセン病資料調査会における報告――ハ病図書館・収集・保存・展示の現状」(1992年)
資料館建設促進対策委員会「資料収集のための各園訪問報告について」(1992年)
松木 信『生きているのは何のために』(1993年)
「〈座談会〉資料館オープンまで(1)(5)」(1993〜94年)
小杉敬吉「追懐の記(1)原田嘉悦さんのこと」(1996年)
久保田 一「ハンセン病図書館の人」(1997年)
瓜谷修治『ヒイラギの檻 20世紀を狂奔した国家と市民の墓標』(1998年)
「ハンセン病図書館運営規定」(1999年)
山下道輔「ズームアップ ハンセン病図書館」(2001年)
江連恭弘「多磨全生園におけるハンセン病関連史料の現状」(2003年)
山下道輔「焦らず怠らず資料残しに励む」(2003年)
瓜谷修治「多磨全生園のハンセン病図書館の廃止と保管資料のハンセン病資料館移管について」(2006年)
佐川 修「資料収集の思い出」(2007年)
山下道輔「ハンセン病資料セミナー2007 開講の挨拶」(2007年)
ハンセン病図書館友の会「アピール:ハンセン病図書館閉鎖に際し図書資料の完全保存を訴える!」(2008年) pdf
増田泰重「『人権の森』清掃ボランティアに参加して」(2008年)
稲葉上道「ハンセン病資料館が持つ意義」(2008年)
柴田隆行「ハンセン病療養所における図書館の役割(上)」(2008年)
柴田隆行「ハンセン病療養所における図書館の役割(下)」(2010年)
 
 
 


栗下鹿骨「図書館通ひ」

『山桜』第4巻第2号、1922年3月
 
 近頃降雪が続く實に寒い新聞には近年稀な寒気であると報じて居る
 昨年開設になった全生図書館に此の降雪の幾日かを通ふた。図書館には澤山の金文字の書籍や新刊の雑誌が整列して居る当時読書会に高名な死線を越えてを借覧しました。私が此本を読ませて頂きたいと思ふた動機は或人が私の生活を評した文章の中に此死線を越えての文字を引用してあったのと又私共は現在の生活に至るまでには必ずや一度は此「死の線」にぶつかって居るのでありますから、此文字が如何か動きて又解決はどうしてあるかを思ふて一度見せて頂きたいと心に念じて居ったものであります。扨て読んで見ると一切を恵みに生活して居る私の生活にはドウしても躰験するには、ふさわしくないと思はれます。されど信仰の点に至っては實に敬服せずには居られないのでございます。
 次に読ませて頂きましたのは「ザンゲの生活」であります。私は此一書こそ一切を恵まれて居る私共生活には衆適の良書であって能く細かい所まで著者は身を以て御示し下されてありますから私共は各自の健康の程度に応じてスグ躰験させて頂く事が出来ると思はれます。憚りの言葉が知れませんが、私は多年恵みに生きる報恩の行につきては思念して居りました。又多少実行もさせて頂いて居たことと喜びます。
 私は各救護所に居らるゝ同病者に勿論私共の様な恵みに生活させて頂く諸彦各位に是非本書の御一読をして頂きたいと念じて居る者でございます。
 
 


原田樫子「復興の図書館と私の感想」

『山桜』第6巻第10号、1924年12月
 
 彼の大震の為めに倒壊した我が全生村の図書館はその後一ヶ年有餘の今日に至って立派に復興致しました。それまでは礼拝堂の一隅を拝借致しまして佗して経営をして居り、又諸宗の信徒の出入り頻繁に依って読者をして充分なる満足を與げることの出来なかったことは甚だ遺憾に堪ませんでした。が、今般は誠に静粛である結構な以前に倍する復興の図書館が完成されましたことは、私等共に喜ぶべき事だと思ひます。希望者は努めて御来観下さる様お勧め致します。
 著書の内容が重なるものは、漱石全集、紅葉全集、藤村全集、鴎外全集、二葉亭全集、其の外、旧物新物は網羅して又洋物や新刊雑誌は山なしてあります。
 開放時間は午前8時より午後4時まで。
 コーレー君と私はその取締兼常務係の任を負ふて一般公衆の為めに出来得る限り便宜を計るつもりで居ります。そして病室と不自由室の人を除くの外、健康病者には特に注意して頂きたいと思ふます。各自が通常労働の傍ら休暇を得た場合は唯空しく無益なる言論に耽ったり鼻糞をほじくりながら隣の人のアラでも探して何か言ったり、阿保草を燻らして専賣局の奉公をするよりは斯うした図書館に足繁く運んで有益な本でもたっぷり讀んで精神的に向上することがその人達のためにどんなに幸福であるか知れません。「精神的に向上するしかないものは馬鹿である」と夏目漱石氏は言はれてあります。實に人生に取って精神的向上、所謂内容の充實を計ることが最上の本務であります。斯く云へば人の中には「我々の境遇上勉強して何になる」と言ふ者もありますが、それは甚だ浅薄な考へと思ひます。併して人生の目的は何んでありませう。それは幸福にあるのみ、誰しも言ふが世の中の人は誰一人として幸福を望まぬ者はありません。
 「俺は望みもなければ願もない。情熱もなければ勉強もしない」と厭世観じみた泣きごとを言ひ洩す者もありますが、思ふにそれは虚偽であります。事実左の様な人があるなら生きて居られる筈がありません。扨て私達はより多くの幸福を求めべく努めねばなりません。そは如何にして求め得べきか。勉強に固って得た智識の作用に基くの外はありません。何は兎も角く、図書館は私等の為に設けられた恵みの倶楽部であります。
 「悩みある者又不愉快に陥入れる者は図書館に来れ、図書館は必ず汝等をして幸福と愉快とを與えしめる」と。これは私の独断かも知れませんが、恐らく事実に於てもそうでありませう。且つ読者中の或人などは問ひもせず問はれもせずに莞爾として頬笑んで居ります。時には声さへ出して頬笑むのであります。斯うした面白い著書に興味を引かれて不知不識に心の中に尊い智識が蓄へられて何時となしにどっしりとした力ある頼母しい人間となれるのであります。「腕力よりも能力」で如何に肉体的に力があっても精神的に能力のない人間なれば数ふるに足らぬものです。要するに能力の発達するところに自然光明が輝くと思ひます。されば親愛なる同病の皆様、復興の図書館に足繁く通って心の中に閉鎖されて居る幸福の扉を開くべき尊い錠を握って下さい。お互に肩の凝った時には茶器の準備もしてありますから。
 お茶でも飲んで楽しみませう。
 


栗下信策原「図書室」

『山桜』第11巻第9号、1929年9月
 
 明治四十三年東京浅草本願寺全生病院慰安会といふスタンプを押した、東京大川屋発行の講談が三四百冊六尺の戸棚に入つて礼拝堂の南側の一隅にあつた娯楽文庫と云つて一週一回づゝ午后一時から二時迄約一時間の貸出であつた。
 大正二三年頃、故南條文雄師寄贈の宗教雑誌の合冊したものと宗教書籍若干とにて今一つの文庫が増加せられた。又大阪毎日新聞社長、本山様の寄贈せられた國漢文叢書二拾余冊は、見張所役人に於て病者に貸出をいたしたものであります。
 大正十年八月一日、院長殿の深き思召しによつて患者秋山勇太郎氏に計り、患者図書室を創立して下さいました。その条文に曰く
館則
 第一条 名称及位置
  本館を全生図書館と称し院内娯楽室内に置く
 第二条 書セキ
 本館の書セキは職員及び一般社会の有志者より寄贈せられたる新聞雑誌をよび単行書を以て之に充つ
 第三条 目的
  患者の文藝趣味を鼓吹し内面的生活の向上を計る機関とす
 第四条 館員
 本館は委員八名を置き総ての事項を協議せしめ其内より係員一名を選定し館の常務を処理せしめ特に各舎長を相談役とす
  (但し係員の任期は六ヶ月とし再選重任は之をさまたげず)
 以上の如き趣意と目的とをもつて設けていたゞきました。図書室は特に小林正金。田中牧師殿の熱れつの御同情と各位各般の理解と切なる愛とに依つて成長して参りました。
 只今主なる蔵書は三省堂の百科辞典を始めとして仏教大辞典、国語大辞典、國漢文叢書。ソウ石、オホ外および藤村。明治大正文学、世界文学。戯曲、仏教説話。國やく大蔵経。講談。修養。仏教童話。等々の全集或は既に購入済み、あるひは目下配本中であります。
 現在単行本は一千余冊。新旧雑誌は七八百冊程あります。
 図書貸出時間、毎日午後一時より四時までとし、外一般クワン内において読書子の為め昼夜公開して居ります。本ト書クワンは当事者の理解と同情とにより益々書せきは書棚にあふれ、本箱の不足新調を欲すると共に、かつ病者の増員につれ読者子の出入はげしきためト書室の狭あいはなはだしく為めに、きつ煙、茶話室と読書室との二室を有するト書クワンの独立を一ばんは希望してやまざるし第であります。
 因にト書カード破ソン書せきをせい本にいたすべく準備して居ります。




『第一区府県立全生病院昭和10年統計年表」
 
 院内図書室ハ本院見学ノ学生諸氏及特〔ママ〕志家ノ寄附ニ依リテ漸次充実シ図書ノ閲読及ヒ稗史小説ノ貸出シヲ為セリ之ニ依リ多数ノ盲目患者ハ団楽シテ小説ノ朗読ヲ聞クコトヲ一ツノ楽シミト為セリ。
 


図書係員 後藤生「全生図書充実の為に」

『山桜』第17巻第11号、1935年11月
 
 今日吾等この安住の地に於て、専ら療養しあるは偏に、上御皇室の御仁慈と世人の御了解並びに御同情による賜物と深く感激にたへないものであります。今や救癩運動の真只中にある療養所の我等は何をもつて報ゆべきか? より理想なる療養所建設の為に、努力する事を確信してやまないものです。就いては我等の心臓たる図書館が近きに再建さるゝに當り、普く世人に御懇望致します。どうぞ世の心ある方々よ、本誌を通して全生村図書館の為になんなりと御恵贈願ひますれば村人の喜びこれに過ぎたるものはありません。甚ださしでがましき事なれど、機関誌山桜をお借りして、図書充実の為に世に訴ふる次第であります。
 
 


「待望の図書館竣工に際し 世人の御同情に訴ふ」

『山桜』第18巻第9号、1936年9月
 
 最近癩予防協会を初め諸所に結成されつゝありますM、T、L、等に依りまして癩撲滅運動が起され、一般国民の間にも次第に此の問題が理解されつゝありますことは、癩国日本に取りまして誠に喜ばしいことであります。
 救癩運動が盛んになるにつれまして各療養所も目醒ましい充実と発展を見るに至りつゝありますことは、とりもなほさず、 皇太后陛下の厚き御仁慈の賜物と恐懼感激に堪へない次第であります。
 我が全生病院に於きましても此處数年の間に見違える計りの改善進歩をみたのであります。旧各寮舎の建て替えを初めとして事務所、炊事場、重病室の新築、永代神社、御歌碑、納骨堂の建設等、其の他挙ぐるに暇なき程の改善を見たのであります。
 しかも私共病者に取りまして此の上もない喜びは新装なつた図書館が愈々竣工したことであります。病者の心の太陽とも云ふべき図書館の新築は他の何ものにも替え難き療養所文化への誇りであります。只憾むらくは未だ病者の精神生活の糧ともなるべき良書が少きことであります。
 最近世人の御同情に依りまして段々と書籍も増加されつゝありますがまだまだ何一つとして本当にまとまつたものがありません。しかも病者の智識は最近急速に向上しまして、文学に宗教に、科学に、あらゆる部門に向つて研究の鉾が向けられつゝありますが、現在の娯楽本位のみの書籍では系統的の研究などは思ひもよらざる有様です。何分いづれの部門に致しましても、研究資料となる参考書がありませんため、残念乍ら中途挫折のやむなきに至つてをるやうな有様であります。
 将来療養所の理想的建設は病者の精神生活に重きをおかなければその目的を達することは困難と思はれます。
 世の御同情ある方々に切に御願ひしたいと思ひます事は此の新装なつた図書館にふさはしい書籍を御恵贈願ひたいことであります。勿論一部二部にても結構です。或は各部門について一纏めとして何々文庫として御恵贈願へれば此の上もなき喜びであります。
 どうか理想的療養所を建設せんとする私共の念願に対しまして何分の御援助を御願ひする次第であります。
東京府下北多摩郡東村山村南秋津1610 
全生図書館
 
 


鈴木庫治記「図書開館記念短歌会」

『山桜』第18巻第12号、1936年12月
 
 此の度我が全生村に新築された図書館が、去る11月10日(恵の日)を記念して開館された。
 就て21日(土曜日)午後6時より、待ちに待つた新図書館に於て、記念短歌会の出来た事は、私始じめ会員一同の喜びと思ひます。
 ペンキの匂ひ、新しい畳、白い壁、此の新しい図書館に始めて入いつた私は、何か心落著く物を感じた。
 当夜の席題は「新」の題詠一人二首として20餘名による歌会が次々とはこばれた。しかし当夜は大野晃詩兄、柳澤勲兄、後藤凍水兄、又人気者の木谷花雄兄等が、病床にて欠席された事は、誠に淋しかつた。時には笑はさるゝ第二の人気者森政太郎兄に、宿題及び席題の発表をお願ひした。兄の得意の大声に、図書館の硝子戸がビリビリした。続いて席題を互選し、お茶に移つたのは8時頃であつた。
 久々に歌友等と渋いお茶をすゝりながらの慕しい座談に時は遠慮なく、9時を知らせた閉会に鈴木楽光兄が挨拶して、最後まで賑ぎ賑ぎしく、記念歌会の出来た事を喜びつゝ、9時半に散会した。
 当夜の詠草の一部を左に
 新しきトタンを切れば歯ぎれよきこの感触の身ぬち通るも   森 政太郎
 ほのかにも石油の香り親しかり今日を届きし歌誌〈うたぶみ〉見れば 長谷川俊路
 新しき住居に入れば青畳の香るがまゝに寝そべり見たし   木戸茂夫
 新しき図書室に居て本読みつゝペンキの匂ひに落つかなくに  佃伊豆男
 新しき図書室に入りて湧く親しさひそかに触れみぬま白き壁を  室岡直雄
 新築のなりたる図書にはらからと歌詠むことの今宵たのしき  市川真佐保
 新しき衣にあらねど母そばの心づくしはうれしかりけり  原田みのる
 ペンキの香あはく漂ふ窓開けて掃ける箒の音の新し  郁澤雅晴
 新しき住家の眸新吾蜻蛉と逝きたる長島を思ひわびしむ  直木 勁
 この程を新築なりし図書室にそこはか漂ふ木の香よろしも  山本一石
 一人ひたれる湯殿の高き窓に映ゆ夕茜空はうつろひそめぬ  高野房美
 雨の日は家居静けし窓近き銀杏の黄葉音もなく散る  神戸宇多緒
 霊柩車運ぶ後に見送りの並び続ける人ひそかなり  西山真琴
 初めての百姓なれば不出来なる白菜とりつゝ心足へり  川崎澄雄
 聲かけて過ぎ行く人の手に持てる鳥刺しのモチ陽に光る見ゆ  諸木詩朗
 部屋深き陽ざしに落葉ころげきて小さく黒き影をつくりぬ  槇 佐貴雄
 黄昏れの道邊に遊ぶ児等の聲聞きつゝ妻と墓に詣でぬ  櫻井千曲
 ひそかにも満ち足る人か新妻の立居の癖を言に洩せる  大津哲緒
 新木々のしるく香に立つ部屋ぬちに移り住みつゝ身は臥りゐる  鈴木庫治
 




「彙報 全生図書館の開館式」

『山桜』第19巻第1号、1937年1月
 
 予て新築中であつた本院の図書館も、落成したのでこれが開館式を去る十二月十五日礼拝堂に於て多数来賓臨席の下に挙行された。
 当日は田無警察署長、榎本東村山村長、第二小学校長等より祝辞があり盛大であつた。尚ほ併せて隣接町村小学校児童作品、全生学園児童学芸展覧会をも開催せられた。
 因に当日の主なる来賓は
 中山田無警察署長、榎本東村山村長、小平第二小学校長、小池化成小学校長、小平第一小学校長、埼玉県所沢小学校出口訓導外七名。




『第一区府県立全生病院昭和12年統計年表

 昭和十一年
 〔中略〕
 一 全生図書館開館式
 昨年末ヨリ患者ノ手ニ依リ建築中ノ全生図書館ハ四月工事竣工シタルモ尚内部ノ設備其他ニ日時ヲ要セシヲ以テ十一月旧図書館ヲ此処ニ移転シ十二月十五日開館式ヲ挙行シ併テテ本院学園児童学芸品展覧会ヲ開催シタルニ近隣町村小学校より七百余点ノ出品アリ頗ル盛会ナリキ来賓トシテ中山田無警察署長榎本本村町、小池本村小学校長他近隣小学校長並ニ教職員等多数列席セラレタリ
 全生図書館 一棟 木造平屋瓦葺 四五坪五号




「御願書」

1951年6月13日

                                                                       全生会々長 渡辺清二郎
                                                                       文化部長  近藤隆治 
園長 林芳信殿
      昭和二十六年六月十三日
 次の月刊雑誌の御購入御下附を御願ひ申し上げます。
 文芸春秋3冊 中央公論3冊 改造3冊 リーダースダイジェスト3冊 小説新潮3冊 婦人倶楽部3冊 主婦と生活3冊 短歌研究2冊 日本短歌2冊 女人短歌(季刊)1冊 詩学1冊 みづゑ1冊 美術手帳1冊 きやり(川柳)2冊 演劇界1冊 少年倶楽部1冊 子供の科学1冊 太陽少年1冊 ひまわり1冊 少女クラブ1冊 婦人公論2冊 新女苑3冊 婦人生活3冊 女性改造1冊 装苑1冊 被服文化1冊 近代映画1冊




「御届書」

1952年2月2日
 
                                                                        全生会々長 原田嘉悦
                                                                        文化部長  光岡良二
園長 林芳信殿
      昭和二十七年二月二日
 書籍寄贈の依頼状を次の書店に出しました。御届け致します。
 河出書房 講談社 三省堂 新潮社 中央公論社 六興出版社 文芸春秋新社 旺文社
 春陽堂




「座談会 若い人大いに語る」

『多磨』第33巻第10号、1952年10月
 
 出席者:今村文夫(26才)、足立三郎(25才)、谷川篤(22才)、山西昌一(20才)、矢代禮子(19才)、辻よし子(17才)、三木アキ(16才)、千田和枝(16才)、日高照子(16才)、竹中雪子(16才)。司会:光岡良二

 〔関係箇所のみ引用〕

光岡 雪ちゃん、今どんなものを読んでいるの。
竹中 三木清の「人生論ノート」ジエームスの「宗教的経験の種々」など読んでいます。
三木 私は「罪と罰」を二巻目の途中まで。それから太宰治の「人間失格」を読みました。
光岡 「人間失格」どう思った?
三木 わからなかったわ。でも何だか不健康な気がしました。
光岡 本を読む時、自分で選んで読むの? それとも誰かにすすめられて……
三木 先生がいいってすすめられて読むのもあるし、自分で題がよさそうだと思って読む時もあります。
辻  題に釣られて読んで、がっかりするのがあるわ
光岡 アキちゃん「人間失格」が分からないのは当り前で、太宰の作品は今のあなた方には無理です。あれは劇薬の様なもので、ひん死の病人には何かになるかも知れないが若草のやうに心の健康なあなた方には、今さしあたり用のない本です。少くとも二十才になるまでは読まない方がいいと思います。禮子さんは、今何読んでるの?
矢代 今、岩波新書の「ロシア」をよんでいます。いろいろな報道機関はソビエットを無理に隠そうとして、私達の知っていることは、ほんの少ししかありません。ただ何も知らないで初めから恐わがっていていはいけないと思い、又一つの大きな力を持った民族の歴史を知りたいと思って読み始めました。そのほか読んだものは「チボー家の人々」です。とてもすばらしいと思いました。
光岡 「ロシア」は僕も今読んでいます。客観的でいい本だと思います。「チボー家」のどんなところがすばらしかったの。
矢代 若い人達の心が生長してゆく姿が生き生きと感じられて……
光岡 谷川君は?
谷川 最近、全然読んでいません。
光岡 じゃ最近でなくても、今迄読んだ中で強く影響された本と云う様なもの。
谷川 芥川の全集、ポール・コランの「野蛮な遊び」それからゲオルギウの「二十五時」には一番感動しました。
足立 僕は最近読んだ中では高桑純夫の「如何に生くべきか」がいいと思いました。
今村 主に仕事の関係で「装苑」や「洋裁」など、あとは「文芸春秋」くらいです。
山西 僕は今、マルクス、エンゲルス選集を系統的に読み進めています。
光岡 今伺って皆さんがいろいろなものをよく読んでいられるのに感心しました。只読む本の選び方が一寸無秩序のような気がしました。いろいろなものを乱読するのも悪くはないが、一方では是非読まねばならない、人間を作る上での基礎的な読書を一応プランを作って読んで置くのがいいのではないかと思います。
 〔中略〕
光岡 図書館の読書統計を見ましたが、女の人の読書率は絶対に低いですね。
矢代 女の人達は仕事に追われて時間がないんです。もっと手順よくやって、自分の時間を作るということに努めなければいけないと思います。もっと生活の余裕が欲しいわ。



「〈座談会〉学園、少年団、児童寮、図書館、絵の会、書の会」
出席者:牧田文雄、田代馨、宇津木豊。進行係:編集部
『多磨』第40巻第10号、1959年11月
 
〔「全生学園」「少年団」「児童寮」の部分は省略〕
「図書館」
―― 田代さんは寮父になる以前は図書館にいたそうですが。
田代 ぼくは12年から15年までです。
―― 宇津木さんは?
宇津木 私は14年5月から現在までです。図書館の起りもずいぶん古いようです。明治43年に浅草本願寺から講談本が三、四百冊寄贈されてそれを「娯楽文庫」と名づけそれを旧礼拝堂の一隅に置いて一週一回貸出したそうです。それから大正10年に娯楽場の一室に図書室が設けられました。係はさつき名前の出た原田さんなどです。図書は全部受贈品でしたが、立派なものもありました。仏教大辞典、国語大辞典、漱石全集、鴎外全集などは現在でも残つています。現在の図書館の建物が出来たのは昭和11年です。
田代 その頃の図書館の係は4人でした。閲覧時間は現在と同じく午後でした。
宇津木 図書室は今は2室ですがその頃は1室でした。図書数は全部かき集めて二千くらいかな。
―― 北条文庫というのがあるが……。
田代 あれは北条の死後、遺本をもとにして設けたものだ。それまでは図書館に外国文学というものはなかつたんだね。だから北条文庫は重大な刺戟を皆に与えた。
宇津木 ドストエフスキー全集、トルストイ全集、哲学講座、メリメ全集、芥川全集などがあつた。
田代 図書費は全々わからんね。秘密主義で教えてくれなかつたから。
宇津木 雑誌は「富士」「講談倶楽部」「キング」……。
田代 「中央公論」はアカだというので駄目だった。
宇津木 所が「改造」はよかつた。
―― それは妙だね。
田代 改造はアカじゃないんだ。(笑)
宇津木 とにかくアカは全部だめだった。
―― 文芸誌は。
宇津木 「文学界」だけ。
―― 個人的に書籍を買うことはあつたですか。
田代 あつた。北条の影響で非常に文学意欲が強かつたから。
宇津木 新聞は三大新聞が一部づつ入つていた。(現在は各舎に一部づつ)
―― 千人に三部か。
田代 それもね。検閲があつて事務所の気に入らない記事は切りぬかれるんだよ。
―― ひどいね。現在の図書費は。
宇津木 14万円くらい。外に藤楓協会から二、三万円もらえることがある。
〔「絵の会・書の会」の部分は省略〕
 
 


「白書 全生図書館」
『多磨』第41巻第10号、1960年10月
 
○35年8月現在蔵書 4,735冊
 戦後購入の主な全集類
現代日本文学全集(筑摩書房)
世界文学全集(欠本あり)(新潮社)
ジイド全集
宮沢賢治全集
小林秀雄全集
大言海(3巻)
ニーチエ全集
毛沢東選集
スターリン全集
日本の歴史(読売新聞社)
世界地理大系
世界歴史大辞典
○予算
 34年度 14万円(雑誌、書籍各7万円)
 35年度 10万円(雑誌6万円、書籍4万円)
○34年度購入書籍(153冊)
 文学67冊、大衆文学27冊、社会科学17冊、外国文学13冊、自然科学10冊、芸術5冊、語学3冊、詩・短文芸3冊、哲学2冊、教育2冊、思想2冊、歴史2冊
○34年度購入雑誌
 世界1冊、中央公論2冊、文芸春秋2冊、新潮1冊、群像1冊、小説新潮1冊、オール読物1冊、主婦の友1冊、婦人生活1冊、婦人クラブ1冊、主婦と生活1冊、近代映画1冊、相撲1冊、野球1冊、平凡2冊、明星1冊、日本1冊、娯楽雑誌12種類
 新聞4種類
○35年度貸出状況
(種目)  (年間貸出数)(一人平均)
 文学    2,288冊   3.3冊
 大衆文学  1,241冊   1.8冊
 外国文学  564冊    0.8冊
 社会科学・自然科学 101冊
 詩・短文芸 22冊
 その他   21冊
 雑誌    3,380冊
〈注〉「一人平均」とあるのは園内の読書可能人口を七百人とみて、年間の一人平均の貸出を示す。
(資料提供は鈴木一民氏)
 一言にして言うと何ともお恥かしい限りである。五千冊に足りない蔵書はちょっとした個人蔵書におとるであろう。年間4万円という書籍費は入園者一人当りにするとわずか40円弱である。われわれ入園者が体力と時間均余裕に比して知的レベルが低い、といわれる主な原因はたしかにここにある。
(編集部)
 
アンケート
 1、あなたの生活に大きな影響を与えた書(又は著作者)を書いて下さい。(2冊又は2人以内)
 2、あなたが最近読んだ本(雑誌を除く)を書いて下さい。(2冊以内)
 
国本昭夫(渉外部)
 1、萩原朔太郎「月に吠ゆる」により私の文学的開眼があつたと言えます。
 2、読書するという意欲を失いましたが、時折、記録文学を読みます。
北原紀夫(全患協)
 1、共産党宣言・矛盾論実践論、ゴーリキー・河上肇
 2、マル・エン「文学芸術論」、ゼーガース「第七の十字架」
福田賢治(清掃部)
 1、芥川竜之介
 2、林芙美子全集
水谷 晃(印刷部)
 1、しいて記憶をたどれば、カミユ「異邦人」、三島由紀夫「金閣寺」
 2、ローラン「魅られたる魂」、ブロンテ「嵐が丘」
大竹 章(放送部)
 1、スノー「中国の赤い星」、エンゲルス「空想から科学へ」
 2、松本清張「日本の黒い霧」、阿川弘之「ぽんこつ」
鈴村 清(物品部)
 1、亀井勝一郎
 2、D・マリアンヌ「愛の喪章」
野谷寛三
 1、内村鑑三、バルト「教義学要綱」
 2、向坂逸郎「社会主義」、鶴見俊輔「現代日本の思想」
沖 健二(小学教師)
 2、「日本の歴史」(読売)
奥平 広(中学教師)
 1、「ジャン・クリストフ」
 2、内村鑑三「余はいかにして」、同「宗教座談」
柳 径子(物品部)
 1、竹内てるよの著書はいくらか生活に影響を与えていると思います。石川達三、荒畑寒村など関心をもつています。
木曽真澄(物品部)
 1、「矛盾論」、柳田謙十郎「我が思想遍歴」
赤石秋夫(盲人会書記)
 1、バンヤン「天路歴程」、江戸川乱歩「魔術師」
 2、金井為一郎「生涯と思想」、森山師「予言のパノラマ」
大森なみ子
 1、畔柳二美「姉妹」、獅子文六「娘と私」
 2、松本清張「点と線」、シヨーロフ「開かれた処女」
新美 健(文化部)
 1、「経済学教科書」「資本論」
 2、寺尾五郎「三八度線の北」「集団に育つ子ら」
佐々木貞道(会計部)
 1、聖書、田中菊雄「私の人生探究」
 2、モーパッサン「女の一生」
芦川 晃(印刷部)
 1、ラスキ「理性信仰知識」、スタインベック「怒りの葡萄」
 2、フエイガン「平民の叛徒」、家永三郎「数奇なる思想家」
北見洋介
 1、トルストイ
 2、トルストイ「芸術とは何か」、講座「文学の創造と鑑賞」
光岡良二(執行部)
 1、自分の生活に「大きな影響を与えた書」と云うことになると、やはり聖書を挙げなければならないでしょう。もう一つ挙げるとなると一寸困ります。それに比肩するだけのものがないからです。ここには全然ちがつた意味で、少年時に読み耽り、自分の情緒生活を決定された書として、三木露風や佐藤春夫の初期の詩集を挙げて置きたいと思います。
 2、井上靖「敦煌」、大野晋「日本語の起源」
村井葦己
 1、マルクス・エンゲルス選集、レーニン
 2、日共中委「共産主義読本」、シヨーロフ「静かなるドン」
氷上恵介(盲人会書記)
 1、島木健作「生活の探求」
 2、石田潔編「教師の人間関係」
 
 

〔参考資料〕

東京都議会議長大日向蔦次宛「請願書」
1965年12月8日付 多磨全生園入所患者代表高林米吉

私共は国立療養所多磨全生園に入所し、療養中の患者でありますが、この度請願書を以て貴議会の御配慮と御理解をいただきたく存じますので、何卒御善処下さいます様、御願い申しあげます。
 御承知とは存じますが、私共の療養する多磨全生園は、明治42年に創設され、55年余にわたる歳月をこの武蔵野の一隅にありまして、この間国民の御厚情と都民各位の深い理解をいただき乍ら、今日迄過して参りました。半世紀に及びこの間には、私共にとつて心身共に忍び難い暗い時代もあり、筆舌に尽し難い痛苦をなめて参りましたが、平和憲法の公布と、新薬プロミン等の使用による医療の急速な進展以来、私共と同様な疾病の患者が過去数百年もの間渇望して参りました、人間復活がなされ、今日では年々多くの社会復帰者を出しており、私共の病が治癒することが、実証されております。
 然し乍ら、私共の日常の医療及び生活の中には、未だ充されぬものも多く、甚だ困惑いたしておる訳でありますが、私共のそうした実状の一部を申しあげて、貴議会の御援助を賜りたく存じ、多磨全生園入所者1,095名を代表して次の請願を申しあげる次第であります。
請願項目
一、多磨全生園入所患者に対する文化助成金支給について
 私共の療養はすべて国費でまかなわれておりますが、医療と生活を区分した予算の中で特に不足しているものは文化的な経費であります。私共に国が支出している直接の生活費としては、療養慰安金月額850円(現金)、日用品月額168円(現品)、被服費月額352円(現品)、給食費月額4,500円(現品)等が一般的な給与でありますが、その外に不自由者慰安金(月額250円〜750円)、作業賞与金(月額平均2,000円)等の特別給与があり、その他に国が国民年金として給与する傷害福祉年金(月1,800円)、老人福祉年金(月1,100円)受給もあります。以上の様な現金支給なり、現品支給が、私共の一カ月の生活経費でありますが、現金の最高給与を受けているものが2,900円程度、最低のものは1,600円程度であります。この様な少額でありますため、現在の消費物価の値上がりした現状では、個人の生活は非常に押しつめられて、煙草や給食補助等の嗜好品を求めることさえ不足勝であり、趣味や娯楽に必要な経費は勿論、時には通信費さえにも事欠く場合もあります。
 こうした状態は憲法で定められた、健康で平和な最低の文化的な生活には程遠い訳でありますので、私共は年毎に国に対して、文化的な関係予算を計上していただく様にお願いして参りました。たとえば、図書や新聞等を購入する経費、ラジオやテレビを園内に何台か設備するための経費、囲碁や将棋などの娯楽、菊や草花をつくり、盆栽をつくる趣味等を助成する経費等でありますが、こうしたものは殆ど計上されておりません。僅かに文化的な経費として国が計上しているおのに、映画上映費(一施設年額208,000円)と講師や指導する先生を招へいする講師謝金(一施設年額50,000円)等でありますが、その他の経費は、少ない日用品費から支出せよということなのであります。
 私共としても、その大方が長い闘病生活をおくつているものであり、その生活も一定地域の中で、無聊なものです。そのため趣味を求め、娯楽を楽しむことは、毎日の療養の糧となる訳であります。新聞、図書、ラジオ、テレビ等は、私共にとつては眼や耳であり、欠くことの出来ないものであります。また二年に一度程バスによる所外へのレクリエーション等もありますが、こうしたことも古い年代のバスであり、故障等によりとぎれ勝ちであります。
 私共としては、この様な状態を国に訴えることが、本筋だとは存じますが、出来ますならば貴議会の御配慮により次の各項に対して都当局よりの御援助をいただきたくお願いしたい訳であります。
  一、図書購入費として年間一人一冊程度を援助していただきたい。
  一、新聞購読費として二十人に一部程度を援助していただきたい。
  一、テレビを一〇〇人に一台程度支給していただきたい。
  一、趣味娯楽、文芸等を奨励する経費を助成していただきたい。
  一、レクリエーション用バスを一台支給していただきたい。
一、入所児童の教育を、一般国立の小、中学校教育と同等の基準に引上げる諸対策の要請について 〔以下略〕
 




林 芳信「回顧五十年(17)」
リンクページ
『多磨』第539号、1966年11月




                           多磨全生園入所者自治会「中央委員会事務規定(抄)」
                                            1969年6月1日

第14条 総務部は文化関係のつぎの事項を取り扱う。
 1.図書館に関する事項
 2.小・中学校に関する事項
 3.年中行事に関する事項
 4.団体に関する事項
 5.親善交流に関する事項
 6.新聞に関する事項
 7.演芸等に関する事項
 8.その他文化に関する事項
第15条 ハンセン氏病関係の出版物を集めるため、図書館内にハ氏病文庫を設ける。




                                        「ハ氏病文庫規定」
                                     日付なし。1969年頃と思われる。
第1条 ハ氏病文庫は、国立療養所多磨全生園創立60周年記念事業として設置する。
第2条 ハ氏病文庫は、ハ氏病関係の文献を広く集め、極限に生きた人間の記録を後世に遺すことを目的とする。
第3条 ハ氏病文庫は、中央委員会が管理し総務が運営の責任にあたる。
第4条 総務委員長は、文庫運営のためつぎの医院をおく。
      1.責任者     文化担当
      2.図書館従業員 1名
      3.委員       若干名
第5条 委員は定期的に委員会をひらき、ハ氏病文庫の運営と文献収集について協議する。
第6条 ハ氏病文庫の目録は自治会総務部と図書館におく。
第7条 ハ氏病文庫は資料として保管するもので貸出しはしないが、資料を必要とする場合は文庫内で利用していただく。
第8条 付記 ハ氏病文庫は創立60周年記念事業として東京都の助成金で設置したものである。



鈴木楽光「きき書き 全生園むかし昔(五)入園した頃」

『多磨』第604号、1972年4月

 若い人たちにとって図書館は、娯楽というより救いのオアシスのようなものでした。
 図書館といえばひびきがいいのですが、春とか秋の芝居のころになると、そこが片付けられて楽屋になるという状態でした。畳もぼろぼろですし、冬なんか畳の上に南京袋を敷いて、座布団の上に図書係の人たちはいました。
 うす暗い所ですけど、百燭電燈が、こうこうと輝き、それがうれしくてね。舎の方では十時に消燈ですし、その舎の電燈というのが大変で、天井の高い十二畳半に五燭しかないのですから、とても本など読めるものではなかったです。だから私たち若者にとって、図書館というのは、十時、十一時になっても、こうこうと電燈がついているし、その下で本が読めるということは表現のしようのない救いでしたね。
 その当時、楽しみにして読んでいたのには、石渡コト婦長が寄付してくれた「大菩薩峠」がありました。これなどとても面白く読んだものです。他には「夏目漱石全集」、「内村鑑三全集」、「現代文学全集」、宗教関係の本などいろいろありました。貸出禁止の本や、新刊書なども入ってきたりするので、どんなに苦しくても、昼間働いて疲れていても図書館に行くのが楽しみでしたね。読み疲れて、そのままグウグウ寝てしまったこともあります。
 その時代の人たちは、大衆小説といったらほとんど片っ端から読んでいたから、昔の人たちはそういうことはよく知っていましたね。あの頃の人たちは、小説という小説をほとんど読みあさって、次から次と新しい本が出ないと読む本がないというくらい読んでいましたね。
 そのころ、図書館に夜来る人はだいたいきまっていましたからね。常連の人たちが、十一時までも十二時までも本を読んで、そのあげくにですね。
 今から引きあげうどんでも食おうではないかというのがいてね。そこでうどんを持ってきて茹で、生醤油と削りぶしを入れて、ろくろく煮えてもない熱いのを、ふきふき食べました。冬なんかよくやりましたね。そんなところを光田園長にみつかって「てめえたちは豚だ」とよくやられましたけれど……本当にその頃は、心のあった人たちが一個所に集って雑談するだけでも、私たちは大変楽しかったですね。
 そのころ図書館の果した役割は、私たち若い者にとって、教養をつけてくれたり、人間的に高めてくれる修練道場のようなものでした。苦しい療養生活を支えてくれた大きな柱であったと思います。今考えるとなつかしいですね。


 


大竹 章「写真風土記(64)」

『多磨』第664号、1977年5月
 
 船舶振興会の寄付金で「ハンセン氏病図書館」が宗教地区の南側、かつて北条民雄が住んだという秩父寮のあとに建てられ、古ぼけて雨もりのひどい図書館から「ハンセン氏病文庫」が移動、「昇格」することになった。
 しかし、その古い図書館にあるたくさんの一般書籍はどうしたらよいか。現在では、殆ど利用する人もなくなってしまったが、私たちの過去には、図書館へ通い、読書だけを楽しみとし、読書のために生きていた、といってもよい時代があった。
 人間が駄目になったのか、出来上ってしまったからか、本がなくても生きられるようになったとはいえ、大切なものはやはり大切、思い出深いものも一緒に持っていこうと、図書館員とともに引っ越し、古い図書館はときたま開館するだけとなった。
 「ハンセン氏病図書館」にはまた、自治会や全患協の古い記録も、生きたしるしとなる日のために保管する一方、昔の備品や貸与品、生活用具も一式、記念に保存することにした。
 うどん縞の着物を着ていて「裏返しですよ」といわれ、つい「出ているほうが表です」とこたえ「かわいげのないひねくれもん」といわれたことがあったが、どちらを出しても、余り変り栄えのしなかった、それは、支給の単衣物であるとか、逃走させないため、お金のかわりに持たされた園内通用券であるとか、飢餓の時代にさつま芋をふかした鉄の大鍋、味噌汁をわかした小鍋、鉄びん、火鉢、「ガニ火箸」、銘々が必ず所持したお膳箱であるとか金椀、等々。
 例えば、金椀は一人前で五種類ずつであったが、今では使う人もなく、なかなか見当たらなくなってしまった。事務補助の倉庫をはじめ、あっちこっち探しているうち、たくさん集めているところがわかった。欲しい人は、動物飼育場へ行けば、一つくらいくれるかも知れない。
 
 


松本 馨「年頭に当りて」

『多磨』第660号、1977年1月
 
〔前略〕
 このほかに藤楓協会を通し、自転車振興会及び船舶協会に要請しているものに、病棟と新センター(特別重不自由寮)地区に建設する予定の老人ホームを要請している。昨年は船舶協会の援助でハンセン氏病図書館(約一千五百万円)を建設した。この機会にハンセン氏病の図書館建設の目的について言及しておきたい。
 医療センターと共に、その実現を強く望んだものにハンセン氏病図書館があった。8年前、自治会再建と同時に医療センターの運動と共に並行して行なったものにハンセン氏病文献の収集があった。医療センターはハンセン氏病の終末的観点に立ち、運動を起したものであることは機会があるごとに本誌で訴えてきたところである。つまり、センターはハンセン氏病の最後の医療を見ることが目的であるが、センター運動だけでは問題は解決しない。ハンセン氏病の文献を収集し、後世に遺しておくことである。ハンセン氏病は今世紀のうちに日本から姿を消すことは確実である。人類史の中でハンセン氏病ほど悲惨で絶望的な病気、差別と偏見によって虐げられた病気はない。その病気はやがて世界から消えようとしている。二十一世紀後の人間は文献以外にハンセン氏病を知ることができなくなるであろう。それ故にハンセン氏病文献は貴重な資料として後世に遺しておかねばならないし、最後のハンセン氏病患者として現代に生きているわれわれの責任として収集し、保管しておかなければならない。ハンセン氏病文献を持っておられる方はこの機会に協力して欲しい。個人で保管しておくことには限界があり、いつかは喪失してしまうであろう。ハンセン氏病図書館は鉄筋コンクリートの不燃性の建物であり、後世に遺すわれわれの共有財産として管理していかなければならない。なお、貴重な蔵書についてはその希望額にそって買い取ることもしており、多くの方の協力を重ねておねがいしたい。
 ハンセン氏病図書館は梅林の一郭に建った。ここは昔、有料の患者が入居していた「山の手」という小住宅地区である。図書館の敷地は北条民雄が住んでいた秩父舎跡である。北条が入居したときは有料制度は撤廃されていた。秩父舎は十二畳半二室に応接間があった。北条は二号室に入居し、応接間を書斎として独占していた。当時としては特別待遇である。十二畳半に八人から十人が普通であるのに、十二畳半一室と応接間を自由に使うことができたのである。もっとも施設が特別に待遇したのでなく、同室者が北条との同居を敬遠し、附添夫になるなどして出たために結果的に恵まれた環境が与えられたのである。
 応接間の南窓の外には子供の腕ほどの紅葉が一本あったが、現在は大木となり、北条の住んでいた唯一のしるしとしてだいじにされている。会員からこの紅葉のそばに北条の記念碑を建てて欲しいという声があり、その要望に答えてハンセン氏病図書館を建てた。北条を記念する意味で「北条民雄文庫」と命名するつもりであったが、寄贈者のことを考慮し、固有名詞を付けることを遠慮した。しかし、名称はハンセン氏病図書館であるが、その精神は、「北条民雄文庫」であることに変りはない。ハンセン氏病図書館は梅林に囲われ、その梅花の香りのように後世にわれわれの命を伝えることになるであろう。
 自治会が独自の考えのもとに起さなければならないものに、多磨全生園史の編纂がある。1979年は全生園の創立七十周年に当る。この七十年を記念して、われわれの手で全生園史を編纂しておく必要がある。この編纂も後世に遺しておくためのものであり、今のときを逸しては編纂の機会がない。
 多磨全生園は光田健輔によって創られ、長島愛生園を始め、後の国立療養所のヒナ型になったものである。この七十年の歴史の中で懲戒検束権が導入され、監房が造られ、終身隔離撲滅の収容所が完成していくのであるが、全生園を語ることは日本のハンセン氏病療養所の歴史を語ることであり、それだけに多磨全生園史は重要な意味を持つであろう。
〔以下省略〕
 
 


松本 馨「療養通信」

『小さき声』173、1977年1月20日
 
12月20日
 ハンセン氏病図書館が完成しました。検査の都合で開館は来年1月になるでしょう。矢島公園は北端にあり、図書館は南端にあります。庭は梅園でこの一角は宗教地帯で7つのお寺と会堂があります。後世に遺す図書館の場所としては最適のように思われます。前に書いた記憶がありますが、図書館は北条民雄が住んでいた寮の跡で、北条が書斎に使っていた応接間の前にあったもみじは巨木となって枝を張っています。図書館は入園者だけでなく、北条民雄の愛読者にも愛されるものになるでしょう。私の願いは、図書館を中心に、望郷台に至るまでの場所を公園にする事です。望郷台の下は学園のグランドで、庭をはさんで小中学校があります。生徒は中学生1名で、先生が2名、それに患者の補助教師2名の4人で教えています。中学1年生ですが、社会復帰して外部の中学校に転校したい希望を持っているようです。〔中略〕生徒がいなくなることを前提に、来年は学園グランドに芝生を植え、望郷台を延長した公園にしたいと思っています。グランドは災害の折り、周辺の人達の避難場所を兼ねた公園にしておくとよいと思っています。
 病棟、治療棟地区には、昔造った公園があります。其処には野球場もあり、最も公園らしくなっております。この公園は西に当り、東には墓地がありその境内には銀杏、楓が鬱蒼とと繁っております。私が入所したのは1935年(昭和10年)で、墓地が出来たばかりでした。銀杏、楓は若木でしたが、先日墓参の折りその銀杏、楓に触れ、巨木になっているのに驚きました。傍に寄りつけない程、根は地表に這い、青松園の松を思わせました。2人3人でなければ抱えきれない程の大木なのです。約半世紀は経っていると思いますが、改めて自分の療養の長さを知らされました。この墓地は矢島公園とつながりますが、今年植樹して矢島公園が森林らしくなるには、5年、そしてその形が成るまでには10年かかるでしょう。私の頭の中には、森林公園となった全生園があります。そして患者の居なくなった時、この公園を地元住民に感謝の記念として捧げたい、という願いがあります。
 1977年も、こうした考えの許に、全生園は医療センターと公園の二つの面から整備されてゆくでしょう。〔後略〕
 




大竹 章「写真風土記(78)」

『多磨』第680号、1978年9月
 
 林芳信名誉園長が亡くなってはや八ヵ月、遺族の配慮によって膨大な蔵書のうち、ハンセン氏病に関する一切を当園へ寄付して頂くことになり、一応の選別は済んだが、見落としがないかどうか見るようにと、図書館の山下君と一緒に大平副園長につれられて柏市へ行った。
 柏市は千葉県だが、武蔵野西線が敷かれて便利になり、一時間半で着いた。
 そこは、長男の林芳雄先生が歯科医院を開いているお宅で、林園長が病床につかれてからは、その二階が病室にあてられていた。書斎は通りから少し裏に入ったところにあったが、比較的新しい本は二階にあり、芳雄先生によれば「井上靖が好きで、最後まで読んでいたので、全部揃っているでしょう。よかったらお持ち下さい」ということで、井上靖ファンの林園長に改めて、親近感を覚えた。
 奥さんは元気で「几帳面な人で、皆さんから頂いた年賀状や暑中見舞いをこんなに沢山束ねて……」と見せてくれたが、耳が遠く、こちらの声がきこえたかどうか。
 夕食時間になり、そばをよばれ、芳雄先生が昔の思い出を話してくれた。
 頂くことになった書籍は段ボールに三十余、園長室に残された分とでは四十箱にも達したが、私たちは書斎で本館一号と書き、マル全の徽章のつけられた鉄カブトを見つけ、永久保存のため、頂いて帰ることにした。
 すると、玄関で若奥さんが「そのヘルメット、お持ちになるのでしたら、手さげ袋をあげますから入れていって下さい。ここは千葉県ですからね」といわれ、笑ってしまったが、過激派と間違えられないよう、いわれた通りにした。
 帰りは柏駅まで、車で芳雄先生が、人口二十四万という町の賑わいを見せながら送ってくれた。(写真、医局図書館二階での整理作業)




原田嘉悦「図書館」
『望郷の丘 多磨盲人会創立20周年記念誌』1979年5月、72〜75頁
 

 図書館は入院後間もなくできて、その係りは栗下信策さんと私がやったんですよ。当時図書館と言ってもその書籍は、各県の予算で購入するということはなくて、主に仏教、キリスト教関係から寄贈になったものだった。図書館の棚の一部に、東本願寺から寄付された講談本がありました。それの係りは私どもと違って、瀬戸さんたちが一週間に一回くらい本を貸すと言って、各舎を回って歩いたんです。その講談本のほとんどは大川屋のもので、後藤又兵衛とか荒木又衛門と言った英雄豪傑のたぐいに、滝の白糸のようなものと、子供のための童話集とかね。そうした講談本を鼻の下の長い男たちが、女の作業に包帯巻きがあって、その作業場で読んでやっていたんです。そのお礼とでも言うのか、女たちが僅かずつ出し合って、茶菓子を買ってやっていた。
 図書館の係りは、一日一銭五厘で、一カ月務めて四十五銭だった。私は初めから無報酬でやるつもりでいたから、このお金はいりませんよって、見張所へ袋ごとほおり込んで来たんだよ。そうしたら、二年ほど前に亡くなった比留間誠二さんのお父さんが、お前一人お金はいらないよと言われても困るよって、無理にもらわされた覚えがある。一日一銭五厘と言えば、当時のはがき一枚分だからね。図書館の大きさは、十二畳半くらいの板の間で、西と南側に本棚があって、北側が入口、東側が娯楽場の舞台に続いたわけなんだよ。だから春と秋の芝居の時には図書館は閉鎖して、そこが役者たちの化粧室に早替りしたんです。とにかく、昼間でもううす暗い、洞窟のような室だったよ。本らしい本と言えば、『夏目漱石全集』とか、『島崎藤村全集』くらいなもので、他は単行本、それも読み古したもので、その他、前にも触れた仏教とかキリスト教の本が多かったです。『ドンキホーテ』の翻訳ものがあったね。
 光田院長がたまたま図書館へひょっこり来て、『ドンキホーテ』の翻訳ものを見つけ、おいそれ取って見せろよって、その場で読み初めたんだよ。そして言うには、これは勇気と決断を象徴したなかなかいい本じゃ。われわれは聞きたくもないのにながながと朗読してね。ある日、私が漱石の感想集を読んでいたら、また光田院長がのこのことやって来て、私にいきなり、原田お前はそんな難かしい本を読むのに、傍らに辞典を置かないなんて何事だと頭からしかられたね。
 そんなことを言われても、図書館には一冊の辞典もないんですよ。だったら院長さん買って下さいよってね。数カ月してから三省堂の百科辞典と、五、六冊からなっている『大言海』を買ってくれたんですよ。総合雑誌と言えば、その後しばらくして、すぐ上の二階へ図書館が移った時に、当時の東京日日新聞社から、週刊誌『サンデー毎日』が寄贈になったんだが、それが総合雑誌に近いものだったと思う。新聞は別な娯楽室の、旧礼拝堂に面した花道においてあって、見たい人は自由にそれを読んだ。だが院の方で都合の悪い記事は切り取ってしまっていたんですよ。新聞の検閲係りのようなものがいたんだね、職員の中に。
 『山桜』誌のガリ版印刷は、大正八年四月に図書館で始めたんですよ。開院十周年記念にね。関という青年が、字がうまかったので、ほとんど専門にやっていた。そんな時、看護手の仲さんの妹が看護婦で入って来たんです。ところが彼はその人と蒸発しちゃったんだよ。その後は石川という憲兵軍曹が刷っていた。私も二、三回ガリを切ったが、なれないと十枚も刷れば、原紙が切れてぱかぱか開いちゃうんだよ。当時原紙一枚二銭くらいしたですね。ローラーなども古くなって固くなると、それをとかし、作り直して、ごろごろやっていたんですね。本の名前は山桜で、多磨と改名されたのは昭和二十七年十一月で、全国文芸特集号からだったんじゃないかな。初めのころは栗下さんが、後沢看護長や赤羽看護婦に頭をペコペコ下げながら、紙代をもらって来て、四、五枚で一部だったから、三十部ぐらい作ったかな。百部くらいと言う声もあったが、金もなく、紙もなく、配る所も確定したあてもなしでね。しばらくはカンジンヨリでとじていたね。配った先は、職員、それに本願寺を初めキリスト教関係、社会事業関係などだった。送料は一部二銭くらいだったので、私たちが負担していたんです。
 『山桜』誌がガリ版から、活字の印刷になったのは、昭和四年に創立二十周年記念の一つとして、印刷機その他一式が購入されてからなんです。そのころ、北海道大学出身の林文雄先生と、昔の薄舎の一室で原稿を集めて『山桜』の編集をしたこともあったです。
 昭和の初めに慶応大学を出られた職員の佐武さんが、患者にエスペラント語を教えられたが、その後、林文雄先生が受け継がれた四、五年ころ、『悲惨のどん底』と言うロシヤの小説を黒川ひとみが翻訳したんだよ。だけど彼にはそうしたものを翻訳するだけの語学力はなかったので、林文雄先生が、黒川ひとみの名義で発行したと言うことですね。
 当時、病院の出版物は、歌集『東雲のまぶた』とか句集『雑林』は長崎書店だった。私の処女作『野路の足跡』は、昭和の初期に静岡の土井書店から、飯野牧師があっせんして出してくれたんです。随筆集だが、俳句もやっていたので、巻末に少しのせたんです。発行部数は百五十部くらいかな。とにかく患者の出版物としては第一号なるわけだ。私の第二号は『天路を開く』ってのを、昭和十二年ごろ、銀座の教文館から出したんです。それから四十八年に『生命の真珠』ってのをね。これは信仰的な内容の随想集です。〔後略〕




「ハンセン病図書館運営内規」
1983年9月
 

1.ハンセン病図書館は、ハンセン病関係の文献及び歴史的な生活物品等を集め、極限に生きた入所者の軌跡を後世に遺すことを目的とする。
2.ハンセン病図書館は、中央委員会が管理者を任命し、総務部長が責任にあたる。
イ.図書館管理係は2名とする。
ロ.なお、オブザーバー若干名をおき、資料の充実及び運営について助言を受ける。
3.ハンセン病図書館の資料は館外持ち出し禁止資料(禁帯出のラベルつき図書、写真、録音、録画テープ、書画及び保存物品)と貸出し図書とに分けて扱う。
イ.貸出し図書は所定の「借用証書」に住所、氏名、電話番号等を記入し、貸出す。
ロ.館外持ち出し禁止資料を特別に貸出す場合は、保証人を必要とし、「図書館資料特別貸出し保証書」の各欄に必要事項を記載し、貸出す。
ハ.保証人の資格は、自治会々員または施設職員とする。
ニ.保証書の記載事項は氏名、住所、電話番号、職業及び保証人の氏名、捺印等とする。
ホ.「保証書」の用紙は自治会及び図書館の各受付におく。
ヘ.図書の貸出しは3冊まで、期間は1週間以内とする。

付記
 ハンセン病図書館は、多磨全生園の創立60周年記念事業として東京都の助成をもって旧図書館内に設置した「ハンセン氏病文庫」を発展的に解消し、創立70周年を機に財団法人船舶振興会からの基金援助を受け、ありし日の北条民雄ゆかりの寮舎跡に名称を改めて建設、極限に生きた者たちの記録を遺すと共に研究者の利用に供するものである。
                                                                                      1983年9月 



大竹 章「写真風土記(134) 図書館別館」

『多磨』第741号、1983年10月
 
 図書館の南側に礼拝堂の鬼瓦を組立て、柵で囲み、由来を書いた立札と、「キケン」だから、のぼったりしないようにと、子供向けの立札をたててあるが、まだ知らない入園者が多いのではないか。
 その横にプレハブの小屋を建て、なつかしい物、古い物を保存している。
 鉄びん、鉄なべ、ガニ火箸、金わん、膳箱、七厘、火鉢、なた、包丁。舎長の道具の焼印、金板、硯箱。ブリキの義足と真竹で作った松葉杖。戦争中のゲートル、メガホン、鉄カブトもあり、ますとはかりとそろばんと、夜警の拍子木、歌舞伎の木、羅宇のすげかえ道具とねずみ取り、柳行李と糸車、てんでの時間を指して止まった柱時計が幾つも。
 いちいち書ききれないほど増えたが、もっと増えるよう、一度文化祭会場に展示し、宣伝しようじゃないかと、図書館係の山下さんと話しあっているところ。
 「ハ氏病文庫」の当時のままの規定も今度、「ハンセン病図書館運営内規」に改正、ハンセン病関係の文書だけでなく、歴史的な生活物品も保存の対象に入れ、従来の「貸出しはしない」原則を改め、「館外持ち出し禁止資料」であっても、保証人と保証書への必要事項の記載を条件に貸出すこととし、付記で、これを「ありし日の北条民雄ゆかりの寮舎跡に名称を改めて建設、極限に生きた者たちの記録を遺すと共に研究者の利用に供するもの」となった。
 さて、最近、十九世紀半ばから生産されたパルプ紙が、百年たった今、自壊作用でボロボロになり、名のある図書館の蔵書が何万、何十万冊という単位で閲覧不能になりつつある、といわれている。ここでも、すでに「全患協ニュース」のバックナンバー等、手に負えないいたみ方であり、和紙や正倉院の御物は千年を経てなお、燦然たるものがあるのに、所詮、私たちのそれは、やがて空しいものになっていくのであろうか。
 
 


多磨全生園ハンセン病図書館を訪ねる
リンクページ
Monthly新刊情報 October 1988 Vol.2. No.10, p.282-285
 
 


松本 馨「文書伝道と自治会活動(10)〜(11)」

『小さき声』〔第二期〕23、1990年4月15日
 
〔前略〕
 再建の年の1969年9月28日は国立療養所多磨全生園の前身である第一区府県立全生病院の創立60周年記念日であった。再建自治会は期間が短かった為に記念行事の計画を立てることが出来なかったが、記念事業としてハンセン病図書館を建設し、癩文献の収集を始めることにした。ハンセン病図書館は宿泊所と同じく藤楓協会を通して、外部からの援助を仰ぐことにした。それまでは、図書館の会議室を癩文庫として使うことにした。会議室は戦後全生園に始めてテレビが入った時、その放映室に使われたが、その後は痛みがひどく空室のまま放置してあった。すすけた天井や壁をペンキで塗り替え、腐った畳を外に出し、床をはり替えた。そして書棚を購入した。その費用は東京都が60年の記念事業として援助してくれたものであった。
文書伝道と自治会活動(11)
 私が始めて図書館に勤めた時、図書館にライ文庫が無い事に疑問を持ち、一般書籍の中にあったライ文献を収集しらい文庫を作った。ライ文庫は図書館の骨格をなすものでなければならない、将来、収容所の歴史を調べようとしてもライ文庫が無ければ調べようがない。しかし、その当時は検閲が厳しく、収容所に批判的な事を一言半句でも書けば没収されてしまう。それだけでは済まない、情況によっては収容所の秩序を乱す危険分子として、監房に監禁されてしまうのだ。
 患者が自由に書いたり物が言えたのは、政治的な事は一切抜きにした文学か、宗教だけであった。図書館にあるライ文献は、花鳥風月を歌った詩、短歌、俳句か、北條民雄、明石海人が主題にしたライ苦に限られていた。しかし、この様な文学からは収容所の歴史を知ることができない。文学に歴史が欠落しているのだ、この空白は、私達の手で埋めなければならない。その為にも、ライ関係の資料を収集しておくことは必要なのだ、しかし、私の文献収集は寮父となって終った。私が再び図書館に勤務したのは、戦争が終った直後であったが、その時は既にライ文庫は影も形もなく消えていた。一般の書籍と同じ扱いをして貸し出した為に、紛失してしまったのである。私は、胸をえぐられる様な痛みを感じた。
 戦後、連合軍によって超国家主義の指導者は公職から追放され、農地改革による小作人の土地取得や財閥の解体など、民主主義の波が国の隅々まで押し寄せていたが、なぜか収容所の超国家主義は追放されなかった為に、収容所の改革は遅れた。
 それにもかかわらず、連合軍と共に、アメリカで開発された科学療法、プロミンが上陸し、豚のごとく扱われていた患者は、プロミンによって「我も人なり。」の自己認識をした。
 1951年の光田健輔の国会証言、科学療法プロミンを否定し、あくまでも脱走罪の法律を作り隔離撲滅を求めた証言は、結果的に患者の憤激を買い、ライ予防法改悪反対闘争を起こし、彼の隔離撲滅政策に終止符が打たれたことは既に書いた。
 1963年、林芳信は高齢化の為に退職し、栗生楽泉園園長矢嶋良一が後を継いだ。患者自治会は林芳信の功績を称える為に彼の胸像を医局正面玄関に立てることを決め、患者を二分する様な騒ぎになった。功績を称える前に、彼の犯した誤ちについても、自治会は正しい評価をする必要があった。彼の為に幾十幾百の患者が監房に監禁された。私の知っているだけでも監房内で三人も首を括った。この林の胸像については、個人の寄付に委ねることによって結果的には胸像は建ったが、私はその時、自治会がしなければならない事は林を顕彰することではなく共同の費用でライ文献の資料館を造る事が責務であると思った。今の内にライ文献の資料を収集しておかなければ、超国家主義者の文献だけが残り、収容所の歴史は闇に葬られてしまうだろう。
 その時から6年後、私がライ文庫を初めて作った時から30年後に、私は再建自治会の総務部長となり創立60年の、自治会の記念事業として、ハンセン病図書館を建てることにしたのだった。資料収集には遅過ぎた感がしないでもなかったが、まだ、生きた証人は大勢居た。今の内なら聴き取りでも収容所の歴史を知ることが出来る。この時私は、自治会に勤めている内に全生園史を編纂し出版する事を秘かに決めた。全生園史は収容所の超国家主義者(所長)を世に告発することになると思った。
 自治会の記念事業として起こしたハンセン病図書館に共鳴し、協力してくれる者が一人現れた。祥風寮時代の子供で、下山道雄であった。道雄は中央委員の一人であると共に、図書館に勤めていた。道雄は、ライ文献収集を自己の使命として、ハンセン病図書館に深く係わった。
 道雄はまた、私が外出する時の付き添い人となって私を助けてくれた。全患協はその年の運動を決める支部長会議を5月に開催した。会場は各支部の持ち回りになっていた。18年間の私の自治会活動の中で、私は13支部に少ない所で2回、多い所では4回も行った。支部長会議の他に、臨時支部長会議やらい予防法の研究会など、出席する機会が多かったのである。その度毎に私の付き添いをしてくれたのは道雄であった。
 私は、行く先々で施設を見学させてもらった。夫婦舎の居室の構造と独身軽症舎、不自由舎の居室はどう出来ているのか、道路と下水の整備など尋ね調べた。全生園の整備の参考にする為であった。
 道雄は、会議の合間を見ては各園の図書館を訪ね、全生園に無い文献はハンセン病図書館の事を話し、譲ってもらえる物は譲ってもらった。各自治会の図書館関係者は道雄に協力してくれた。また、貴重な資料を寄贈してくれる先生も現れた。こうして道雄の努力によってハンセン病図書館は我が国唯一のライ文献の資料館となったが、決定的に資料館としての重みを持ったのは、林芳信名誉園長の遺族より、林が持っていたライ文献の寄贈を受けた事である。林は医者以外の趣味は何もないと言っていたが、彼はライ文献収集の趣味を持っていたのである。それだけに、彼の残したライ文献は貴重なものばかりであった。
 この他に、1979年に出版した全生園史『倶会一処』を編纂するに当って福祉室の物置きに埋もれていた「監督日誌」が発見された事だった。1972年の事務本館の火災によって、貴重な資料は全て灰に帰してしまったが、「監督日誌」だけはたまたま福祉室(見張所)の物置に埋もれていた為に、火災から免がれたのである。
 現在は、ハンセン病図書館を利用する者は、内よりも外の方が多い。卒論を書く為に学生の利用も多かった。


 

                              山下道輔「ハンセン病図書館にかける願い」
                        『ハンセン病と真宗』(真宗ブックレットbP)、1990年7月20日

 
このほど立教大学史学科山田ゼミナールによる全生園の朝鮮人・韓国人の聞書『生き抜いた証に』が出版された。人権を剥奪され苦難に満ちた人生抗路を綴ったハンセン病者の図書は総じてその記録であり証といえる。
 治癒薬による病苦からの解放と処遇の向上に伴い趣味娯楽の享受が多様化し、さらに老齢が重なって、書き手、読み手が著しく減り、療友が闘病の中で書き残したそれぞれの文芸作品や手記をまとめた図書を身近に顧みる大切さが失われて散逸がおびただしくなった。そうした過渡期、自治会長の提案で全生園創立六十周年を迎えた二十年前(1969年)に記念事業として「ハンセン病関係の文献を広く集め、極限に生きた人間の記録を後世に遺すことを目的」としたハンセン病文庫が設けられた。文化担当者だった私が、設立以来、資料の収集と整理、貸し出し等の仕事を続け、文庫も「図書館」に改称され新築の専門館に移行するまでに資料増となった。とはいえ、日本のハンセン病の事ならハンセン病図書館に行けば何でもわかるというほどにはまだ収集は果たされていない。ハンセン病者の辿った歴史の裏も表も文献資料でしか確かめようのない時代がもうすぐそこに来ており、全国各療園発行の機関誌をはじめ貴重な記録類を一カ所に集めて破損図書は補修し、酸化作用で変質したものは再製して整理保存し、利用者の求めに生かすための一カ所集中化の道筋を整えておくことが必要で、療友すべてのこの遺産が、やがて歴史資料の価値を成す形にできるかどうかにかかっている。幸いいま外部の奉仕者の尽力を得て稀覯本等の製本を手掛けていただいており、また外部利用者の厚意で未収資料の提供を受けるなど有り難い協力を得ている。園内からこの宝庫作りの協力者は得難く、友園から転園して来て欲しいとすら願う。それも夢でしかない状況下で今後の運営と在り方をどう確立していくか、この難題を抱え、園創立八十周年を迎えた今年(1989)、図書室が狭くなったので新たに資料展示室を加えた増築が自治会の財産で施工することに決まった。
 これまで以上に園内外の協力を仰ぎながら「ハンセン病を正しく理解する」ために役立つ百科全書的な使命を果たす内容豊かなハンセン病歴史資料館を目ざし、これが社会認知を受けて存在し続け、陽の光に包まれてあることを念じている。(ハンセン病図書館係)


 


財団法人藤楓協会理事長大谷藤郎「資料の保管等について」

藤発第44号文書、1990年9月28日

ハンセン病資料調査会 xx殿
 ハンセン病資料調査会専門員の会合をさる8月30日に開き、資料館に保存すべきもの、後世に役立つ収集すべき中心的資料は何か等について意見交換を行いました。
 この意見に基づき、当面は次のことについてご協力を賜りたくご多用中恐縮ですがよろしくお願いいたします。
 なお、この会合には厚生省保健医療局整備課長、結核・感染症対策室長、国立療養所課長補佐の方々のご出席をいただきました。

1 資料の保管
 資料館建設後には各種資料(図書、文献、生活道具など)を積極的に収集し、これを整理、保管して利用に供するが
 (1)現在、各療養所・自治会及び個人等で保管している資料は廃棄処分をしないで、保管していただきたい。
 (2)保管できない場合には目録を添え当協会へ送付していただきたい。(経費は協会負担)
2 録音テープの作成
 入園者の体験談を録音する。なるべく多くの方々のお話しをテープに録音したいと考えており、来年度以降にも継続実施いたしますが、
 (1)各国立療養所の実状に応じ、2・3名の方のものを作成し、当協会へ送付していただきたい。(経費は協会負担)
 (2)聞き取りについては別紙「録音テープ共通聞き取り事項」を参考にして下さい。
 (3)私立療養所については別途、打ち合せいたします。
3 資料目録の作成
 各療養所、自治会に保管の資料のうち図書、出版物については、順次、目録を作成していただく予定で、カード方式を検討中ですが記入方法など具体案を作りお願いいたしますので、今後ともご協力方よろしくお願いいたします。

 


「自治会日誌」

『多磨』第71巻第11号、1990年12月
 
〔前後略〕
9月1日 手狭になったハンセン病図書館に接続させて事務室、図書閲覧室、資料展示室を内容とする増築工事(建坪154平米)が、全生園創立80周年記念事業の一つとして入所者の資産(消費税別で3,100万円互恵会々計より支出)によって行われ、竣工する。
 


室伏修司「図書館の秘儀=\―多磨全生園ハンセン病図書館を訪ねて」
 →リンクページ
親和女子大学付属図書館報『一つ鍬山』No.14、1991年3月。『解放新報』1991年5月10日号に転載  
 


大竹 章「資料展示室」

『多磨』第831号、1991年4月
 
 ハンセン病図書館に接続させて事務室、閲覧室、資料展示室が増設、完成してから半年が経ち、閲覧室への書籍の移動は大方済んだものの、手不足もあり、展示室の方はプレハブからブツを運び込み、殆んど足の踏み場もなかった状態が幾らか整理されつつある、といったところ。
 先ず、東西両壁面に年表を貼り、それぞれの事項に沿って例えば、大正五年「懲戒検束規定に併行して監禁室が設置され」のところで監房内の写真を、同年「入院者心得を模造紙に印刷し各舎室に掲示」ではそれそのものを、大正八年「院内通用券の発行、使用」では各種園券を、といった具合に、そして戦争中のものとしては、反物を割いた包帯や金椀、警防団の団旗やゲートル、鉄カブトなどを展示することにした。その他、ブリキや竹製にはじまる義足や松葉杖の変遷、患者作業で使われた道具類も適当に配置、予防法闘争については写真を主体とした。
 フロアの中央には畳を何枚か敷き、火鉢、飯台、膳箱等を置いて昔の舎室を再現、そのうちマネキンにうどん縞の袷を着せて座らせておく予定。正面にガラスのはまった陳列棚があり、@主として礼拝堂にあったものを収めた物故者コーナーと、A入所者による出版物、書画、焼物等作品コーナーと、B補装具、補助具、鳥籠、軍配、トランペット、優勝カップ等生活用品コーナーおよびC見張所勤務日誌、逃走患者記録ほかの古文書コーナーにそれぞれ設定、陳列するつもり。お勝手の水がめとか、園券廃止時の保管金の不正糾弾患者大会における決議書とか、わっか下駄、カニューレ、北条の似顔絵、洗濯場事件のどんさんの写真とか、両手で筆を持ち、書に励む草野さんや医者よこせデモでの昇平さんの写真とか、貴重なものが沢山あるが、あれが欲しい、これが惜しかった、もっと早くに保存に気がつけばよかった、と思うものは数え切れない。
 何れにせよ、早く整理し、入園者だけでなく、参観者の見学コースにも入れて、見て貰いたいものだ。
 
 


山下道輔「ハンセン病資料調査会における報告――ハ病図書館・収集・保存・展示」リンクページへ
『多磨』第845号、1992年6月


 


資料館建設促進対策委員会「資料収集のための各園訪問報告について」
1992年12月21日

 年の瀬も押し迫り、何かと気忙しい毎日ですが、貴台始め貴園会員の皆様には、益々御健勝にて療養に御専念のことと拝察しお喜び申し上げます。
 さて、この度は藤楓協会の依頼により、多磨にあります対策委員会より大竹、佐川、他の委員が前後6回に亘り、次の日程で各園を訪問し、資料収集についての話合いと協力を要請しました。〔「各園訪問日程」は省略〕
 施設、自治会双方で対策委員会をつくり対処している園や、自治会内に資料室を設け、収集のための専門委員によって対処している園など、それぞれ対応の差はありますが、先ず感じたことは、どこの園でも施設整備がすすみ、度々の引っ越しで、古い物がその都度整理され捨てられてしまったとのことで、「時期的に10年、せめて5年早く資料収集を行っていたらなあ」という思いでした。
 しかし、各園の全面的なご協力により、別紙の如く予想以上の資料が発掘され、提供を受けることとなり、関係者一同喜んでいる次第です。あらためて各園関係者の皆様に厚く御礼を申し上げます。

資料収集についてのお願い
 9月24日付けで資料収集についての再要請を致しましたが、締切期日など、各園よりの意見を参照し、あらためて次の如く要請致しますので、よろしく御配慮の程をお願い申し上げます。
                                   記
1.資料目録の送付について〔省略〕
2.写真の送付について〔省略〕
3.図書目録について
 現在、全生園のハンセン病関係の図書を、全部、図書流通センターに依頼し、ワープロへのインプット作業をすすめております。年内一杯には新しい図書目録が出来上がる予定ですので、明年早々には各園へ図書目録を送付できるものと思います。
 現在までに2、3の園より図書目録が送付されておりますが、こちらから多磨の図書目録を送付しましたら中を御覧の上、そこにないもので、二冊以上あるものは、一冊を資料館の方へ提供して下さるようお願い致します。
 なお、一冊しかない本でも必要な場合は、コピーをお願いすることがあるかも知れませんが、その節はよろしくお願い申し上げます。
4.ビデオテープについて〔省略〕
5.電光案内板用のスライドについて〔省略〕
6.提供資料の送付について〔省略〕
7.「聞きがき」について〔省略〕
 以上、取り急ぎご報告とお願いを致しましたが、資料館は完成後永続するものですので、これからでも新しく資料となるものがありましたら、いつでも結構ですので送って下さい。

追記
 入園者個人の絵、書、陶芸、写真等の作品については、展示にふさわしい物を自治会において選んで送って下さい。
 なお、写真は療養所内を対象とした物、及び外部においてもハンセン病に関する物に限定しますので、その点よろしくお願い致します。
 年末も押し迫って参りました。皆様にはご自愛の上、良き新年をお迎え下さるよう祈念申し上げます。

資料館建設促進対策委員会
      委員長   成田 稔
      事務局長 佐川 修




松木 信『生きているのは何のために』

教文館、1993年2月
第一章 いのちの重み

7 図書館にて
 図書館は桔梗舎のすぐ目と鼻の先にあった。万国博覧会の建物の払い下げで、所内では珍しい和洋折衷のモダンな建物であった。旧図書館にはなかった製本の仕事場と受付を兼ねた詰所の外に、読書室と新聞閲覧室、さらに会議室と呼ばれた畳敷の大部屋があった。この大部屋は、小説、詩、短歌、俳句の会、宗教団体、囲碁、将棋会、県人会の会合に使われた。それまではどんな会合でも、所長に願書を提出し、許可を得なければ開くことができなかったが、その必要がなくなったのである。私が後藤の案内で旧図書館を初めて訪ねたのは3年前であったが、この3年間に大変な変わりようであった。図書室には北条文庫がもうけられた。そのために図書館の利用者が数倍もふえたのである。
 北条民雄は、私が勤務した前年の1937年12月5日、24歳で世を去った。死因は腸結核であった。北条が収容されたのは、21歳の時で、3年6ヵ月が彼の隔離された期間であった。北条はこの短い期間に命を燃やしつくしたのである。
 私の図書館での仕事は、貸出カードの整理と、僅かな図書費と寄付金で新書を購入し、内容の充実をはかることであった。このほかに私の考えで始めたのは、らい文献の収集があった。私は図書館に当然らい文庫があると思っていたが、そのようなものはなかった。収容所内で何が起こっているのか外部の人には隠されていた。しかし、いつの日か真実は明らかにされなければならない。その日が死後であっても名誉は回復されなければならない。名誉の回復は人権の回復であり、人間復帰である。こうしてらい文庫を作り、それに鍵を掛けて館外への貸出を禁じた。
 この年の秋から私は図書館に寝泊りするようになった。表向きは火の用心のためであるが、本心は夜の自由な時間が欲しかったからである。舎の消灯時間は10時であった。私はそれを待って蝋燭の明りで勉強した。蝋燭の明りが洩れないように屏風を立てておいた。このほかにも図書館に泊まる理由があった。それは監督の監視から逃れることであった。桔梗舎には、元博打うちの親分だった吉岡がいた。彼は時々どこかで博打を打っているという噂がたっていた。また、二度も逃走を企てて監房に入った明石がいた。モルヒネを打っているのではないかと噂されている望月がいた。桔梗舎は監督の特別監視の下におかれているのであった。しかし、舎の大部分の人たちは悪いことをしていないのだから、監視されても恐れることはないと割切っていたが、私はそのような気持ちになれなかった。毎夜、中の様子をうかがっている監督たちが、私の知らない間に私を罪人に仕上げ、ある日突然呼び出されて監房に入れられるかも知れないのだ。そのようなことは絶対あり得ないという保証はどこにもない。
 私が図書館に泊ることについて、後藤は反対した。図書館と道路をへだてて建っている学園の敷地は、昔の墓地跡であった。この敷地内にひと抱えもある松の木があるが、昔土葬の折、墓標の代りに植えた実生の松であった。雨の日に松の根元で燐が燃えているのを見たとか、人魂が飛んだのを見たと言う者が何人もいた。後藤もその内の一人で、夜中に何が起こるか分からないと、私の身を心配して反対したのである。しかし、私の「幽霊が出ても心配ない」という言葉に、後藤も承知した。こうして夜は図書館に泊り、通い婚の人たちのように朝帰りするようになった。収容所に入って初めて、夜の自由な時間を持つことができた。誰に気がねすることもなく、10時までは電燈が使えるし、それ以後も気の向くままに起きていられた。後藤が心配したようなことは起こらなかったが、幽霊に代わって夜になると読書室に一人の青年が現れ、消灯時間になるまで本を読んだり、ものを書いたりしていた。そして、いつの頃からか言葉を交わすようになり、二人でお茶を飲むまでになった。青年はこの年の7月に入院した。島崎周一、27歳であった。彼は収容所に入るまで新聞社に勤めていたのであった。

8 冬日
 読書室は冬は寒さのために使えなかったが、島崎は詰所に時々現れ、二人で話し合った結果、収容所の制度について勉強を始めた。これは私にとって珍しいことであった。37〜39頁

第6章 自治会活動・その一

3 らい文献の収集始まる
 再建の年の1969年9月28日は国立療養所多磨全生園の前身である第一区府県立全生病院の創立六十周年記念日であった。再建自治会は期間が短かったために行事計画を立てることができなかったが、記念事業としてらい図書館を建設し、らい文献の収集を始めることにした。らい図書館の会議室をらい文庫として使うことにした。会議室は戦後全生園に初めてテレビが入った時、その放映室に使われたが、その後は痛みがひどく、空室のまま放置してあった。すすけた天井や壁をペンキで塗り替え、腐った畳を外に出し、床をはり替えた。そして書棚を購入した。その費用は東京都が60年の記念事業として援助してくれたものであった。
 私が初めて図書館に勤めた時、図書館にらい文庫がないことに疑問を持ち、一般書籍の中にあった文献を収集し、らい文庫を作った。らい文庫は図書館の骨格でなければならない。将来収容所の歴史を調べようとしても、これがなければ調べようがない。しかし当時は検閲が厳しく、一言半句でも批判を書けば没収されてしまう。それだけではない。状況によっては、収容所の秩序を乱す危険分子として監房に監禁されてしまうのだ。
 患者が自由に書いたり物が言えたのは、政治は一切抜きにした文学か、宗教だけであった。図書館にあるらい文献は、花鳥風月を歌った詩、短歌、俳句か、北条民雄、明石海人が主題にしたらい苦に限られていた。しかし、このような文学からは収容所の歴史を知ることができない。文学に歴史が欠落しているのだ。この空白は私たちの手で埋めなければならない。そのためにも、らい関係の資料を収集しておくことは必要なのだ。しかし、私の文献収集は寮父となって終わった。私が再び図書館に勤務したのは、戦争が終わった直後であったが、その時は既に、らい文庫は影も形もなく消えていた。一般の書籍と同じ扱いをして貸し出したために紛失してしまったのである。私は胸をえぐられる思いだった。
〔中略〕1963年、林芳信が高齢で退職し、栗生楽泉園園長矢島良一が後を継いだ。患者自治会は林芳信の功績をたたえるため、彼の胸像を医局正面玄関に建てることを決めたので、患者を二分する騒ぎになった。功績をたたえる前に、彼の犯した誤ちについても、自治会は正しい評価をする必要があった。彼のために幾十幾百の患者が監房に入った。私の知っているだけでも監房内で3人が首を括った。この林の胸像については、個人の寄付に委ねることで、結果的には胸像は建ったが、私はその時、自治会がしなければならないことは林を顕彰することではなく、共同の費用でらい文献の資料館を造ることであると思った。今のうちに資料を収集しておかなければ、超国家主義者の文献だけが残り、収容所の歴史は闇に葬られてしまう。
 その時から6年後、私がらい文庫を初めて作った時から30年後に、私は再建自治会の総務部長となり、創立60年の自治会の記念事業として、らい図書館を建てることにしたのだった。資料収集には遅すぎた感があったが、まだ、生き証人は大勢いた。今の内なら聴き取りもできる。この時私は、自治会に勤めている内に全生園史を編纂し出版することを秘かに決めた。全生園史は収容所の超国家主義者(所長)を世に告発することになると思った。
 自治会の記念事業に共鳴し、協力してくれる者が一人現れた。祥風寮時代の子どもで、下山道雄であった。道雄は中央委員の一人であるとともに、図書館に勤めていた。道雄はらい文献収集を自己の使命としていた。道雄はまた、外出の時の付添人となって私を助けてくれた。全患協は、その年の運動を決める支部長会議を毎年5月に開催した。会場は各支部の持ち回りになっていた。私は18年間の私の自治会活動の中で、13支部のそれぞれに何度も出かけた。支部長会議のほかに、臨時支部長会議やらい予防法の研究会など、出かける機会が多かったのである。その度に付添いをしてくれたのは道雄であった。
 道雄は、会議の合間を見ては各園の図書館を訪ね、全生園にない文献で譲ってもらえるものはみな譲ってもらった。216〜219頁




「座談会 資料館オープンまで(1)(5)」

『多磨』第861、865号、1993年10月、1994年2月
 
出席者:平沢保治(自治会々長)、山田義信(全患協事務局長)、大和田喜一(藤楓協会業務部長)、佐川修(自治会副会長)、山下道輔(ハ病図書館主任)、大竹章(編集部)。司会:杜美太郎(編集部)

 大竹 全国各園を回ってみて、資料の面でやはり決定的に感じたことというのは、よそに比べてうちはよかったなあということです。山下さんと最初、ハンセン病図書館でもって、書籍の収集を始め、ちょっと気がつくのが遅すぎたということはあったんですけれど、それでもまだよそに比べればうちは、長島あたりの恩賜記念館を真似したような面もあったんですけれど、かつて使った品物を集めはじめ、かなり図書館に集めていたから、今度、あれがだいぶ内容を充実させるのに役立ったという感じをもちました。さっき佐川さんの話で、沖縄の林さんたちが引っ越しのたびに古いものを捨ててきたという話が出ましたけれども、放っておけばうちでもやはりそういう形になったと思うんです。しかし、うちの場合、なるべくそうならないようにということで、文化祭や全生園祭りなどで、面倒ではあったんですけれど、その都度山下さんにはっぱをかけて展示室からいろいろなものを持っていって、みんなに見せ、こういうふうに大事に保存しているんだ、だから、かつて使ったものを簡単に捨てないように、何でも古いものをとっておけば、いつかまた価値が見出されることもある、ということで集めてきたんですけれどね。そういう面で、うちはよそに比べれば早く気がついてよかった、というふうに思うんです。〔中略〕

 杜 多磨の資料の収集の話が出ましたけれども、多磨全生園の場合はかなり早くから長いあいだ山下さんが非常に苦労して収集してきたわけです。山下さんにすると、収集されたものにはたいへんに愛着があるはずです。多磨全生園独自に資料展示室というものが造られ、展示して、外部の人たちに見てもらった。これが全く違う場所に移されてしまうと、趣旨は同じにしても、自分が大事に集めてきたものを移されてしまう。最初、話が起きたときは、複雑な気持ちがあったんじゃなかろうかと思うんだけれども、そのへん山下さんどうだったですか。

 山下 私が集めたものがどう生かされるのか、とても心配でした。特に文献資料などは不安がいっぱい残りました。展示物の方は発展的にそれがもっと膨らんでいくような形になるので、また非常に、なんていうかな、そういう段階に移っていくのは、自分の集めたものが部分的に展示されるのではなく、やはり全国的規模に膨らんだということで、よかったかなとは思いました。それから自分が集めたといっても、やはり非常に熱心に協力してくれて、提供してくれた方々がいたわけで、そういう人たちにこの際感謝を込めて、こういうふうに展示したから、是非見に来てほしいというようなことを伝えているわけです。だから、コーナーコーナーに展示され紹介されているということで、自分としては、物が、語り訴えるよりよい展示場所を得たという形で喜びになっているということで、むしろ、文献資料のほうに離れがたい思い入れがあるので、その面から敢えていうなら愛着があると思います。

 杜 資料の収集を始めるのが遅かったというような話がさきほどから出たわけだけれど、山下さん、うちの場合はいつごろから始めたんでしょうか。

 山下 あれはね、杜さんが自治会でうちの新しい図書館作りをやってくれたでしょう。そこでああいう建物が出来たのだから、ただ本だけではなくて、資料もね、生活物品やなんかでも取っておいたほうがいいんじゃないかなという、はじめはそんな簡単な重いから集めてきたんです。それでだんだん増えたので、自治会に特別に小屋を設定してほしいとお願いして、それができて、本当に収納庫の役目を果たすだけのもので、それがまたいっぱになった時点で、あそこへ資料展示室を作ってほしいということを、ずっと前から、松本さんの代からお願いしてあったのが、5年くらいかかってやっと出来た。その出来た時点で、今度は高松宮の話が出てきたということなんです。

 平沢 ハンセン病の図書館の歴史というのは、古くは創立六十周年の事業でハンセン病文庫の名称で取り組んだんですね。そのあと、いま山下さんが言ったように、八十周年の記念事業として資料展示室を自治会のほうで作ったという経過です。山下さんが言われたように、山下さんから僕にも、書籍や本は収集しているけれども、全生園が先細りで、我々が管理できなくなったときはどうしたらいいんだろうと、東村山の図書館とか郷土館とか、そういうところで管理してもらえるようにしてもらえればいいんだけれどなあ、ということをときどき言われていました。

 山下 それは全く反対で、平沢さんがそういう意見を出したわけでしょう。そういうことであれば、市の図書館で特別に地域の患者さんたちの本を維持して、そういうコーナーを設けるということは非常に難しい思いがしたわけで、だからその段階でちょっと失望感を味わったんだよね。それ以後、それではどうするかということで、やがては自分たちの管理能力が失われていく段階で、やはり協力者として、他の身体障害者なども加えた書籍を集めて、そういう形で残していけば、会員制度のようなものを作ってね、やる以外にないのではないかと思って、そういう相談にも平沢さんに直接陳情に行ったんですよ。

 平沢 そうだったか。ちょっと頓珍漢しちゃったけれど。あの話を聞いて、お宅からあとどうするのかということはときどき問われていた問題だからね。

 大竹 ハンセン病関係の図書を集めようという動きは今の自治会の再建(昭和44年)とほとんど同時に始められた。いま床屋になっている旧図書館の閲覧室でだいぶああいうふうなものを集め、あそこでは収まりきらなくなってきて、それで新しい図書館を作ってもらった、そういう経過があったわけですよ。特に、ハンセン病関係の書籍、資料集めに取りかかったというのは、今までは今日明日の医療や生活を充実させるための運動に夢中になってきたけれども、ここらで自分たちがどういう生き方をしてきたか、その記録を残しておくことも大切じゃないか、自治会の中でそういう議論が生まれ、その考えからハンセン病の資料を集める、それ以来ほとんど全部山下さんが担当してあれだけのものを集めてくれたわけですよね。

 杜 ハンセン病関係の図書は昭和44年ころからで、物品については、あの図書館が出来てからということになると、51年に出来たから、52年ころから物品の収集が始まり、そして53年に収納庫が出来た。とにかくいろいろな経過があったわけだね。

 佐川 物品のほうで言えば、長島がだいぶ前から恩賜記念館で資料集めをやっていたので、うちよりも先輩なわけです。書籍だけの図書館については長島も神谷文庫があるけれど、うちのほうが全般的なハンセン病の資料は集めているのではないかと思います。ただ全国的には長島とうちくらいなもので、他ではこういうふうに系統的にハンセン病の資料を集めているところはないわけで、その意味で、今度資料館を建てることについても、出来てもほとんど他の園では資料は入手できないのではないかという心配があった。うちの資料が七割占めるのではないかという心配もあった。けれど、実際出来て集まってみると、うちにはずいぶんあったような気がしていたけれど、それが霞んでしまったような感じです。ということは、今まで想像もつかなかったような、他のほうで大きい資料がどかっと入ってきたんですね。たとえば、860キロもある青盛の治療薬TRの蒸留釜だとか、大島の監禁所の扉だとか、栗生の温泉木管だとか、東北の軍手編み機だとかね。うちでも包帯巻き機のように大きいものもあるし、消防ポンプや神社の雛型など大きい品物が後からドカドカ来て、他の園でも資料は結構入ってきたので、やはり全国的に物品は集まっているような感じですね。
 〔中略〕

 杜 それから、山下さんね、これまでハンセン病図書館のほうで収集した資料の行く末というのが、山下さんにすれば気になるところではないかなと思うんですけど。

 山下 あそこに落ち着いたということで、一段落して、よかったなという思いはあるけれど、収められたあの状態を維持管理するに止まるのではなく、はやり書物を生き物として扱うこと、傷つけたり破損したりしたら修復の手当てをして、多くの利用者に読み継がれる寿命の長い書籍作りを心がけることと、絶えず資料収集をしていることを基本に、図書資料室を育てていくことが大事だと思うし、ハンセン病の資料に通じていて価値を知る人に携わってもらって、国内のハンセン病資料だけでなく、海外の資料も集めておこうという意欲をもった後継者が出てくるといいなと思うし、そういう受け継ぎが出来る人材を求めていかなければならないと思うんだよね。

 杜 世界的なものにしなければならないと。

 山下 それと形のうえで、各園からの資料受け入れルートが整ったということを前提にして、各園別に資料を収蔵する書架方式にしたので、これからの形成過程にある言わば発展途上の図書資料室なので、各園の積極的な資料提供によって、まだ余裕もあり増やせる書架を満たして質量共に充実させたいものと願っています。文献資料の充実が評判を呼んで利用価値が高まれば、資料館の占める社会的評価が定着していくのではないかと思うので、第一に資料を整えていくことを優先させて、これまでどうり利用者にも協力をあおいでゆくという実績のある方向をとっていきたいと思う。その場合やはり、係の人がそういう意欲をもって対応していかないといけないんじゃないかと思っています。

 平沢 外国関係ではね、多摩研の平田先生が来てたでしょう、平田先生は東南アジアのハンセン関係に相当明るい人だし、もう一人は、大谷先生に頼んでみようと思っているんだけど、湯浅先生とか、そういう人たちに委員じゃなくても参与とか何かで参加してもらうと、外国の史料なども少しずつ積み上がっていくんじゃないかなと思います。そういう構想があるんだったら、運営委員会に山下さんの方からこうしたいんだという意見を出してもらって、藤楓協会の方でお願いしてもらったらいいと思うけど。
 〔中略〕

 杜 資料収集はとりもなおさず、日本の恥部をさらすことでした。その恥部をさらすことが、これからの日本の福祉や医療の問題、教育の問題等で、その在り方を問い直す機会となれば、資料館の存在意義は大きいし、更に、資料館はハンセン病の過去の過酷な歴史を語るだけでなく、これまでやってきてハンセンの医療、多摩研の役割を含めて、世界に向けて世界的な存在感というものを確かなものにしていくべきであり、資料館はそうあってほしいと、そういうことを願って今日の座談会をこれで終わりにしたいと思います。


小杉敬吉「追懐の記(1)原田嘉悦さんのこと」
『多磨』第891号、1996年4月
 

〔前略〕
 入院した原田さんの最初の作業は図書係で、楽な仕事ではあったが一日の手当は一銭五厘であったと記している。もうひとりの図書係は先輩の栗下信策さんで、多磨全生園の患者が綴る七十年史『倶会一処』のなかでただひとり、患者として名前を挙げられている活動家であった。現在も全生園の機関誌である「多磨」の前身である「山桜」の創刊者として栗下さんは有名である。栗下さんが「山桜」を創刊したのは原田さんの入院した年であるから、原田さんも当然これに協力したといわれる。「山桜」はガリ版刷りの小冊子であったが、応募数や出版数も少なかったけれど、当時の切ない患者生活の中ではその費用もたいへんといわれ、栗下さんなどが特別に好意を持っている職員の方に協力を願って出版を続けたのだが、これはやがて園当局が助成をするようになり、昭和初期の初めに活版印刷となる。原田さんの随想・短文芸などが「山桜」誌上に掲載されるのは再入院後の大正11年(1922)のころからで、資料館の山下さんの調べによると原田さんの作品は、「山桜」「多磨」を通して百六十点に上るといわれている。〔後略〕



久保田 一「ハンセン病図書館の人
『母の友』(福音館書店、1997年3月


 東京は西武池袋線の清瀬駅から久米川行きのバスに乗って暫く行くと、武蔵野の面影をいまだに残す地域となり、およそ十五分くらいで国立療養所多磨全生園に着く。この全生園は明治四十二年(一九〇九年)に〈旧・らい予防法〉に基づき開設されている。このときは候補地となった地元民の強固な反対があり、いくつかの地を点々としたあげくに現在の地に決まったという。
 その三万坪の敷地の一角にハンセン病図書館≠ニいう小さな建物が存在する。そこはその名の通り、ハンセン病に関する文献を集めているところであるが、そこを管理している人は山下道輔さんという方で、ハンセン病のことを調べに行った者は皆この方のお世話になっている。
 山下さんは昭和四年(一九二九年)東京の板橋区に生まれ、ご自身の記憶によれば十歳のころに発病し、十二歳で全生園に入園したという。以来、五十六年間を全生園で過ごし、今年で六十八歳となる。ハンセン病図書館には設立のときから関わり、今もそれを続けている。
 ハンセン病図書館は、ハンセン氏病文庫≠フ名で昭和四十四年(一九六九年)に産声をあげた。その年は全生園の自治会が、二年八カ月ぶりに再建された年で、全生園創立六十周年にもあたっていた。
 自治会は再出発の記念事業の一環として、謂れなき差別に苦しみ、人間として極限の世界に生きたハンセン病者が、命を削って書き遺したものを後世に残すことを目的として文庫を設立。提案者は当時の総務部長で、後にハンセン病者の人権闘争にも深く関わった松本馨さんだ。
 当時自治会の文化担当だった山下道輔さんは東京都庁を訪れ、設立資金を「どんなに僅かな金額でもいいから、設立の基礎になるのだから」と熱心に頼み込み、今は男性理髪所となっている三十六畳敷きの集会所に、スチール製の書架三台で出発した。
 その後は、今から六年ほど前にSさんが来るまで、ほとんど山下さんが一人で作業をし、図書館を守り発展させてきた。文庫設立から七年後には、現在の建物が新築され、名称もハンセン病図書館と変わり、今に至っている。
 私は『いのちの初夜』の作者である北條民雄のことを聞きに、北條と共に文学サークルをやっていた光岡良二さん(一昨年四月に八十三歳で亡くなられた)を全生園に訪ねた折、光岡さんに紹介されて山下さんに出会った。そのときが初めてだったから、およそ十二年ぐらいのつきあいとなるが、お会いしたのはそのときと昨年の夏の二度でしかない。
 初めてお目にかかったときにも、山下さんの資料収集の情熱は、私の持っている北條関係の資料にも向き、図書館にないものがあればコピーしてくれませんか、とおっしゃり、もちろん私の持っていないものはその場で快くコピーしてくれて、私が長年探していた大竹章の著書『らいからの解放』もそのときに戴いた。
 二度目のときは忙しいにもかかわらず「暑いときはどこへも出かけませんから」とさり気ない気配りで迎えてくれて、三年前に新たに建てられたハンセン病資料館に案内して、展示されているものひとつひとつを丁寧に解説までしてくださった。
 こうした山下さんのやさしく真摯な姿勢は何も私にだけ特別に、ではなく、ハンセン病のことを調べに来る人には皆同じようにしているようで、そのときも図書館で山下さんと話していると、日大写真学科の女子大生が卒論にハンセン病をとりあげるので、と訪れたが、その人に対しても私のときと同様だった。そして私たち二人はビール付きの昼食までご馳走になった。
 山下さんが一生懸命に集めた約四千冊の本のほとんどは図書館から資料館に移したとのことだが、山下さんの本集めは今もない続いている。
[p.14-15]



瓜谷修治『ヒイラギの檻』
三五館、1998年7月


〔ハンセン病図書館について最も詳しく紹介している文献。ハンセン病図書館主任の山下道輔氏を主人公にして書かれ、全ページの約三分の一以上で図書館に言及しており、ここに抜き書きするのは不可能である。ここでは2箇所からのみ引用する。〕

 松本〔馨〕は1937(昭和12)年から寮父になるまでは前の図書館に居た。いつかは、われわれが「らい」の歴史を告発しなければ、と、そのころから考えており、そのため「らい」の文献だけの書棚を作り、貸し出しはせずに、カギをかけて保管していた。
 前の図書館では、松本が全生園に入った翌年、1936(昭和11)年に大正博覧会の建物を譲り受け、現在のところに移築したものだ。いまのパーマ店、神社通りに面したところが閲覧室だった。その反対側、西のほうの男性の理髪室のところが会議室、患者の集会所だった。使用するには許可が要った。
 そこの一部が図書室で、松本は、そこに書庫を造り、「らい」の文献を集めるように言い残して子供舎の寮父になった。1945(昭和20)年、結婚して寮父を辞め図書館に戻ってみると、「らい」の文献を集めた書庫は無残な状態になっていた。一般に貸し出し、北条民雄のものを集めた「北条文庫」も消え、本らしい本は残っていなかった。
 山下〔道輔〕が「一生をかける」と言った資料室、「ハンセン氏病文庫」が、現在の「ハンセン病図書館」のはじまりだが、当時の図書館は、大衆雑誌、大衆小説、一世を風靡した立川文庫や講談本、仏教説話集などが主流の娯楽施設のひとつだった。患者の作品としては短歌、俳句集など、短詩型のものが多かった。
 それ以前、そもそもの図書館のはじまりは『倶会一処』の年表によると〈1921(大正10)年8月、娯楽場内の一部に図書室(十坪)出来る〉。これが、なかなかの人気で、独立した図書館が必要だ、ということで1936(昭和11)年に旧図書館が実現した。
                                                                                       〔190頁〕

「心得の継承」山下道輔
【自分たち患者の「意思」を資料を通して伝えたい】
 療養所には、図書館がそれぞれの園に設けられておりますが、各園の図書館設置の経過、誕生年代の違いがあっても、おそらく在園者の自力で実現した図書館であろうと思うのです。各園の図書館の誕生物語を読むことができれば、患者の生活の内面史がうかがえるものとなるでしょう。全生の図書館は「多磨」誌の前身「山櫻」の発刊に伴い、その発行製作所の必要場所に集められた辞典や参考書、それを利用しに集まる投稿者たちで自然に図書倶楽部の形を成して生まれた模様です。
 …………
 いまは、当館所蔵の各園機関誌の通巻号数表作り、「多磨」誌の執筆者別索引作りに専念しております。患者が自由に本当のことが言えるようになった年代の各園誌だけでも揃えておきたいものと思っております。
 書くことも話すことも大の苦手な自分にとって、そうした面での活動は全く駄目なので、自分にできることは、らいの裏も表も読み取って理解してもらうための資料を収集整理しておくこと。自分から創られる何ものももたないので、せめて療友のものをしかっりととのえ、後世の人々に役立つものにしておきたいと思います。そうした努力をはらうことが、らい予防法にたいする私の抵抗であって、敢えて言えば「らい予防法闘争」と言えなくもありません。しかし、それは自分の心得の「継承」であって評価は別のものです。
【ハンセン病にかかわる記載の印刷物は、一字一句、癩の一文字であっても、細大漏らさず集めておきたいと念じています】
 …………
 今度の増設(全生園ハンセン病図書館の)には、資料展示館も建つので、ゆくゆくは日本のハンセン病歴史資料館をめざした規模内容のものにしたいと思って、現在、栗生楽泉園で戦前戦中に炭焼小屋の山中から園まで患者作業として木炭を背負って運んだ、その運搬用具や給食に使ったもの等、患者の辛苦の歴史を黙々と告げるそうした生活用品用具(各園での園内通用券や古い写真も含みます)を集めたいと計画しています。……
 ……夏も体の局所からしか発汗しないので、アセモが出やすく暑さは大の苦手です。リューマチを気遣いながらクーラーでむし暑さに対処しながらの図書館作りです。……
 手が不如意で不自由ですが、眼の質も良い方でないので、ワープロも眼の調子がおかしくないとき、鏡で自分の眼を確かめてから打つ訳です。少しでも充血ぎみだったり、まばたきしておかしいときは本も読みません。
 …………
【「人権問題――患者は、人権を徹底して無視した非人扱いの収容所に生きてきた】
 ハンセン病にかかわる資料は、今のうちにその保存の基盤作りをしなければならないので、全支部(注、全患協の各園支部)で取り組むことは必要ですし、一か所に集合させる入れ物としての資料館を設けておくことも現時点で望ましいことなのですが、その館が純粋な資料館たり得るものとなるかどうか、そこが問題です。(藤楓協会の計画している故高松宮を記念するハンセン病資料館は、はなはだうさんくさい、自分からはかんばしくないポイントとして皇族があるもので、日本のらい者の遺産として純然と終始一貫した資料館を目指したものでない、どうしても割切れないものがよどみとして心にわだかまります)……
                                                                                 〔206〜208頁〕
 


「ハンセン病図書館運営規定」
1999年6月18日改訂
 
(前文)
第1条 ハンセン病図書館は、多磨全生園創立60周年記念事業として、東京都の助成によって、旧図書館内に「ハンセン氏病文庫」を建設した。その後、同「文庫」を発展的に解組し、創立70周年を機に財団法人船舶振興会からの基金助成を受け、在りし日の北条民雄ゆかりの寮舎跡に改めて建設された。当館はハンセン病関係の文庫等を集め、極限に生きた入所者の軌跡を後世に遺すことを目的とし、広く研究の用に供するものである。
(運営)
第2条 ハンセン病図書館は、その基本的な役割として、資料の収集・管理・保存を主要な業務とする。その使命を果たすため調査・研究を深め、資料の適切な保存、修理、製本に努め、最良の条件を整えるものとする。
 2 ハンセン病図書館の管理者は、執行委員会が指名し、総務委員が総括責任に当たる。
   @ 図書館管理係は3名とする。
   A オブザーバーを若干名置き、資料の充実及び運営について助言を受ける。
(収蔵資料と貸し出し)
第3条 資料は、館外持ち出し禁止資料(禁帯出のラベル付き図書、写真、録音テープ、録画テープ、書画及び保存物品)と、貸し出し図書とに分類して取り扱う。
 2 館外持ち出し禁止資料は、館内閲覧に留め、原則として貸し出しは認めない。
   @ 写しが必要な場合は、係員に申し出て、館内でコピーすることができる。
   A コピー料金は、1枚につき10円とする。
 3 図書の貸し出しは、次のようにする。
   @ 所定の「借用証書」に必要事項を記入の上、身分を証明する書類(身体障害者手帳、運転免許証、健康保険証、住民票等)を提示して、認可を受けることを要する。
   A 図書の貸し出しは、3部を限度とする。
   B 「借用証書」用紙は、図書館の受付に備える。
附則
 この規約は、1983年9月1日から施行する。
 この規約は、1999年6月18日から改正する。
 




山下道輔「ズームアップ ハンセン病図書館」

『多磨』第958号、2001年11月
 
 ハンセン病図書館は、『いのちの初夜』の作者・北条民雄の住居(秩父舎)跡に昭和52年春に開設しました。
 その後25年が経過し、外壁のひび割れや塗装の剥げ落ちなど老朽化がはじまっていました。
 昨年の秋、当館の出入り口と、その隣室の「多磨」誌をはじめ各園誌等の製本前の資料整理場所が雨漏りしてしまいました。すぐに園の方に修繕方をお願いしていましたが、時間の経過につれて、雨水を吸収した天井板が今にも落ちんばかりに垂れ下がり、床も反り返って剥がれ出してしまいました。そのうちに通路も危ない状態になってしまったため、来館者にも裏口をまわって出入りしてもらっていました。
 先に自治会から藤楓協会を通して、日本財団に修繕費の助成を求めていましたが、財団の2000年度事業予算から100万円の助成金を受けることが急遽決まり、残り不足金を自治会が負担して、雨漏り直しをはじめ床板、外装の工事が短期間で進められ完成しました。
 これで再び千客万来、いつなりとも来館者の方々に正面入口から館内に入ってもらえることとなり、図書館本来の活動、図書・文献資料の提供をはじめ、資料の収集・整理・製本の仕事、ボランティアによるハンセン病資料を生かすネットワーク#ュ信・発行の編集、また様々な目的、要望を持った利用者との情報交換や啓発交流の場として、資料の残しの拠点として開館を続けています。
 開館時間 午前8:30〜12:00  休刊日 水・土・日




江連恭弘「多磨全生園におけるハンセン病関連史料の現状」

『東村山市史研究』第12号、2003年3月
1 はじめに
 市史編集調査会・近代部会では、2001年(平成13)3月から翌年の9月にかけて、国立療養所多磨全生園(以下、全生園)内にある自治会図書館(以下、図書館)と高松宮記念ハンセン病資料館(以下、資料館)に所蔵されている図書資料の調査・目録作成作業を行った。作業の結果、膨大かつ多様なハンセン病関連史料がのこされていることがわかった。この調査を行うことについて、東村山市および市史編さん係の側には、全生園という施設を抱える自治体として全生園の歴史と今後のあり方に無関心であってはならないという問題意識があった。ハンセン病の歴史を記録したものを保存し、これからの社会のために活かしていくことは、社会的な責任の問題であるからだ。〔中略〕
 なお、図書館で行った調査・作業については、新聞報道がなされたほか、市報の「市史編さんだより(62)」(平成11年)にも簡単に報告させていただいた。大まかな作業の様子と史料の特徴を記しておいたので、再掲しておきたい。

多磨全生園の史料保存に取り組む
 〔中略〕
 市史編さん係では、昨年夏から近代部会を中心に園内の史料調査・保存の取り組みを始めました。先日、自治会図書館所蔵の主要な史料の目録化を終えたところです。長年ハンセン病史料の帆zんと活用に邁進されている図書館主任の山下道輔さんや歴史学専攻の大学生らの協力を得て、ダンボール箱や本棚に詰められた史料を一点ずつパソコンに打ち込んでいきました。図書・雑誌・綴類など、ダンボール箱で100箱以上、本棚に整理したものも含めるとおよそ2万点にものぼる膨大なものとなりました。
 特に目を引いたのは、「患者入退院ニ関スル書類」「私宅療養癩患者調」「癩患者徴兵検査関係書類」「厚生省往復文書綴」など、設立年以降の患者に対する強制収容隔離政策の実態を裏付ける貴重な綴史料の数々でした。こうした綴類以外にも、入園者が著し収集した俳句・短歌関係の図書、1950年代以降全国的に展開する患者運動関係の書類、様々な宗教関係の冊子、園内分校の文集、自治会日誌など、入園者の生活史にせまる史料群が残されています。とくに入園者であった故光岡良二さん所蔵書籍の存在は、ひとりの入園者からみたハンセン病史、さらには患者思想史への問いかけであるように感じました。〔後略〕

2 史料の収集と保存の現状
(1)多磨全生園の歴史と史料収集
 〔中略〕
 療養所における史料収集・保存の取り組みが組織的に行われるようになったのは患者運動との関連が大きい。「らい予防法」闘争以来、生活保障と権利獲得、社会復帰を通して「人間回復」を実現するための運動を進めてきた患者運動の一定の成果をまとめる作業が1970年代に進んだ。患者運動の歴史と成果は、全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史―ハンセン氏病患者のたたかいの記録』(一光社、1977)にまとめられた。2年後には、多磨全生園の患者自治会が創立70周年の記念事業として『倶会一処―患者が綴る全生園の七十年』(一光社、1979)を編纂している。その際に、園内にのこされたさまざまな史料が収集され、運動史・自治会史として収録されるなかで、その希少性と重要性が確認されてきたのである。なお、国家賠償訴訟を経て、あらたに全国ハンセン病療養所入所者協議会編『復権への日月―ハンセン病患者の闘いの記録』(光陽出版社、2002)がまとめられた。
 なお、全体的にみると国立療養所多磨全生園としての公的な史料は分量としては少数しか確認されていない。おそらく相当数処分されたものと思われる。史料の大半は、文芸作品や手記、患者運動関係資料など、入園者の生活や様々な活動に関わる史料である。今日、国家賠償訴訟というかたちで国の政策が世に問われ、国・国会の責任が明らかにされてきているなかで、こうしたさまざまな史料群が語ることは、重く深い意味をもつと思われる。

(2)図書館と資料館における史料保存の状況
 全国の療養所には、それぞれ入園者向けの図書館が設置されており、全生園の図書館もそのその一つである。図書館の内部は、@入園者が講読してきた図書資料が収められた図書室、A各療養所の機関誌や患者作品など、ハンセン病関連の史料が収められた資料室、B展示資料やダンボール箱が積みあげられ倉庫的な役割をはたしている展示室に分かれていた。
 展示室は、資料館建設前までハンセン病関係の図書や生活用品・工芸品などを展示していた場所である。戦前以来、園で購入された図書・雑誌などを入園者が閲覧する場所として機能していた図書館であるが、現在は、ハンセン病関連図書の収集や製本・保存作業、資料貸し出しなどを行っている。
 〔中略〕
 今回の作業の結果、図書館には約17000点、資料館には約6000点の史料が遺されていることがわかった。同じ史料が両館で重複している場合もあり、その点を考慮しなければならないが、おおよそ2万点以上の史料が遺されていると言って良いだろう。その中には、病院設置から1950年代にかけての史料を中心にして、保存状態が心配されるものも多く、早急な保存・目録化が望まれる。
 以下、図書館と資料館に遺されているものの中から、全生園関連の史料を中心に、特徴的な史料について紹介していきたい。

3 遺された史料とその特徴
(1)収容・退院・徴兵等に関わる史料 〔略〕
(2)統計・療養所運営・医療に関する史料 〔略〕
(3)患者運動に関する史料 〔略〕
(4)患者の生活記録に関する史料 〔略〕
(5)教育・宗教に関する史料 〔略〕
(6)地域・社会とのつながりに関する史料 〔略〕

4 光岡良二、人と史料
(1)光岡良二の略歴 〔略〕
(2)光岡良二の所蔵資料 〔略〕

5 おわりに――ハンセン病史料のゆくえ
 近年の動向として注目したいのは、復刻版史料集刊行などの動きである。藤野豊編・解説『近現代日本ハンセン病問題資料集成〈戦前編〉』(全8巻、不二出版 2002)、滝尾英二編・解説『植民地化挑戦におけるハンセン病資料集成』(全6巻、不二出版 2002)、清水寛「解説・植民地台湾におけるハンセン病政策とその実態」(『植民地社会事業関係史料集・台湾編』近現代資料刊行会 2001)、『ハンセン病文学全集』(第一期、全10巻、皓星社2002〜)などである。資料集刊行の作業は、史料の収集・保存からその活用へとつながるものであり、ハンセン病問題を後世に継承し教訓化することにもなるだろう。こうした仕事がなされるのも、ここ十数年間にわたる医学・歴史学・社会学・教育学などの分野を中心としたハンセン病問題の調査・研究の進展があったからだろう。同時にこれは、ハンセン病関連の史料収集やその保存の取り組みが、永年にわたって地道にかつ着実に行われていたからでもある。それは、実際には「外」の人間がハンセン病療養所に入っていったこと、そして入園者の人たちが積極的に「外」へ出て行ったこと、そういう時代状況と無関係ではないだろう。いずれにしろ、療養所の内と外の関係改善は、差別と偏見の問題を克服していくためにも必要なことであり、それがあってはじめて研究も進展するのだろう。
 また、図書館や資料館ではハンセン病関係の史料に限らず、史料収集にあたっては、社会的に弱い立場にあるひとびとの存在に目を向けようとしている。図書館では、薬害エイズや障害者差別問題など、幅広い視点で病者・障害者をめぐる問題に注目している。こうした動きは、これからの史料保存・活用を進展させる可能性を包含しているといえよう。さらに自治会では、全生園の森を「人権の森」として地域の中に残し、園内の建築物を保存する動きも進んでいる。
 史料を収集・保存し活用するという作業は、これまでとられて来たハンセン病政策の過ちを見つめ、それをくり返さず、一人ひとりにとってのハンセン病問題として引き受けるという道筋を作り上げる意味をもつ。そのためにも、いま考えねばならないいくつかの課題がある。
 まず、史料保存に関する他の療養所との情報交換と連携の確立である。長島愛生園(岡山)での機関誌『愛生』の史料目録の作成や「神谷文庫」の創設、栗生楽泉園(群馬)での資料室設置などの動きもがあるが、ほとんどの療養所ではそうした取り組みも充分なされないまま史料が散逸しているというのが実情ではないだろうか。第三者もふくめて史料の価値や史料保存への認識の共有化を早急にはかる必要がある。
 次に、政府や療養所、研究期間での史料の掘り起こしである。なかでも医療・看護師・職員らがのこした史料やききとり作業も解題だろう。さらに、療養所が置かれている自治体での史料編さんの動向を把握するなど、情報交換や相互の連携が必要だろう。それによって、地域の中の療養所の視点からハンセン病(者)に対する認識を深められるのではないか。
 市史編さん係(ふるさと歴史館)としても、今後の課題として、打ち込まれたデータをデータベース化し、活用できるシステムをつくり上げる必要がある。また、劣化している文書史料の保存と管理の手段・方法を検討しなくてはならない。歴史と経験を語り継いでいくとともに、人権を考える拠点としての全生園という存在とそこにのこされた膨大な史料のもつ意味は重く大きい。それは、全生園だけの問題ではなく、東村山市としての問題でもあるのだという認識を共有する地点に立つことが、まず必要であろう。


(1)2000年8月15・16日に行った図書館およびハンセン病資料館での予備調査をふまえ、2001年3月6日〜4月22日および7月26日〜9月4日まで図書館で打ち込み作業、また、2002年8月十〜十九日まで資料館で打ち込み作業を行った。




山下道輔「焦らず怠らず資料残しに励む」

高波淳『生き抜いた! ハンセン病元患者の肖像と軌跡』草風館、2003年8月
 
 ハンセン病に関する資料の収集・整理に情熱を注いでいる。「入所者の生きた証である資料を社会に生かし、伝えたい。隔離の中で育まれた文化が何だったのかを歴史として残し、今後の社会に役立てたい」と語る。
 東京に生まれた。少年時代、父の仕事が休みのときは、夜釣りや鳥捕りの手伝いをして過ごした。その父と一緒に1941年、多磨全生園の前身の全生病院に入所した。12歳だった。
 少年舎で出会った入所者の寮父は、子どもたちに自作の小説を読み聞かせ、書くことの面白さや大切さを伝えた。俳句や短歌も手ほどきした。そんな寮父の影響を受けて成長した。
 18歳のとき、父が亡くなった。病棟で父を看取り、死に顔を絵に描いた。「おやじの思い出になる写真や形見もなかったからね」という。その後、頭の中が真っ白になり、葬儀の様子も覚えていない。座棺に納められた父がリヤカーに乗せられたのと、園内の火葬場から煙が立ち上るのを見た、それだけは覚えている。
 病棟の付き添い作業や実験用動物の飼育係をしながら療友と文学や芸術を談じ、夏目漱石や芥川龍之介などの著作に親しんだ。
 自治会で文化部を担当していたとき、園創立60周年の記念事業として、これまで入所者が書き記した作品などの文化遺産を残そうと「ハンセン氏病文庫」を設立することになった。資料に一生をかけるつもりで資料集めに取り組んだ。
 知人を頼り、入所者の短歌や俳句などの出版物や、自治会や園の機関誌を集めた。機関誌を手書きで書き写す苦労もいとわなかった。新聞記事の切り抜きや、療養生活用具などの「物」の収集もした。
 園内にある「ハンセン病図書館」の責任者として活動している。文献資料を製本する際、二部作り、一部は学生などに貸し出しができるようにした。資料を活かし切るための取り組みだった。
 いまは「焦らず怠らず」資料残しに励む心境。「資料は生き物だと思っています。ハンセン病だけでなく他の難病や障害者も含む、総合的な図書館ができたらいいと思っています」という。


 


瓜谷修治「多磨全生園のハンセン病図書館の廃止と
保管資料のハンセン病資料館移管について」 →下記アドレスへ
ハンセン病回復者とともに歩む関西連絡会「支援する会ニュース」第25号、2006年1月12日
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9874/news/25/library.html
 
 
資料館運営委員 佐川 修「資料収集の思い出」 リンクページへ
『藤楓協会創立五十周年記念誌』藤楓協会、2007年6月、161〜164頁



山下道輔「開講の挨拶」
ハンセン病図書館友の会・ハンセン病市民学会図書館資料部会編『「将来構想」の歴史に学ぶ
「第二回ハンセン病資料セミナー2007」報告』(皓星社、2007年12月)
 
 今日はお暑いなか皆さんお集まりいただきまして、ほんとうにありがとうございます。このセミナーは、ハンセン病市民学会図書資料部会とハンセン病図書館友の会の共催ですので、ハンセン病図書館について若干お話しさせていただきます。
 松本馨さん〔多磨全生園入所者自治会・元会長、故人〕がいなかったら、いまの図書館は存在しなかったと思いますし、また、それにつながって、いまのハンセン病資料館もいまのようなかたちでは実現しなかったのではないかと思います。
 かつて自治会がいろいろな事情で一時期閉鎖になったときに、不自由舎の方たちが日常生活で一番打撃があったものですから、松本馨さんが自治会再建のために起ちあがりました。それまでは自治会が何でもかんでも、施設のやることまで請け負っていたものですから、役員のやり手がいなくなってしまった。一例を挙げますと、患者による付添、患者が患者を看るという制度が当時あったのですが、そのために自治会の役員が付添をやってくれる人を探しまわらなければならなかった。プロミン登場後、軽症の人が退園したり労務外出したりして、それまでは付添に出なくてもよいような、いわば自分が面倒をみてもらうような人たちまでが付添に出されるようになった。そういう状況の中でさまざまな事情が重なって自治会が閉鎖に追い込まれた〔一九六六年九月〕。それで不自由舎の方が一番打撃を蒙ったために、不自由舎の中から松本さんが起ちあがって、自治会再建を呼びかけ実現しました〔一九六九年六月〕。その頃私は政党の委員をしていたし、松本さんには子どもの頃からお世話になっていましたので、私も自治会の再建に参加しました。
 その年は全生園創立六〇周年ということで、患者がこれまで書いてきた記録を、なくならないうちに整えておかなければならないということになり、ハンセン氏病文庫を全生図書館の一室に設置してもらいました。自治会は、再建したばかりで資金がなく、東京都の衛生課に資金調達のために二度ほどお願いに行って資金が提供されたので、それで本箱を二つ入れました。また、全生図書館の一室は会議場として使用されていて畳が入っていたので、その畳を替えたりしました。そうこうしているうちに、これは片手間ではやれないということで、私は自治会を退き、それ以来ずっと資料の収集・保存とともに、利用者に利用してもらう仕事を続けてまいりました。
 しだいに資料が集まり、場所が手狭になったので、いまの図書館西側部分の土地にプレハブを建てて保管していましたが、松本さんが藤楓協会にお願いし、日本船舶振興会の寄付を得て、宗教地区の南側、かつて北條民雄が住んだという秩父寮のあとに、鉄筋コンクリートの建物を建ててもらいました〔一九七六年九月着工、翌年一月開館〕。さらに資料が集まってくると、物品資料も同時に集めておいたほうがいいと思い、まず手始めに療養生活に欠かせない日用品などを集め、ある程度集まったところで、ふたたびプレハブの保存庫をつくってもらいました〔一九七九年七月〕。それがいま庭に立っているプレハブです。それから一〇年後に、全生園創立八〇周年記念事業として、事務室、図書閲覧室、資料展示室を増築してもらいました〔一九九〇年九月〕
 そこに資料を展示して二、三年経ったときに、高松宮記念資料館ができることになり〔一九九一年三月準備開始、一九九三年六月開館〕、図書も含めてめぼしいものは全部、図書館から資料館に提供しました。ところが、しだいに資料館がスマートになったのはよいのですが、私たちの思いがぬけたような資料館になってしまいました。残念だなと思います。私たちとしては、患者同士が支え合って生きてきた、先輩たちのさまざまな苦労などが展示を通して見て感じられるようにするとか、図書を貸し出して利用者が利用しやすいようにするとかしてほしい。資料を保存することも大切ですが、それを死蔵させてはいけないと思います。ハンセン病図書館では、展示物に短歌を添えて患者の思いが浮かび上がるような工夫をしたり、図書を貸し出せるように複数冊揃えたり、園誌や卒論などは保存用と貸し出し用に三部製本したりしています。また、資料館ではハンセン病を一般的に展示していますが、私は多磨独自のものを収集し、展示したいと思っています。
 そういったようなことで、もし松本さんがいなかったら、ハンセン病図書館もないし、資料も散逸して無くなっていたと思います。松本さんが亡くなる三日前にお会いしたとき、これまでやってきた図書館をしっかりやれよと言われ、これが私への松本さんの遺言になりました。
 今日ここにお出でになっている山城正安さんや国本衛さん、それから大竹章さんや金子保志さん〔いずれも入所者か退所者〕などには、物品や文献資料を提供していただきました。また、ハンセン病図書館のユニークな点として、利用者が即資料提供者になるということがあります。学生さんが資料を使って卒論を書くと、その卒論を提供してくださる。東大の山本俊一先生は、図書館で調べて、『多磨』誌に「日本らい史」を連載で書いてくださいました。藤野豊先生も利用者として来て、「いのちの近代史」を『多磨』に連載してくださいました。東大の荒井裕樹さんは、内務省時代に全国募集した散文の生原稿を整理してくださいましたし、今日総合司会をしていただいている坂田勝彦さん〔筑波大学大学院生〕には、全生園の盲人会の機関誌『道標』の目録をつくっていただきました。また、機関誌『山桜』『多磨』の総目次を東洋大学の柴田隆行先生がデータ化してくださいました。フリーカメラマンの黒崎彰さんは、昭和の初めからのハンセン病に関する新聞資料を写真に撮ってデータ化してくださって、いつでも利用できるかたちにしてくださいました。
 このように、利用者が資料収集の力になってくださるという歩みを続けています。今日ここに来てくださっている皆さまもそのようなかたちで図書館を利用していただけたらと願っております。
 最後に、ハンセン病図書館友の会の皆さんには日頃たいへんお世話になって感謝しています。私は手書きで蔵書目録をつくっていたのですが、いまは友の会の人たちがパソコンで目録をつくってくださったり、文書や書棚の整理をしてくださっています。
 ぜひ、皆さまもハンセン病図書館にお出でください。




増田泰重「『人権の森』清掃ボランティアに参加して」
『多磨』第1043号(2008年12月)

 〔前略〕
 本当の意味で全生園のなかに入ったのは平成一三年、市史編さんの近代部門の調査のときでした。
 園内の、寺院や教会の立ち並ぶ一角に「自治会図書館」があり、膨大な文献資料が入所者の方々の手でこつこつと整理されていました。私たちはその資料のデータを作成したのです。最終的には二万点ほどにもなりました。
 こんなことは誰も書かないと思いますので、そうした作業のなかで強く印象に残ったことを一つ書きます。
 図書館の奥の広い部屋は展示スペースにもなっていて、積み上げた文献資料とともに、さまざまな生活用具や、「のぼり旗」などの患者さんの長い闘いを示す資料もありました。そのなかに、小さな座り机がありました。これは何ですかという私の問いに、たしか山下さんだったと思いますが、それは患者さんのなかの職人さんが作ったもので、みんなが作ってもらう順番を待っていた、という話をされました。説明を聞かなければただの机です。この部屋に何気なく置かれている「もの」には、すべてそうした患者さんたちの多くの歴史と想いが詰まっていることを感じ、改めてもう一度室内を見回しました。
 話は清掃作業からは大分ずれてしまいましたが、うっそうと繁る樹々のなかを歩きながら、園内のひとつひとつのものが、全生園の長い歴史なんだと感じた次第です。



稲葉上道「ハンセン病資料館が持つ意義」
『博物館問題研究』第31号(2008年)

 〔前略〕
 このような状況の中で多磨全生園では、自治会への不信・関心の薄れや財政問題での内部対立などにより、1966年から69年まで、入所者自治会が組織できないという異常事態に見舞われた。再建された新自治会は、全生園創立60周年記念事業、来るべき全国の療養所の医療低下を視野に入れた園の医療センター化、遅れていた園内整備のために自主財源を確保するマスタープラン、園の敷地維持を目指した緑化運動、地域の障害者団体との連帯を目指す東村山身体障害者患者連絡協議会の結成などの取り組みを始めた。
 これらの取り組みの中に、「ハンセン氏病文庫」の創設があった。「ハンセン氏病文庫」は、開園以来数多く生み出されてきた患者たちの文芸作品や記録を集めて後世に残すというもので、自分たちが生きていた証を後世に伝えていく目的で自治会図書室の中に設置された。当時はあくまでも書籍の保存が主だった。
 1977年に自治会図書室が新しい建物に移転し「ハンセン氏病図書館」と名づけられると、「ハンセン氏病文庫」も新たな展開を見せることとなった。当初書籍類だけを対象としていたものが、書籍ばかりでなく入所者の生活用具などモノも収集し保存するようになっていった。つまりこの段階から、「ハンセン氏病図書館」は実物資料の収蔵庫という背質も合わせ持つことになったのである。集めたモノを園の文化祭で展示するなど、古いモノはゴミではなく貴重な資料なのだとの意識を入園者の間に高めるアピールが功を奏して、モノの数は増え続けていった。
 1990年、自治会では園創立80周年記念事業として「ハンセン氏病図書館」に資料展示室を増設した。この資料展示室には、来園する一般の人々に向けて自分たちの歴史を見せていくという意識がはっきりと表れていた。保存から公開へと目的が拡大し、資料展示室は入所者の生きた証を見せる手作りの博物館となっていった。
 一方、厚生省からハンセン病の正しい知識の普及や回復者に対する更正援護などの事業委託を受けていた財団法人藤楓協会は、1987年に亡くなった総裁高松宮の記念館をつくる計画をたてた。理事長大谷藤郎は、救らいの歴史≠ノおける皇室の「ご仁慈」を記念すると同時に、この先ますます散逸していくだろう全国の療養所の資料保存を図りたいと考えた。大谷はこの考えを、多磨全生園入所者自治会会長の平沢保治、平沢らとともに1969年自治会を再建し、「ハンセン氏病文庫」設置の発案者でもある松本馨、「ハンセン氏病図書館」の実務担当者山下道輔の3人に相談した。やがて多磨全生園ではこの記念館を、当時課題となっていた園の敷地維持と入所者の納骨堂保存のための楔として、納骨堂の脇に誘致することにした。園長の成田稔は、敷地の維持は入所者の生活や医療を保障することになり、納骨堂の保存は身よりのない入所者の死後への不安を取り除き、「決して繰り返してはならない人間の過ちを、後世に語りつぐ」ことになると述べ、入所者自治会は園内外への調整を行なった。
 この記念館建設の計画と、自治会の図書室である「ハンセン氏病図書館」の資料展示室設置とは、別々の取り組みとして同時期に進んでいた。高松宮の記念館建設はやがて高松宮記念ハンセン病資料館建設へと変わり、1990年7月、「ハンセン病資料調査会」が藤楓協会に発足した。一方「ハンセン氏病図書館」の資料展示室が完成したのは同年9月だった。目的も異なっていた。高松宮記念ハンセン病資料館の計画当初、藤楓協会が主な役割の1つとして考えていたのは資料の散逸防止と保存だったが、自分たちが生きてきた証を残すために資料を保存し、さらにそれを社会に対して見せていくという意識を持っていた。
 その両者が重なってくるのは多磨全生園自治会が、藤楓協会のハンセン病資料館建設資金難に直面して、自主的に募金を集め、その後藤楓協会の協力要請に基づいて「ハンセン病資料館建設促進対策委員会」を設置したからだ。これ以降、最終的に建設資金の大半を財界から集め、運営費も厚生省から引き出す手はずをつけるなど財政面を大谷が固め、資料館の中身をつくる実務は同委員会が担っていくこととなった。
 「ハンセン氏病図書館」の担当者山下道輔は、図書室と同資料展示室ですでに収集していた多くの書籍類や実物資料を提供し、独自に確立したノウハウを資料館の図書室整備に活用した。患者の全国組織である全患協結成以来の歴史を綴った『全患協運動史』と、多磨全生園入所者自治会の歴史をまとめた『倶会一処』の編纂を手がけた大竹章と佐川修は、全国の療養所を回って資料収集にあたった。2人はモノが帯びている意味を見て取る目をもっており、この資料収集によって資料館の収蔵資料が多磨全生園1園から全国16園へと広がった。それは全国の療養所共有の施設としての資料館という趣旨を実現するものだった。さらに大竹は、展示プランの制作とディスプレイの監修を行った。大竹は「ハンセン氏病図書館」の資料展示室に関わるとともに、『全患協運動史』『倶会一処』編纂より前に、患者としてハンセン病の歴史を綴った『らいからの解放』(後に増補し『無菌地帯』と改題)を執筆していた。展示は、大竹の当事者としてのハンセン病史観と経験があったからこそ成立し得たと言っても過言ではない。ハンセン病回復者の歴史は、その頃まだ世に広く知られてはいなかった。そのような社会に向けて自分たちの存在証明を訴えかける展示の誕生は、来館者や一部新聞記者に衝撃をもって受けとめられることとなった。
 その結果、藤楓協会の40周年記念事業だったにもかかわらず、実質的には、「ハンセン氏病図書館」の理念を継承し、さらに発展させたものとして、高松宮記念ハンセン病資料館が設立された。「自分たちが生き抜いて来た証を残すこと」と「社会に同じ過ちがくり返されないようにすること」の2つが主な目的だった。そこに先に述べた、多磨全生園入所者の生活と医療の保障や、皇室の「ご仁慈」の記念などの目的が重なって、高松宮記念ハンセン病資料館の性格を形作っていったのである。〔後略〕 p.9-10