■ 最近・・・
長らく足を運んでいなかったカフェへその日はぶらりと顔を出す気になった。
騒がしい雑踏の中ひっそりと建つその佇まいは相変わらすで、あたしは入る前から口元を緩めてしまった。
―― カランカラン
小さなウェルカムベルが店内に響く。
あたしの中にも響く・・・心地いい空気があたしを包み込んで挨拶をして迎えこんでくれてるようだ。
「おや。お久しぶりですね。」
にこやかに迎えてくれたマスターは、まだあたしのことを覚えていてくれたみたいだ。カウンターの奥から静かにメニュー片手に歩み寄って微笑んでくれた。
残りの店員とも、カウンター越しに目が合って、あたしは小さく手を振るとにこりと会釈してくれた子と、無表情のまま頭を軽く下げた子が居た。
―― この子達も変わりないな。
そんな様子にも思わず笑いが漏れる。
「いつも混んでないわね。」
「えぇ。こんなもんですよ。」
言ってからあたしは、「はっ」として、口を両手で押さえた。
―― 普通店の店主にそんなこと言わないよね・・・。
思わず顔が熱くなるのが分かる・・・。
そんなつもりはなくて・・・本当に・・・あたし的にはこののんびりとした雰囲気が好きだから・・・。
言いたかったが、焦ってしまって何もいえなかった。
マスターはちっとも気にしていない素振りであたしをオープンスペースの一席へ案内してくれた。
「メニューはいいよ。あたしの好きそうなの持ってきて。」
この酔狂な注文に答えてくれるのも、この店ならではだ・・・。
マスターは「さて・・・」と顎に手を添えて考えていたが、やがて笑顔に戻ると「生クリームは・・・」と口にしたので、すかさず
「必須」
と答えておいた。
その返答に満足したのか軽い会釈と微笑を残してその場を去った。
あたしがこの店に来ていたのは結婚前の話だから、もう半年は足を運んでいないんじゃないだろうか・・・。それなのに、マスターがあたしの顔を覚えていてくれたことに感謝しながら、置かれていた水をからからと揺らした。
表面に水滴がついたそれは、あたしの指を濡らして満足そうだ・・・。
「どうぞ・・・。」
そっと差し出されたのは暖かなココア。もちろんその上には必要以上の生クリームが添えてある・・・♪
「いい匂い・・・。」
ぺろりと人差し指で生クリームを掬って舐める。ほとんど甘味を持たないそれは、単品では物足りないものだったが・・このくらいが丁度いい。
「少し話せる?」
あたしは周りにちらりと目配せをして自重気味に話しかけた。
余り店員がお客と直接的に話をしているのは、第三者的な客から見れば面白くないだろう。そう思って、気を遣ったのだが、マスターは「ええ。構いませんよ」と付け加えて、あたしの前の席に横向きに腰掛けた。すぐに立ち上がれるようにその体勢に落ち着いたのだろう・・・。
「どうかしました?」
「どうしたも、こうしたもないわよ。こないださぁ〜、すっごくショックなことがあって・・・凹んでたのよ。」
「珍しいですね。」
「失礼ね。あたしも凹むこと位あるわ。で、その追い討ちをかけるように!買い物に出かけたら、自動ドアが開かないのよっ!これってどうよっ。もう〜。恥ずかしかったんだよぉ。思わず地団駄踏んじゃったわ・・。」
―― はっ。
思わずどうでもいい話を振ってしまった。
そんなつまらない話でも、マスターはつぼに嵌ったらしく楽しそうにしててくれる・・・その笑顔に何だかほっとした・・・。
マスターは一通り笑うと、いつもの顔に戻ってあたしに視線を向けた。
「何かあったんですか?」
優しい暖かいその視線に、あたしは心を見透かされたような気になって、手の中の暖かなココアに目を落とした。
「―― わかんない。」
ずぽっとカップにスプーンを差し入れ、ぐりぐりとまわす。ゆっくりと溶け込んでいたクリームを無理矢理に溶け込ませてる自分が小さく思える・・・。
「何かさぁ・・・。わかんないんだぁ〜・・・。あたしね。結婚したんだよ。」
「えぇ。おめでとうございます。」
「うん。ありがとう・・・。でも、でもね・・・。どうしてかなって思うとわかんない・・・。」
「どうして・・・とは?」
「うん・・」
そう、それこそあたしの分からない。だった。
今もこうしてマスターと交わした「おめでとう」〜「ありがとう」の決まり文句のような会話・・・一体あたしはどの位やっただろう・・・。そしてそのたびに思う・・・何が目出度いのだろう・・と・・・。
何が不満なのか分からない。でも山のように不満はたくさんあるような気がしてすっきりしない・・・不満だらけの自分。ここがこう治ったら不満じゃなくなるっ!ってのがなくて・・・あたしは・・・いつも考えて・・・。
「良い事ないかな・・・って思っちゃうの。」
―― これってダメだよね・・・。
今に不満だって言ってるようなもんじゃない・・・。
「良い事・・ですか?」
「難しいですね。」と続けて言うとマスターは顎に手を添えて思案してるようだった。
「いいのよ、わかんないんだから。」
そんな彼に申し訳なくなって、あたしはぱたぱたと片手を振りながらおどけてみた。
「でも、サリオさんはそれを常に考えてるわけでしょう?」
「―― あ〜ぁ・・・うん。まぁ・・そうだね・・・。」
「だとしたら、やっぱり『答え』が必要なのではないですか?」
―― 答え・・・か・・・。
決められた答え・・それがあたしにとって必要なのだろうか・・・。
「この間・・・悲しくなったわ・・・。とっても・・・。怒ったわけじゃないの・・・。本当に悲しくて・・・・悲しくて・・・。」
―― 怒ったわけじゃない・・・。
「でも、喧嘩みたいになっちゃってさ・・・。あたし、怒ったわけじゃないの・・本当に・・・。悲しくて情けなくて涙ばかりこぼれちゃってさぁ〜・・・。」
「えぇ・・・。」
とっても、不思議な喧嘩のようなそうでないような・・・。なんともいえない時間だった・・・。
「何か・・・傷付いちゃったって言うのかな・・・。柄にもないねぇ〜・・・。」
とほほ・・・と眉を下げて笑ったあたしに、マスターは言葉なく微笑んだ。
「でも、初めて彼から謝ったわ・・・。投げやりではなくて・・・。凄くそれも不思議だった・・・。」
―― 傷つけてごめん。
その一言にあたしは驚いた・・・。別に・・傷なんて・・・。何よ・・・。
「嬉しかったんでしょう?」
「・・・どうかな・・・。それもわかんない・・・。」
「分かりたくないとか?」
―― マスターの意地悪っ。
にこりとそう言ったマスターを睨み付けて膨らんだ。でも・・・
「―― そうなのかな?」
ふとそう思った。
「それに最近何だか、あたし性格悪い・・・と自分でも思う〜・・・。」
思わずきゅぅ・・・と机に突っ伏す。
「どんな時ですか?」
「ん〜・・・。聞いて引かないでよ?」
あたしは腕の隙間からマスターが頷くのを確認して口を開いた。
「何か、人の幸せそうな感じが癪に触ったりぃ・・・。何かもう〜ラブラブって感じがムカつくぅ・・・ていうかラブラブってなによ?!」
「どうよ?」と訪ねたあたしを面白そうに見ながら口元を押さえる。
「説明なんて出来るあれじゃないよねぇ〜・・・。はぁ〜・・・何かブルー。ていうか、物凄くあたしって嫌な奴でしょう?」
自分自身に呆れることがある。何を考えてるんだか?と思いたくなるときもある・・・。
―― はぁ・・・。
一つ大きくため息を吐いたあたしにマスターは「あはは。そうですね。」と笑った。
「ちょっと、ひどくない?こういう時ってさぁ、「そんなことないですよ。」とかさ、「一時のことですよ」とかさ「本意ではないんでしょう?」とかさぁ〜。言ってもいいんじゃない?」
勢い良く上体を起こして、人差し指を突きつけて文句を言ったあたしが、マスターのつぼに嵌ったのか、彼はくすくすと笑いながら、目じりに指をあてた。
「分かってるじゃないですか。」
「―― うぅ〜・・・。まぁね・・・。」
「自分にとって良いこと。分かっててもそれ以上を求めて不満に思う・・・人の幸せを心から喜んで上げられない瞬間がある・・・それも自然ですよ。今までが不満だったわけでも、これからが不満に満ちてるわけでもない・・・それって、凄く幸せなことだと思いませんか?」
「―― ・・・よくわかんないよ・・・。」
「分からないですかねぇ?」
―― 何でもない日万歳♪
って、アリスでは歌ってたな・・・。つまりはそんな感じなのかな・・・。
「現状に甘んずることなく、常に反省の上に立って、創意工夫開発改善に心がけ、意欲的に前進せよ・・・って?」
つらつらと、あたしの口をついて出た言葉。口語調でないその言葉にマスターはきょとんとする。
「『社訓』だよ。・・・ま、別に好きでもないけど、毎週毎週いわされてたら、嫌でも覚えるって・・・―― はぁ・・・。つまりはこの手の言葉に、あたしは縛られすぎてたってことかもね・・・。」
「・・・なるほど。」
一人で空回りして、どこにも引っかからないから、イライラして・・・。
別にそれでもいいじゃない・・・って、どうして思えなかったんだろう・・・。
カップの中で、ひんやりとしてきたココアをあたしは一気に飲み干した。
マスターはそれを合図だと言わんばかりに、静かに立ち上がった。
―― かつん
とカップをソーサーに戻すと、ぺろりっと口の周りに残った生クリームを舐め上げて、あたしも続いて席を立った。
「愚痴に付き合わせちゃったね。ごめん。」
出入り口で店員の子にお会計をしながら、その隣に立っていたマスターに視線を送ってすぐに財布に視線を落とし謝った。
「そういう場所でありたいと思っています。」
にこやかに、ゆったりと目元を細めた彼に、心なしか頬が熱くなったような気がしたのを隠すように、あたしも同じ様に微笑むと
「ありがとう。」
―― カランカラン
来たときと同じ様にウェルカムベルが鳴り、あたしを送り出そうとする。
もう一度、名残惜しげに振り返るとマスターが「サリオさん。またどうぞ。」と一押ししてくれた。
その声に、軽く会釈すると、あたしは店を後にした。
―― また来てもいっかな♪
不思議とそう思わせる空気がそこにはあった。
飛行機雲が一筋、青々とした空に真っ白な軌跡を残していった。