投稿(妄想)小説の部屋・別館

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薄雪

 
 外は雪がまた降り始めたようだ。
 ゲルの中でも吐く息がわずかに白い。
 火にかけた鉄瓶に入った湯がさかんに湯気を立てている。
 火の傍で乳鉢の中身を混ぜていた桂花は、鉄瓶に手をのばしかけて、ふと手を止めた。
 これは、直前に湯を使うタイプの薬だ。
「・・・?」
 不意に訪れた客用に何か、とおもったが、気付けば外傷薬を作っている。
 客の殆どは身体の不調をうったえるので、内服薬を出す事が多い。だから必然的に内服 薬の作り置きをつくることが多かったのに。
「・・・・・」
 そういえば、外傷薬を作るのも久しぶりだ。
 あの元気すぎる子供は、気をつけていてもいつの間にか傷をこしらえていて、よく傷薬 を作るほうが間に合わなかったけれど・・・・
「・・・・・っ!」 
 はじかれたように桂花は乳鉢から手を引いた。
 震え出した手を押さえつけながら、桂花は、悲鳴のように息を吸い込んだ。
 思い出さないように努めてきたのに、こんなかたちで思い出すとは。
 ・・・あれから、数ヶ月がたつのだ。
 見違えるように成長した、カイシャンに再会してから。

 ・・・たった二年で、人間というものはあんなに成長するのだ。
「・・・何という、生き急ぐ、生きものなのだろう・・・」
 持てるエネルギーを、生きる情熱のみに費やしてしまったかのように。
 日の下で、わき目もふらずに、あかるい 美しい 軌跡を追うように生きる。
 天界人よりも、強い鼓動と熱い血を持つ、 ・・・人間・・・。
「・・・・・」
 ・・・元気でいるのだろうか
 大きな怪我や病気はしていないだろうか
 部下達とはうまくやっているのだろうか
(・・・吾のことは、もう忘れているだろうか・・・)
 ぎゅっと目をつむり、桂花は祈るように一瞬天を仰いだ。
 早く 早く 忘れてしまって。
 一つのカケラも残さず忘れて。
 人は人同士で生きていくべきなのだから。
「そして、誰よりも幸せになりなさい・・・。」
(・・・それが、天に選ばれ、人界に生きる、貴方の運命・・・)
 生命の輪からも、人界の理(ことわり)の輪からもはずれた位置にいる人外の自分が、 いつまでも彼の傍にいてはいけない。
 そう思ったから、二年前、だまって身を引いたのだ。
 なのに
 思い出すだけで、なぜこんなに苦しくなるのだ・・・!
「・・・・・っ!」
 震える手で傷薬の入った乳鉢をつかむと、桂花は火の中に投じ入れた。
 だが、震える手で投げたためコントロールの狂った乳鉢は、鉄瓶のかかる鉄輪にぶつか り、衝撃で重心の傾いた鉄瓶は熱湯もろとも桂花のほうへ倒れこんできたのである。
 桂花はそれをぼんやりと見ていた。
 死んだ身体に、ひとつやふたつ傷が増えた所でどうだというのだ。
 むしろ、いっそひどい火傷をおって、その痛みでこの苦しみを紛らわせられるというの ならそのほうがいい。
 その時、背後から、雪交じりの風が吹き込んだ。
「あぶないっ」
 桂花が振り向くよりも早く、背後から素早く伸びてきた手が鉄瓶をつかんだ。
 シュッという音とともに、白い煙がつかんだ手から立ち昇り、さらに熱湯がその手に流 れ落ちた。
「・・・・っく!」
 押し殺した苦鳴があがる。
 まぎれもなく女のラインを持ちながら、どこか精悍な雰囲気を持つ、桂花のよく見知っ た女の横顔が、すぐ近くにあった。
 歯を食いしばり、痛みに痙攣しながら、それでも鉄瓶をもとの位置に戻し、桂花へと視 線を向け、痛みを押し殺したような硬い声音で聞いてきた。
「・・・ご無事ですか?」
 湯気が立ち昇るゲルのなかで、桂花は瞳を見開いて女の顔を見、その名を呼んだ。
「・・・寧・・」
 その声は、自分でも奇妙に思うほどかすれていた。

 手に獣革で出来た手袋のような物をはめていたため、極端な大事にはならなかったもの の、鉄瓶そのものの熱と熱湯と水蒸気で、寧の右手は赤くふくれ、水疱の出来たひどい火 傷を負っていた。
 患部を冷やしている間に大都の報告を淡々と行い、薬を塗るために桂花に手を差し出し たとき、静かな口調で寧は尋ねた。
「・・・考え事をなさっておられたのですか?」
「・・・・・」
 桂花は黙って、寧の手に薬を塗り、布を巻きつけた。
 寧も二度とは聞かなかった。
 静まり返ったゲルの中は、一人でいるときよりも居心地悪く感じられた。

「・・・・・」
 硬い表情のまま、寧の手に布を巻きつけながら桂花は胸中で嘆息した。
 ・・・どうしてこの女は、こうも間の悪いときに現れるのだ。
 カイシャンと再会した時もそうだった。
 およそ他人には見られたくはない弱い部分をさらけ出した場面に、居合わせる。
 ・・・だが、とっさの時でも桂花のことを案じ、桂花の立場が不利にならぬよう、先に立 ち後になりこまやかな気遣いを見せながら行動してくれるのは、優秀な部下は多しといえ ども、寧くらいのものだ。
 もはや任務とは切っても切り離せない。
 桂花が大都に身をおくことの出来なくなった今はなおさらだ。
「・・・すまなかった。礼を言う」
 布を巻き終え、小さくうなずくように頭を下げた桂花に、寧は、ふ と笑った。
「二度目ですね」
「・・・・・?」
「あの時も、貴方は礼を言ってくださいました。・・・主人に仕えるのは当然、行動の先回 りをして当然、後始末をするのは当然、とそう考えるのが多い主人の中で、礼を言われた のは、貴方が初めてです。」
 あの時とはいつの事かという顔をしている桂花に、寧は少し口ごもって言った。
「・・・サトゥを殺したときです」
 言ってから、やはり言うのではなかったという顔を寧はした。自分の主人である桂花に とって一番振られたくない話題だということに、話す途中で気付いたようだった。
「・・・・・」
「・・・・・」
(・・・やはり、この女は苦手だ。)
 表情こそ変えなかったが、桂花は心中で額を押さえた。
「・・・礼を言うのはあたりまえだ」
「あたりまえ、ということを知らない者も多いのです。」
「・・・・・」
「・・・痛みを感じたのは、久しぶりです。」
 きっちり布を巻かれた手に視線をおとし、寧は笑った。
「ありがとうございました」

 桂花のゲルをでて、寧は再び雪の中を進む。
(・・・よかった・・・)
 布のきっちり巻かれた右手に視線を落とし、寧は安堵のため息をついた。
 よくぞあの場面に居合わせたものだ、と自分をほめてやりたい気分だ。獣皮の手袋をは めていてさえこの火傷だ。厚地の服を着ていたとはいえ、桂花がどんなひどい火傷をおっ たかもれないとぞっとする。
 避けられない距離ではなかった。なのに、あの人は倒れ掛かる鉄瓶に無感情な視線を固 定したままぴくりとも動かずにいた。
 けれど、寧の火傷を治療する間、ずっと自分が傷を負ったよりも傷ついた顔をしていた。
「・・・・・」
 ・・・不思議なお人だ。
 礼を言ったり、
 薬を塗ってくれたり。
 寧の持つ、人を計るものさしではどうもはかれない。
 冷徹で、理論的で、誰よりも優秀だ。
 なのに、時折、ひどく無防備になる。
 誰の手も必要としないように見えて、実は意外に誰かが傍にいてやらねばいけない人な のかもしれない。
 それが、自分でないということが 少し悲しいけれど。
「・・・・・」
 寧は布のきっちり巻かれた右手を見おろした。
 ・・・怒ったような、困ったような顔で、薬を塗ってくれた。
 もう、それだけで充分だ。充分すぎるくらい幸せだ。
 ・・・生命のない、この呪われた体に、痛覚と感情が残されている。
 何度殺されようとも、再び再生されて黒い湖に浮かび上がる。
 人間や天界人のように、生命をなくして魂のみとなり、そして何もかも忘れ去って 転生してまた初めから生を刻むのではなく、幾度も幾度も、死ぬ前の記憶と姿をもったま ま、湖に浮かび、また、己の望んだ理想の主人に仕えることが出来る。
 ・・・それは、永遠に呪われながら、限りなく祝福されているようでもある。
 げんに、寧はいま、とてつもなく自分が幸せだと思えるのだ。

 ・・・雪が降る。
 熱の生まれない身体に雪は降りつみ、冷たさだけが痛みのように身体に染み透ってくる。
 ・・・右手だけが、火のように熱く感じられた。
「・・・・・」
 白銀の世界にただ一人立ち尽くし、寧は右手を天上に差しあげる。
 見上げる空は暗い灰色にかき曇り、くろい影を落とす雪が降り落ちてくる。
 天を見上げて見る雪は黒く見えるのに、手元まで落ちてくると、何ものにも例えること のない美しい白だとわかるのだ。
 ひんやりと冷たく、やわらかな、美しい 白・・・
 差し上げた寧の右手にも、雪は舞い落ちる。
 冷たさに、火傷の痛みが和らいでいくかのように思えた。
「・・・よかった・・・」
 布がきっちりと巻かれ、その上に雪の白をちりばめた右手に唇を寄せ、声を立てずに吐 息のように寧は笑った。

終。


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