弧月愁々
「俺の後ろに誰を見る」
ひやりとした。
桂花を見上げる瞳は容赦のない怒りと悲しみに深く沈んでいた。
幼さを残しながらも弾劾するその声が、桂花をまっすぐ貫いて言葉を失わせた。
剣を持ったまま一歩ずつ近づいてくる。
「誰なんだ・・・」
剣を柄を持った右手に痛いほど力がこもっているのがわかった。
【2】
「俺の後ろに誰を見る!」
たたきつけるように叫び、立ち尽くしたままの桂花の前に立ち、白刃をつきつける。
心臓に向けられた切っ先を、桂花は逼迫した状況にもかかわらず、むしろ不思議な思いで見つめた。視線をそのまま白刃の上をなぞらせ、柄を握る手に移す。
少し前まで桂花の指先を握ることでしか手をつなげなかった紅葉の様な手は、幼さを残しつつも、剣だこのできた力強い男の手になっていた。
「・・・・」
視線はそのまま長くなった腕をなぞり、広くなった肩に移り、のど仏の現れた首筋に走った。そうして、桂花はカイシャンの顔を見た。
怒りと悲しみがないまぜになった、痛みにも似た表情を浮かべたそれは、すでに一個の雄としての相貌をそなえていた。
(いつのまに)
それが正直な感想だった。死人となった桂花に、時の移ろいも成長という現象もすでに無縁のものだった。だが、カイシャンに関わるようになって以来、日に日に成長してゆく彼にいつも驚かされていた。
…いつからだろう、彼の成長に眩むような強い誘惑を感じながらも、目を背けるようになったのは?
「・・・・」
答えなどわかりきっていた。わかっていて、知らぬふりをして、己の本心を騙し通して。
「カイシャン様…」
まぶしいほどの力を、その熱い血の流れる体に秘めた人間の子。
彼は、やさしい、暖かな翼の下で守られる雛鳥ではなく、己の足で立ち、己の未来を掴み取るだけの体と意志がそなわりつつある、一個の雄になっていた。
彼は、すでに守り手が必要な、子供ではないのだ。
その事実にいまさらながら驚かされて、桂花は呼びかけたまま口をつぐんだ。彼がここまで成長していたというのなら、桂花がとるべき行動はひとつだった。それは、最初から決めていたことだった。
桂花はカイシャンと視線を合わせたまま、胸のうちでつぶやいた。
離れなければ。
【3】
あの直後、周囲のものが血相を変えて二人を引き剥がさなければ、自分はどういう行動を取っていたのだろうか。
床に座り込んだまま、気を抜くとふるえ出す両手を握り締め、桂花は細く息を吐いた。
「…いっそ、あのまま殺してもらったほうがよかったか…」
剣を取り上げられ、引き離されながら叫んだ、カイシャンの、あの、言葉。
「なぜ俺を見ようとしない、桂花!」
俺はここにいる! ここにいるのにーーー!
目をかたく閉じ、ふるえる両手で耳をふさいでも、あの、血の迸るような悲痛な叫びと表情は消えてはくれなかった。息苦しさに座っていられず、横倒しに床に身を投げ出す。ふるえのおさまらない両手を胸元まで引き寄せ、硬く握り合わせる。
「カイシャン様…」
わかっている、わかっていたはずだった。彼は柢王ではない。柢王の、魂と肉体を持っていても、カイシャンは柢王ではないのだ。
「…そんなつもりじゃなかった…。吾は、あなたには、悲しみや、さみしさなど、知ってほしくなかった。だから…」
周囲から愛され、愛されているという自覚を持ちながらも、たった一つ、生みの母親に疎まれたがゆえに、心の拠り所を見つけられない、あわれな子供だった。
だから、せめて、彼の心を守ろうと思ったのだ。
彼に関わることに迷い、迷い続けながら、名を呼ぶ声に、向けられる笑顔に、指を握ってくる手に、柢王の面影に、引きずられるようにして、ここまできてしまった。
「…吾は、それほどまでに、あなたを傷つけていたのですか…?」
守るつもりが、傷つけて、傷つけて、ここまできてしまった。
そして、そばにいる限り、これからも傷つけ続けることになる。
…もう、そばにいられるはずもなかった。
離れなければ。そう思った。
「離れなければ…」
口に出してつぶやいたとたん、苦いものを含んだように、歯を食いしばる。涙が、ひとすじ、ふたすじ、とすべりおち、ふるえる両手で目を覆った。
パオの布地をたたく、遮るものとてない草原の、秋の夕暮れ時の、物悲しい声で叫ぶ秋風から逃れるようにして、桂花は子供のように身を丸めた。
…離れなければ……
【4 −双頭ー】
虫の声に桂花は目を覚ました。
どのくらいの時間がたったのか、パオの内部は暗闇に沈み、わずかに布がめくれた入り口から、月の光がさし込んでいた。
月光に導かれるようにして、パオの外に出る。
濃い藍色の空に、うるんだような十九日月が、星々の光をかき消すように夜空に君臨していた。
虫の声がそこかしこでわきおこり、夜露に濡れた草葉が月光を含んで、静かに輝いている。
秋の夜は饒舌だった。
桂花は湖に向かった。全身が乾ききっている気がした。
上衣だけを岸辺に落とし、服のまま水に滑り込んだ。水は切れるように冷たかったが、いまの桂花には有難かった。
ひとしきり泳ぎ、湖の中央に体を浮かべた。
「………」
夢の中で、カイシャンは小さな子供だった。歩く自分の後をついてくるのが精一杯だった彼が、
いつの間にか桂花を追い越し、前を歩くようになって、振り返って笑顔を向ける。
振り返るたびに、カイシャンは成長してゆき、笑顔のたびに高くなってくる目線は、桂花をなぜか切なくさせた。
…これは日の下で生きるべき子供。
死人の桂花がいつまでもそばにいるわけにはいかない。
「…地底に戻ろう。」
百年の休暇の残りを、ずっと柢王のもとですごそう。
柢王の腕が無性に懐かしかった。冷たい腕でもいい、抱いていてほしかった。
そう桂花が決心した直後だった。月の光を映して、光を放つ湖面が、すうっと翳った。
「…?」
月は相変わらず空の上で輝いている。不審に思った桂花がふと足元を見下ろして息を呑んだ。
足下に、広がりながらせり上がって来る、黒い空間。
底の知れない、その暗闇の中心部に金色の人影を認めて、桂花は鳥肌を立てた。
「…教主…!」
渦巻き、せり上がる黒い水の中から、骨と皮ばかりの手が長く伸び上がり、桂花の足首を掴む。
教主の黒い水の結界の中に、桂花は引きずり込まれた。
暗い結界の内部は、水音がとどろく空間ではあったが、桂花と教主の間に水はなかった。桂花のすぐ背後で、黒い水が壁をなすように垂直に逆巻いて流れ、
そこから伸び出た幾本もの亡者の手が、桂花を後ろ手に拘束し、
教主の前に引き据えている。
白い手を延べて、桂花の頤を持ち上げる教主の底の知れない冥い瞳が、桂花を見下ろしてかすかに笑いを浮かべる。
桂花にとって、仕えて長いが、まったく得体が知れないこの主人は、脅威の対象でしかなかった。
「己の本心を見据えることが、それほどまでにおそろしいか?」
唐突な問いかけに、桂花はいぶかしんだ。意味がわからなかった。
「…おおせの意味がわかりません」
教主は寒気を感じるほどやさしい笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「其方の本心はどこにある?」
頤を掴んだ手は首筋をたどり、白く、骨ばった長い指を持つ手は、ひたり、と桂花の胸の上におかれた。
心臓の真上だった。
「あの子供を愛しているのだろう?
其方はそれを認めたくないゆえに、愛しい男の面影を重ねて見ることでしか、己の心の均衡を保てないのだ」
「! ちがう!」
「柢王の魂だから、柢王の体だから、愛しいとおもうのだと。それを免罪符として、あの子に惹かれてゆくのを止められない己を偽り続けていたのではないか?」
「ちがう!ちがう!」
桂花は教主の瞳から逃れるようにして首を振った。
「何が違うというのだ。地底で柢王の腕に抱かれながら、あの子供を想い、地上にあって、あの子供の傍にありながら柢王を想い続ける其方の、何が違うというのだ?」
「!」
桂花の体に走った動揺を見澄ましたかのように、白い指先が服地を貫いて桂花の胸に喰い込んだ。
「っ!…あ…っ!」
指は容赦なく喰い込んでくる。亡者に体を拘束されている桂花は身じろぎも出来ず、凶暴な五指の肉を分ける痛みに息を詰まらせた。
痛みに歪む桂花の顔を教主は愛しむように眺め、指の力を緩めないまま、顔を寄せ、残酷な声音で耳元に囁いた。
「この、双つ頭め。」
指先に更に力がこもり、桂花の体が痙攣した。
「己の本心を認めない限り、其方は柢王とあの子供を裏切り続ける。そのまなざしで、永遠に、二人を裏切り続けることになる」
桂花の体が引きつったのが、指先をとおして教主に伝わった。
瞬間、瞳を見開き、昂然と顔をあげて、桂花は叫んだ。
「殺して下さい!」
真っ向から見つめあった教主の瞳に喜色が浮かんだ。
口中に苦い血の味があふれた。それでも叫ばずにはいられなかった。
「殺して下さい、…いっそ、このまま…!」
…このまま裏切り続けることになるのなら!
力尽きて、前にのめった桂花の頭は教主の肩口に落ちた。
「………」
不思議なものを見るように教主は桂花を見た。そして、興がそがれたかのように、指を引き抜いた。
「百年の休暇は、まだ終わっていない。」
黒い水が傷口に流れ込み、たちどころに傷を癒してゆく。
消えてゆく痛みに、桂花は絶望の声をあげた。
逆巻き、流れる黒い水が動きを止め、底へ向かって流れ落ち始めた。上方が明るくなって、湖の光る水面が見えた。結界が消えつつある。
「其方は、己の命を殺すようにして人を愛する。それでよく体がもつものだ。…いや、其方はとうに死人であったな」
笑いながら教主が背を向けると、黒い水は一気になだれ落ち、教主を冥界へと連れ去った。
結界が消え去る瞬間、教主の声が桂花にとどいた。
「忘れるな、其方等魔族は、『境を歩くもの』。人界にあって人になれず、天界にあって、天人になれず、人界と天界の狭間で引き裂かれながら、永遠に境の上をさまようものだ」
力尽きた体を枷した手が解け、教主の結界が消失すると、冷たい湖水が桂花を抱きとめて、ゆっくりと押し上げてゆく。
水面にきらめく月影の中に桂花は浮かび上がった。
月は中天にあって、冴え冴えと輝いている。
「………」
何も言えなかった。
望むことも、願うことも、祈ることも出来ないまま、桂花は一人だった。
天と地の狭間に身をおいて、桂花は孤独だった。
終。