仁義なき戦い(仮)
【後】
「なんだあれは〜〜〜っ!」
当然のごとく道を隔てた隣の二階座敷までそのさわぎは届いていた。
ひいきの奏者による演奏を妨げられたあげく、ビミョ〜にチューニングの狂った楽器で、
酔っぱらいの手によって好き勝手に演奏される曲の数々に輝王はこめかみに青筋を立てて
怒鳴った。
「何故そこで半音上がる! ああっ! 一小節も飛ばして演奏するな! そこは和音階が
違〜う!」
「お・落ち着いてくださいっ 輝王様っ! 酒の席のざれ事でございます!」
こめかみに青筋を立てて立ち上がり、怒鳴りこもうとする輝王を、側近の老侍従が半泣
きになりながら押しとどめている。
「輝王が、部下に当り散らしています」
障子の隙間から双眼鏡で隣の座敷の様子を探索している桂花が言った。
(そろそろかな・・・)
「よーっし、律祥! 『須弥山賦』詠えっ!」
両手を打ち鳴らして 一旦座を静めると、柢王は今度は楽器を手にしていない隊員の一
人を指名した。
「サー・イエッサー! コマンダー!」
べろんべろんに酔った大男がふらつきながらも勢いよく立ち上がる。周囲のヤジに機嫌
良く手を振り、柢王に一礼の後 幾度か咳をしてのどを整えた後、深みのあるバリトンで
朗々と彼は詠い始めた。
・・・峨々とつらなる山なみの・・・・・・ という出だしで始まる『須弥山賦』は七つの大陸
と七つの海に囲まれた神々の山の情景を歌にした、難度の高い大曲である。
プロの歌い手でも、完璧に歌いこなす事が難しいと言われるこの曲を、彼は一音たりと
も外すこともなく情感のこもった豊かな声で 歌いあげてゆく。
「・・・ほう?」
席を立ちかけていた輝王が思いがけない名曲に座りなおす。
道を隔ててなおとどく豊かな歌声に彼は怒りも忘れ、脇息にもたれかかって うっとり
と目を閉じて曲に聞き入っている。
軒下の通りを行く人々も、思わず足を止めて聞き惚れている。
「・・・彼は、どうして、プロにならなかったんですか?」
座敷中に響き渡る豊かな歌声に、桂花は心底不思議そうに柢王に聞いた。
「あー、ヤツ曰く、『酒のない人生なんかクソッタレだ』だそうだ 軍隊に入ったのだ
って、(上司のおごりで)タダ酒が毎日飲めるから、とか言ってたな。」
修練中は特に不真面目というわけでもないが、いつも酒の匂いをさせている彼である。
「・・・その認識、思いっきり間違ってません?」
「俺もそう思うよ。 ・・・そろそろだな。」
かつて音楽界において将来を嘱望された彼であるが、どんな偉大な音楽家の手をもって
しても彼から酒を断つことが出来ず、本人自体も音楽よりも酒の人生を選んだ。しかし
酒を飲み続けているにも関わらず、全く衰えを見せない彼の強靱な喉に、アル中(おいお
い)でもいいからプロになりなさいと誘いが引きもきらない。だが、その彼の美声にも、
ただ一つ欠点があった。
・・・彼は、酒を過ごすと、ラストのサビの部分で必ずと言っていいほど、音を外す癖が
あった。しかもハズし方が尋常ではない。豊かなバリトンから、いきなり、急転直下
(上?)の勢いで、超音波か?と疑いたくなるほど高いソプラノへと転じるのだ。
・・・彼は、柢王の期待を見事に裏切らなかった。
後世、人界においてオペラ歌手がその歌声で窓ガラスを割ったという現象が確認される
ことになるが、彼のそのソプラノの威力たるや、その比ではなかった(天界人だから)
徳利の中の酒が振動で噴水のように吹きあがり、部屋のあちこちに置かれた薄い玻璃で出
来た明かり取りが音を立てて次々と砕け散る。耳を押さえていた隊員達の中には軽い脳
震盪を起こして鼻血を出す者すら出たのである。
「輝王が脇息から転げ落ちました」
「よしっ いい感じ!」
双眼鏡で隣の座敷をうかがう桂花の報告に柢王は思わずこぶしを握りしめた。
何事もなかったかのようにバリトンで歌いおさめ、何食わぬ顔で一礼する律祥に、隊員
たちがゲラゲラ笑いながら惜しみない拍手を送っている。
「よーし! 一気に畳み掛けるとするか。おい 淳鄭! 朔董! 『紅嫋々』デュエット
行け!」
「ヤヴォール! ヘル・グーバーノイアー!」
酔漢二人が敬礼しながら立ち上がる。周囲からヤジと悲鳴と怒号と笑い声と座布団が
飛んだが、彼らはそれに全く頓着せずに肩を組んで歌い始めた。
『紅嫋々』は、女のせつない恋心を歌い上げた これまた名曲であるのだが、この二人
に歌われてしまうと、百年の恋も一瞬で冷めてしまうだろう。
・・・二人とも、破壊的歌唱力を持つ、筆舌につくしがたい音痴なのであった・・・
通りを隔てた隣の二階座敷の障子がスパーン!と音を立てて開き、脇息が投げ込まれた。
脇息は見事なコントロールで狙いあやまたず柢王の顔面目がけて投げつけられたが、彼が
避けたため、後ろの壁に激突して跳ね返り、てんてんと座敷の中を転がった。
「柢王〜っ! そこを動くな!」
窓枠に設けられた落下防止用の低い柵に片足をかけて、次の投擲用なのか膳を片手に額
に青筋をびしびし立てて輝王が身を乗り出して叫ぶ。老侍従がその腰にすがり付いて必死
になって押しとどめようとしている。
「おお〜、それなるは我が兄上ではございませぬか。楽しい酒の席でそのように取り乱さ
れていかがなさいました?」
しれっと柢王が輝王に笑いかける。
「わざとらしいことを言うな! 嫌がらせなどしおって!」
柢王の笑いがさらに深まった。後ろに控える酔っ払ってへろへろ笑っている隊員たち
を見渡し、柢王は片腕を上げた。合図のように。
「嫌がらせ? そう思われていらっしゃるのは残念至極。しかし、酒の席という者は苦
楽を共に分かち合う者の為の場所。彼らは実に気持ちよく楽しんでいるのですよ。兄上。
それを理解いただけないのはまことにつらいことです。では、謝罪の意味も込めて 兄
上に特別にお聞かせいたしましょう! わが隊員全員による文殊塾推奨幼年部児童唱歌
『青蛙之歌』! ・・・エンドレス輪唱っ!」
「・・・・・(バカばっか)」
やれやれと溜め息をつきながら、桂花は緊急避難のため妓女達を先導して階下に降りて
いた。おそらく刃傷沙汰にはならないだろうが、食器の類や楽器の類の投擲行為の可能
性はおおいにありうる。それに、隊員たちが暴れたあげく汚れた床の敷物や、力みすぎた
あまり、首をへし折った楽器の類 その他モロモロ・・・
(楽器の類は全部弁償だろうな・・・ 敷物の類や壁はクリーニングですませられると思う
けれど・・・)
「・・・・・」
階上で繰り広げられる破壊的歌唱力を持つ酔っ払いたちによる、いつ終わるとも知れな
い不協和音の輪唱と、ざっと頭の中で計算した弁償額に、桂花は深々と溜め息をつきつ
つ、これ以上弁償額が大きくならないうちに事態を終息に向かわせるべく、両耳に耳栓を
あてがうと、空中散布型のしびれ薬を懐から取り出して店の外に足を踏み出したのであっ
た。
終。