宝石旋律 〜嵐の雫〜
【19】
天主塔執務室。
震える桂花を長椅子に座らせてから、遠見鏡に駆け寄ったティアは、息をのんで遠見鏡の画面を見上げた。
「・・・・・ 嘘・・・」
―――遠見鏡の画面は完全に停止していた。
かすれた画面に映し出されているのは、地中から躍り上がる数頭の巨虫の姿―――
「 嘘。―――嘘!・・・アシュレイ! 柢王!」
遠見鏡を何とか動かそうとティアは試みたが、画面はびくともしない。
「・・・ああっ! どうせ停止するなら、アシュレイのアップで停止してて欲しかった!」
わらわらと躍り上がる巨虫が映される画面を見つめてティアが恨めしそうに言い、がっくりと肩を落とした。
「・・・・・」
(・・・遠見鏡が 停止した・・・?)
ティアの戯言をコンマ1秒で記憶の彼方にスルーし、長椅子の背に体を預けたまま桂花は事態の深刻さに、閉じていた目を見開いた。
まだ体が重い。・・・そして、何よりも恐怖。冷え冷えとした、底の見えない恐怖。
先ほどから、桂花にはとらえようのない、わからない事ばかりが起こっている。
(・・・ それでも・・・考えなくては・・・・・)
今の桂花には、それしかできないのだから。
先ほど見えた境界の光景―――・・・
そして 水音。
(―――水音・・・?!)
目を見開いたまま、桂花は凍りついた。
水音は、まだ鳴り響いている。
水音は、ひどく近いところで、まだ鳴り響いている―――。
・・・桂花の すぐ前で。
「―――・・・!!!」
目だけを動かし、水音の根源の位置を探り当てた桂花は、視線を眼前の光景に据えたまま、音を立てぬようゆっくりと慎重に体勢を入れかえながら、低い、かすかに震えを帯びた声で、まだ遠見鏡に向かって嘆いているティアに呼びかけた。
「・・・守天殿。どうか、お静かに。決して大きな音を立てたりなさらぬように」
「あ、ごめん。そんなにうるさかった?」
執務中に時々背後から聞く事のある(それは執務を放棄して遠見鏡に張りついている時や、妄想と幻想の虜になって、やはり執務を放棄している時など)桂花の低い声に、ティアは我に返って口元に手を当てた。
「・・・そうではなく・・・。・・・そのまま、ゆっくり壁沿いに移動して、部屋を出て下さい」
「桂花・・・?」
緊張を含んだ桂花の声に、ティアが口元に手をやったまま、そろりと、長椅子の方を見る。
「・・・―――どうぞお静かに。」
長椅子に腰を下ろし、背を向けたまま、桂花はこちらを振り向こうともしない。
「・・・・!!!!」
ティアはようやく理解した。 桂花は振り向かないのではない。振り向けないのだ。
「・・・どうぞ、お早く。部屋の外へ」
桂花の座る長椅子の正面――――テーブルの上に黒々と立ち上がるものがあった。
逆光で輪郭しか見えないが、輪郭だけで、それが「何か」と言う事はわかる。影の上部で、
巨大な一対の目がぎらぎらと光っていた。
桂花はそれと睨み合っているため、動けないのだ。
「・・・ゆっくり。 決して急いで動かないで下さい。 これは、動くものは全てエサと見な
して襲いかかってくる種です。」
(――――――魔族!)
それも巨大な―――虫型の。 いや、境界に出現した巨虫達と比べれば、小型という事に
なるのだろうが、それでもティアや桂花の身丈と同じくらいだろう巨大さだ。
「―――何故魔族がここに・・・?!」
「冰玉が持ち込んだ、あのカケラが・・・ ・・・守天殿、お願いですから、早く・・・」
ティアのつぶやきに、桂花が低く返す。桂花の背中からピリピリとした緊張が漂っている。
「・・・まさか、あの状態から再生したのか?」
黒い影がゆらゆらと左右に揺れ動きながら前に進み出て、桂花の上に不吉な形の影を落と
した。桂花はそれを厳しい表情で睨み付けたまま動けない。
「・・・気づくのが遅れた、吾の失態です。・・・吾が時間を稼ぎますから、その隙に扉まで走っ
て下さい。」
桂花の言音に、初めて焦りがにじんだ。
(一瞬でいいから、隙が出来れば―――)
巨虫との距離が近すぎる。桂花が飛び離れるより巨虫が桂花を捕らえるほうが早いだろう。
(・・・でも、せめて守天殿が部屋を出るまでは防ぎ切らねば)
桂花は、厳しい表情のまま すぐに飛び出せるよう、両手と両足に力を込めた。
―――次の瞬間、部屋中に白いものが飛び散った。
それらは蝶のようにひらひらとした動きを伴って、執務室中に舞い広がった。
「・・・ッ?!」
―――巨虫が跳んだ。 桂花の頭上を斜めに飛び越え、長椅子の横に据えられた、清水が
満々とたたえられる大壺の口の縁にぶつかるようにして留まった。 衝撃で壺がぐらぐらと
揺れる。
「―――― 一人だけ逃げるなんて、出来るわけがない!」
ティアが、執務机に積み上がる書類の山をなぎ払ったのだ。 そのまま執務机を回り込ん
で、桂花のほうへ移動しようとしている。
「・・守天殿! 動かないで下さい!」
口から水を振りこぼしながら、ぐらぐらと揺れる壺の口に器用に乗ったまま、巨虫は首を
振り動かして辺りを見回した。 部屋中を飛び散る書類の動きに巨虫は一瞬幻惑されたよう
だったが、生きて動く餌しか食べないこの種の虫は、それが生命のないモノの動きと見て取
ると、途端に興味を失ったようだ。 ―――そしてその時。
「あ・・!」
事もあろうに、床に散らばった書類に足を取られ、ティアが派手に転んだのだ。
巨虫が首をねじって振り向いた。
―――壺が倒れ、大量の水が床の上を流れた。
「守天殿!」
桂花の悲鳴に近い声と同時に、執務机の上に、ダン! と音を立てて覆い被さるように
落ちてきたものがあった。
机の上に積み上げた残りの書類が、振動で次々と崩れ落ちて床に舞い上がる。
「・・・あ・・・・・」
ティアは身動きひとつできずに床に腰を落としたまま、執務机の上からギラギラとした目
で自分を見おろす、巨大な生物を見上げた。
―――逆三角形の頭部。 飛び出た複眼。 獲物を噛み砕き咀嚼するための巨大な口。
巨大な鎌状の捕獲脚である前脚を持ち上げ、後ろの4脚で立ち上がる、直立に近い その姿。
体型、生態ともに、敵を待ち伏せ、素早く攻撃し、襲うことに集中させたスマートな姿。
・・・肉食の虫としては窮極的な存在 ――――
―――――ぎらぎらと黒光りする体色の 金色の複眼を持つ、巨大な蟷螂だった。
「・・・・・!!!」
ティアは虫遊びをした事がない。 素手で触った事もない。(守護主天という特質状、捕
まえる事が出来なかったというのもある) 図鑑などを丸暗記しているので、姿形や名前、
そしてその生態行動などは暗唱できるが、実のところ、どうもこう自分から進んで触ろうと
いう気になれないのだ。 だから虫といえばアシュレイや柢王が捕まえたモノを横からそっ
と覗き込んていた記憶しかない。
(―――アシュレイの小さなてのひらの上に乗っていた、薄緑色の細くて長い昆虫)
(―――柢王がちょっかいを出すと、細いけれど大きな鎌の前脚を振り上げていたっけ)
けれど。
(私は、怖くて触れなかった。 その虫の、目が。何だか、とても、怖くて―――)
その目が。今、ティアを見おろしている。 巨大な鎌状の前脚が―――・・・
―――突如、横合いから白い風が 蟷螂にぶつかってきた。
「下がって下さい守天殿! 白繭の結界に入って!」
執務机の上から蟷螂を床に蹴り落とした桂花が ティアを背後に庇い、蟷螂の前に立ちふ
さがった。
桂花の突然の乱入に、黒い蟷螂は鎌状の前脚を胸の前で振り上げた姿勢のまま、じりじり
と距離を取ると、ぶるっと身を震わせて、己の羽を広げて見せた。 メタリックな黒色の表
羽根の下からあらわれた計四枚の薄い金色の羽には、鳥の目玉のような気味の悪い模様があった。 巨虫は、その羽を高々とうち広げ、振り動かす。 羽と腹部がこすれて、ビィーン
ビィーンと音を立てた。
これは この種の虫特有の、威嚇のポーズだ。 己を大きく見せつける事によって相手を
脅かすのである。
「・・・・・」
桂花は、いつでも動けるよう膝をおった姿勢で体を半身にし、威嚇する蟷螂と睨み合いな
がら、片手を白い長衣の裾前に手を這わせた。
白い長衣の下に桂花は動きやすいシャツと短い丈の下履きを身につけている。 その腿に
は数本の短剣をつけた特殊な剣帯を巻いているのだ。
この虫の前脚の動きはおそろしく鋭く、速い。 武器の一つも持たずに、こんな巨大で危
険な虫と闘うのは無謀だ。
動くのに邪魔な長衣を脱ぎ捨てたかったが、そんな時間はなかった。 下手に動けば巨虫
の攻撃を受ける事になる。 桂花は腿に巻いた剣帯とその短剣の位置を指先で探り当てると、
一気に長衣の裾前を大きく後ろに払って剣帯を巻いた方の足をむき出しにし、短剣を引き抜
こうとし――――
「―――・・・っ?!」
桂花は愕然とした。 短剣の鞘が払えないのだ。
短剣は剣帯に鞘を固定する形で、柄を留める金具を外し、掴んで払えばすぐ抜けるように
してある。常時使用できるよう、日々の手入れと点検は欠かしていない。今日も執務室に入
る前にきちんと点検をした。その時にはちゃんと抜けた。
金具を外すところまでは、いつもどおりだった。現に自分の手は、短剣の柄を握っている。
―――その手が。
「・・・・・!!!」
手が、体が、桂花の意志に反して、全力で剣を抜く事を拒んでいるのだ!
「桂花!」
風切音と共に繰り出されてきた黒い鎌の一閃を、桂花は首を反らせ、かろうじて避けた。
次に横合いから来た鎌をとっさに桂花は掴んで止めた。 鋭いのこぎり状の突起が手のひ
らに食い込み、白い血が滴った。
しかし桂花は今、滴る血や、巨虫の攻撃よりも、別の事に驚愕していた。
(・・・これが、守天殿の、呪―――!)
執務室では武器は使えない。これは、誰もが知る事実だ。 しかし、武器の持ち込みは許
されている事を桂花は常々不思議に思っていた。武器を使用してはならないのなら、最初か
ら扉を護る衛士にでも渡しておけばよいのではないかと。
しかしそうではなかった。使わない事を強制されているのではなく、最初から、使おうと
しても、使えなかったのだ。
・・・執務室に足を踏み入れる者は、それが例え己にとって命に関わる危機であろうとも、
『傷つける道具である 武器を 決して 使ってはならない』と、脳に直接刷り込まれる
―――――それは そういう 呪 なのだ。
「・・・桂花!」
床に滴る白い血に、ティアが息をのんだ。
「守天殿! 武器の使用許可を!」
桂花の声にティアはハッと顔を上げ、一瞬より短い躊躇の後、短く叫んだ。
「・・・承認する!」
ティアの言葉と共に、執務室の空気が一瞬揺らいだ。
そして腕と手にかかる重圧が消えた瞬間、桂花は短剣を抜き放つと、剣先を虫の脚の関節
部分に突き入れるなり、斬りとばしていた。
続きを読む |
このページのTOPに戻る |
花稀さん目次TOPに戻る