悲劇(1977.10.20)

アルバム「ストリート・サーヴァイヴァーズ」は1977年10月17日にリリースされ、そして3ヵ月間予定されていたツアーの最初の週、1977年10月20日午後6時42分、レーナード・スキナードの1947年型コンベア240ターボ・プロップ機は"不可抗力によるエンジンの不調"により燃料切れを起こし、緊急着陸を試みたものの、ミシシッピ州マッコム付近の森林に墜落した。その衝撃でロニー・ヴァン・ザント、スティーヴ・ゲインズ、キャシー・ゲインズ、アシスタント・ロード・マネージャーのディーン・キルパトリック、そして操縦士のウォルター・マックレリー(Walter McCreary) 、副操縦士のウィリアム・グレイ(William Gray)が即死した。その他のメンバーやスタッフも全員重傷を負い、半永久的な肉体的ダメージを受けた。


ミシシッピ州ギルスバーグ発のUPI共同電は次のような悲報を伝えた。
<米航空局(FAA)21日の発表によると、米国の人気ロック・バンド「レーナード・スキナード」のメンバーら25人が乗ったコンベア240機が同日、ミシシッピ州ギルスバーグ北東3キロの森林に墜落した。FAAは乗員、乗客のうち「生存者はわずかで大部分が死亡した。」との報告を受けている。同機はサウス・カロライナ州グリンヴィルからルイジアナ州バトンルージュへ向かう途中だった。>

UPI共同電の報道は、その後、<負傷者が収容された病院の当局者は、21日、「6人の遺体が確認され、その内の3人はロック・グループのリード・ボーカルのロニー・ヴァンザント、ギターのスティーヴ・ゲインズ、その姉でボーカルのキャシーである。」>と述べた。一方、連邦航空局(FAA)のスポークスマンは、<燃料が切れていた。死亡者のほか全員が負傷しており、8人が重態である。>と発表した。

NTSB報告によればパイロットは 1977年10月18日、フロリダ(Florida) 、レイクランド(Lakeland) で供給された燃料の量の計算違いをした。 彼らが20日にサウスカロライナ (South Carolina) ・グリーンビル (Greenville)で燃料補給した時、彼らは、実際に補給したよりも多くの燃料が残っていると信じこんだという間違いを重ねてしまった。飛行機は同時に、右のエンジンが極端な率で燃料を消費することを示す自動燃料計器で操縦するということを、パイロットに要求する機械的ないくつかの故障を経験していた。これらの組み合わさった問題は、ほとんど満タンな燃料を使い尽くすという結果をもたらした。 パイロットはコースを変えて、ミシシッピ (Mississippi) ・マッコム(McComb)の近くで空港に向かって進んだ。しかし飛行機は ミシシッピ (Mississippi)・ギルスバーグ(Gillsburg)の近くで動かなくなり、沼が多い森に墜落した。

スキナードはサウス・カロライナ州グリンヴィルから次の公演地、ルイジアナ州バトンルージュへ向かう途中だった。機体は、燃料にトラブルをかかえ、緊急着陸をしようと低空飛行、森林地帯の木を100ヤードほどこすり、湿地帯に激突した。10人以上の乗客が機外へと放り出された。スキナードのメンバーではロニー、スティーヴ、キャシーが、またアシスタント・ロード・マネージャーのディーン・キルパトリック、操縦士、副操縦士の計6人が、病院に向かう途中、あるいは病院で死亡という悲惨な事故になった。残りのメンバーでは、アレンが脊髄骨折。だが幸運にも後遺症は残らずに回復。重傷で緊急手術が施されたゲイリー、レオン、ビリーも快方へと向かった。

スキナードの悲劇的な飛行機事故の顛末を、ビリー・パウエルはこう語った。
「77年10月20日午後、キャシー・ゲインズは、ノースカロライナ州グリーンヴィルでバンドのチャーター機に乗り込んでいた。この1948年製のコンヴェア機はフロリダからの途上でちょっとした故障を起こしていたから、キャシーはいったんは、この飛行機には2度と乗らないと決めて、国内線の座席を予約していたが、考え直してみると自分の行動が少し馬鹿らしく思えてきて、予約をキャンセルしたのだった。それから2時間半、何事もなかった飛行機の右エンジンが突然音を出して止まってしまった。パイロットはヒューストンの管制塔にミシシッピ州マッコムの滑走路への誘導を頼んだが、そうこうしているうちに左のエンジンも止まってしまった。パイロットは若くて、前日飲んだ酒の酔いがまだ残っていたせいもあるのか、パニックのあまり間違って燃料を捨ててしまった。パイロットが何とか皆に席に着いてベルトを締めるように告げると、バンドのメンバーは皆すぐにシートベルトを締めた。が、ロニーだけは床で寝ていた。そこでアーティマスが彼を起こして席に座らせたが、ベルトを締めさせる暇はなかった。

"機体は時速約140キロで木々に突っ込んだ。まるで金属缶の中にいて外からバットで叩かれたような感じだった。機体の後部が切断され、コックピットが折れ曲がり、両翼も壊れた。胴体は横倒しになって、皆前方に投げ出された。ロニーは木に時速約130キロで突っ込んで、頭をやられて即死だった。ロニーはこめかみに小さな打撲傷を負った以外、傷は負わなかった。俺はぼうっとしながらも歩き出した。あの事故のひどさは説明できないほどだ。パイロットは首が飛んで、胴体は木にぶらさがっていたし、ディーンは機体の胴体の一部が背中に刺さってうつぶせに死んでいた。キャシーは左耳から右耳まで裂けて血を吹き出して、俺の目の前で死んだ。

レオンは叫んでいた。日が暮れかかっていて、しかも深さ2フィートの沼地に埋まっていたから、救助のヘリは着地できなかった。 アーティマスは肋骨が3本胸から突き出している状態で、なんとか1.2キロ離れた近くの農家まで救援を頼みに行った。 "ヘリコプターが入れないために、地元の農夫たちがまだ生きている負傷者を一人ずつ泥から引っ張りあげてくれるのを待つしかなかった。でも、やってきたのは救援だけではなかった。警察と救急隊が森にブルドーザーで緊急の道を作っている最中に、ハゲワシのような連中が現場にやってきていた。彼らは俺達を助けるどころか、死体と生存者の両方のポケットや持ち物を漁って、金になるもりそうなものを見つけてはかっさらっていった。とくに貴重だったのは、どんなものでも、この有名なロックバンドの名前が入っているものだった。ある推測によると、その夜、事故現場には3,000人が訪れたという。死体は翌朝片づけられた。」

ビリーは、また、別のインタヴューでもこのように語っている。「俺はすべて詳細に憶えていることに悩まされた。俺は意識不明になるまでやられなかった。お恐ろしかったし信じられなかった。言いようも無く、思い出したくないほど恐ろしかった。ヤシの木と沼の上空を滑空して15分で死ぬことを知った時、それは恐怖さ。 何も出来ないんだぜ。そいつは、まるでごみ箱の中で、回転しながら150本のバットで叩かれた感じさ。衝撃でシートベルトの全部が壊れた。酸素マスクはみんなすっ飛んで、鉄の棒が俺の腕をすり抜けて行った。レオンは凍りついていて、やつの器官は胸に押し出され、歯はガタガタだった。そこで俺は自分の鼻をもとに戻そうとしたんだ。これが、事故について俺が君に言えるすべてさ。3年間、俺たちができたことは、俺たちの活動のピークになぜ神はこれをしたか尋ねることだったんだ。飛行機の前方にいた人は重傷か死んでいた。後部にいた人は、夕日が沈み、ワニとヘビがそこら中にいる1から2フィートの深さの泥の沼で、ぼう然として外に出て歩き回っていた。」

また、ゲイリー・ロシントンは、現在、このように語る。「俺は、時々、事故について思い出さなければならないんだ。みんなが俺に聞くのさ。それは10月で、再会する月であり事故のすべてなんだ。みんなは事故を思い出す。劇的な何かが起こった時、みんなはいつもあの事故を思い出すんだ。みんなは、親父が亡くなった時や、犬が亡くなった時に思い出す。俺の父親は、俺が10歳の時に死んだ。それはその時まで俺に起こった唯一の最大事だった。 空から落ち、ベトナムや何かのような沼で、周りの人々が死に、すべての友達、家族の亡骸、金切り声、金属と炎に包まれた中で、横たわりながら何時間も助けを求めて待っている。それは耐え難いことだ。本当に異常だ。しかし神は、肉体にも精神にも、すべての悪い出来事と最悪な痛みを忘れる力を与えてくれる。真にあの事故と一緒に生きることを学ぶんだ。俺はそうした。今のバンドのメンバー全員は、俺たちを理解して活動したんだ。」

また、生前のロニーがいかに重要な存在だったかは、アーティマスが次のように語っている。 「バンドのメンバーはみんな、若い時に実の父親を亡くしていた。だから、ロニーと出会ったとき、まるで彼を父親のように慕い始めたんだ。」「ロニーも実の親のように、バンドでは暴君だった。細かい方針とかでロニーと議論することはできても、それは彼のバンドだった。彼のショーで、彼の夢だった。俺達は彼の世界を借りていただけなんだ。」

ロニーの棺は、「人々が自分の体をぼう然と見るのを決して望まない」というロニーの生前の遺言により、閉じられたままだった。ジュディ夫人は、ロニーがいつも言っていた遺言である願いを尊重することを望んだ。過去20年にわたって墜落によってロニー がものすごく損なわれているか、あるいは衝突で首を切り落とされてしまったといった多くのうわさと物語に発展した。これは全く真実ではない。ロニー は、こめかみのおよそ4分の1を傷つけた。むしろ、ジュディとロニーの父、レイシーには、ロニーがただ眠っているように見えた。

遺作となった「ストリート・サーヴァイヴァーズ」に入っている「ザット・スメル」の「お前らの周りには死の匂いがする」という歌詞は、不吉な予兆であったかのようだ。事故の数日前にリリースされたこのアルバムは、当初、メンバーが炎に包まれたイメージがカヴァーだったが、事故の後、MCAは裏ジャケに使われていた写真を使ってカヴァーが変更された。
また、1978年に発売されたシングル "What's Your Name"は13位となり、"You Got That Right"もチャート入りした。

皮肉なことに、この墜落事故は、レーナード・スキナードの名前をそれまでになかったほど全米的なものにし、彼らの"サヴァイヴァー・ツアー"が払拭しようとしていた向こう見ずなイメージを悲劇的な形で強める結果となってしまったのだった。その事故はレーナード・スキナードが広範囲な支持を受け始め、スティーヴ・ゲインズが充分に馴染んだ直後だっただけに、ロックン・ロール史上、最も悲劇的な出来事となった。

ロニー、スティーヴ、キャシーを失ったスキナードは、グループを存続させることができず、事故の以前から予定されていたアル・クーパーに見出される前、1970年から1972年までの最初期の音源を1978年に「ファースト&ラスト」として発表し解散した。



解散後、ファンはスキナードを忘れず、MCAは、1979年にベスト・アルバム「ゴールド&プラチナ」(日本盤未発売)を発表、トップ15に入り、「ファーストアンド・ラスト」に続き、4枚連続のプラチナ・ディスクに輝いた。
1982年に未発表曲2曲を含んだベスト・アルバム「ベスト・オブ・ザ・レスト」(日本盤未発売)、1987年に未発表曲作品集「レジェンド」(日本盤名「伝説」)、1989年未発表テイク2曲を含んだベスト・アルバム「スキナーズ・イナーズ」、そして1991年には未発表ヴァージョンをふんだんに盛り込んだ3枚組のCDボックス・セット「レーナード・スキナード」を、1998年には未発表バージョンを含むベスト・アルバム「エッセンシャル・レーナード・スキナード」、デヴュー前のマッスル・ショールズの未発表曲を含む「スキナーズ・ファースト」を発表している。

MCA レコードはスキナードが過去の25年にわたって、3千万以上のレコードを売ったと推定する。スキナードは、WHOを含めたMCAの全てのアーチスト・リストにおいて、1のアーチストである。BMI によれば、フリー・バードはすべてのラジオ調査でトップに近い、2百万回以上がラジオでオンエアーされた。