復活(1990-)

当初一時的な予定だった再結成を、本格的なものにしようとする企画がすぐ持ち上がった。しかし、「レーナード・スキナード」の名前で再び活動するには、いくつも乗り越えなければいけない壁があった。ロニーとともに死んだはずのバンドを復活させることには、まずロニーの未亡人のジュディが反対した。実はメンバーたちは1977年にジュディの家で、スキナードは永久に封印するという約束をしていた。ジュディはスティーヴの未亡人とともに訴訟を起こし、結局名前を使うことを認める代わりに、印税を両未亡人にも支払い、且つこの名を使う限り、オリジナル・メンバーのうち2人は残留しなければならないという内容で和解が成立した。ロニーなしでのバンド復活には、ファンの中にも反対する人々がたくさんいた。しかし、再出発するのに、事故の影を乗り越えなければならなかったのは、何よりもメンバーたち自身だった。レオンは、腕に死んだ3人の遺影を刺青として彫り込むことで、やっと前に踏み出す決意をした。

1987年に始まった再結成ツアーは、77年のあの日にバンドを乗せた飛行機が向かっていた幻の公演予定地、ルイジアナ州バトン・ルージュから始まって3年に及んだ。ここで本格的にバンドを再生させようと考えた彼らは、ロニーの弟ジョニー・ヴァン・ザントを正式なメンバーとして迎えることを計画した。すでに70年代末からソロ活動を開始し、トリビュート・ツアーの一部にもヴォーカルとしてゲスト参加していたジョニーだが、スキナードに正式に加入してロニーの影を背負うことには強いためらいを見せた。実はロニー自身が晩年、自分は引退して、弟のジョニーかポール・ロジャーズにヴォーカルを譲ろうと語っていたようだが、それでも兄の代役を務めるのはあまりの重責だった。ジョニーを最終的に説得したのは両親だった。

こうして、1991年、スキナードは再結成された。再結成のメンバーは、解散時のゲイリー、レオン、ビリー、アーティマスに、デヴュー時のメンバーで脱退していたエド・キング、ロニーの弟のジョニー、ギタリストのランドール・ホール、ドラマーにカスターというメンバー。プロデューサーには「ギミー・バック・マイ・ブレッツ」「レジェンド」をプロデュースしたトム・ダウドを迎え、「1991」を発表した。スキナードは1977年10月20日の悲劇の時に向かっていたルイジアナ州バトンルージュからツアーを開始した。そして、この年の11月、アーティマスを除いたメンバーで2度目の来日を果たした。(この年の1月にはオールマン・ブラザース・バンドも来日している。)


1993年、プロデューサーがトム・ダウドからバリー・ベケットにかわり、アーティマスが脱退。再結成後、2枚目のアルバム「ザ・ラスト・レベル」を発表した。このアルバムはスキナードがデヴューしてから20周年にあたる。バリーはアラバマのマッスル・ショールズ・スタジオのキーボード奏者として名高くウィルソン・ピケットやトラフィックをサポートしてきた人物である。



また、この1993年は、スキナードのデヴュー20周年の記念の年で、2月19日には「ワン・モア・フローム・ザ・ロード」を収録したアトランタのフォックス・シアターで記念コンサートが行われた。このスペシャルコンサートのゲストにはピーター・フランプトン、ザック・ワイルド、トム・キーファー(シンデレラ)、ブレット・マイケルズ(ポイズン)といった豪華メンバーであった。

1994年、スキナードはオールマン・ブラザース・バンドやウェット・ウィリー、マーシャル・タッカー・バンドを世に送り出したサザンロックの名レーベル「キャプリコーン・レコード」から、アンプラウグド・アルバム「エンデインジャード・スピーシーズ」を発表した。プロデューサーは前作ザ・ラスト・レベルに引き続きバリー・ベケット、メンバーはランドール、カスターが脱退し、ギタリストにマイク・エステス、ドラマーにオーエン・ハイルが加わった。キャプリコーン・レコード社長のフィル・ウォルデンは「これは長く待ち望まれた同窓会なんだ。レーナード・スキナードはアメリカのロック史上において最も重要なバンドのひとつであり、エンデインジャード・スピーシーズのアコースティック・パフォーマンスはこのバンドの素晴らしい音楽性にスポットを当てている。我々は彼らをキャプリコーン・ファミリーに迎えることが出来てとても光栄に思っている。」と契約発表の会見で語った。しかし、キャプリコーン・レコードからは、このエンデインジャード・スピーシーズ1枚しか発売されなかった。

スキナードがデヴューしたMCA/サウンド・オブ・サウスと契約する前、最初に声をかけられたレコード会社が、全盛期のキャプリコーン・レコードである。ロニーがオールマン、ウェット・ウィリーの下風になることを嫌い、契約拒否をしてから20年以上が経過した時点で、弱体したキャプリコーンと契約を交わした事実は、時間の経過とこれまでの出来事を思わずにいられない。

このアルバムを制作したきっかけをゲイリーはこう語った。「何年もアコースティック・アルバムをやりたかったんだ。全ての曲は俺たちが一緒にジャムったりして始まったし、作曲の時はいつもアコースティック・ギターをベースにしているから。これは俺たちにとってのルーツ・ミュージックを表現しているようなものなんだ。」

また、ジョニーは「バンドの新しい展望のようなものだね。より親密で舞台裏的なアルバムなのさ。みんなを俺たちのリヴィング・ルームに招待してプレイし、楽しむといったような、そういう性格のものなんだ。」と語った。

このアルバムの発売された1996年11月には、3度目の来日公演を果たした。しかしながら、コンサートは東京で原宿のNHKホールで1回、大阪IMPホールで1回、川崎のクラブチッタで3回、の計5回の公演だった。しかも、NHKホールでは、アリーナは満員の状況ながら、上の階の席はガラガラという寂しい状態だった。

1996年、エンデインジャード・スピーシーズと同じメンバーによる米国でのライヴ・アルバム「サザン・ナイツ」がドイツ盤で発売された。このアルバムは米国盤としては発売されていない。(当然の事ながら日本盤も未発売)このアルバムを最後に、エド・キングとマイク・エステスはバンドを離れた。



エドは重い心臓病で入院しバンド活動から離れたが、全快してからもスナードには戻らなかった。このことは、エドがあの1977年の悲劇を共通の体験としていないことや、彼がアメリカ南部出身ではないことが原因ではないかと言われている。エドは"BONNIE BLUE BAND"という新バンドを1998年に結成したが、1999年3月、1枚のアルバムも発表しないまま活動を休止してしまった。またマイクは新しいバンドを結成後、更に1998年にアーティマス・パイルと「オール・ポイント・ブレッティン・バンド(APB)」を結成し活動している。

また、この1996年、スキナードは、1976年8月21日の有名なネブワース・フェスティヴァルを映画およびCDとして「フリーバード…ザ・ムービー」を発表した。ロニーがいつものように帽子をかぶりながら、それまで十分に人気を獲得できなかったイギリスで、ついに歓声に迎えられている様子、そしてオフロードの映像など貴重な資料が含まれている。



1977年の悲劇から20年後の1997年、スキナードはアルバム「トウェンティ」を移籍したCMCインターナショナル・レコードから発表した。プロデュースはジョシュ・レオにかわった。このアルバムから、デヴュー前の一時期ににスキナードのメンバーだった、ブラックフットのリーダー、ギタリスト(スキナード在籍時はドラムス)のリッキー・メドロックと、ロニーがバンド名の命名者であるアウトローズのギタリスト、ヒューイ・トマソンが加入した。スキナードにこのギタリストの二人が加入したことは、スキナード・ファミリーの総力を結集させた感じがある。



このアルバムのジャケットには事故で亡くなったロニー、スティーヴ、キャシー、アシスタント・ロード・マネージャーのディーン・キルパトリックとアレンを表わした5つの星が描かれている。また、ライヴアルバム「ワン・モア・フローム・ザ・ロード」の「トラヴェリンマン」からロニーのヴォーカルを抜き取り、現在のスキナードによるレコーディングと重ね、更にジョニーのヴォーカルを重ねる工夫がなされている。また、トウェンティの日本盤に付されているファミリーツリーを制作したのは、このホームページにスキナードの情報を伝えて頂いている崎田氏である。

1998年、トウェンティのメンバーによるライヴ・アルバム「ライヴ・フローム・スティール・タウン」が発表され、同時に同内容のビデオも発売された。米国盤は2枚組みで15曲、日本版は1枚で3曲少ない12曲である。ライヴは、1997年7月15日にペンシルヴァニア州の鉄の街、ピッツバーグで録音されている。このライヴ・アルバム発表後、ドラマーがオーウェン・ホールから、Hank Wiliams, JrやPoint Blankのレコーディング・アーチスト、ジェフ・マカリスターにメンバーチェンジしている。


1999年、まず日本のファンに飛び込んできたニュースは、"Free Bird... The Movie"の日本版のビデオとレーザーディスクの発売である。既に米国版が発売されていたが、やはり日本のファンにとって、字幕スーパー付きとなったのは嬉しい限りである。4月17日にVap Videoより発売されたが、初版は完売だったようだ。


スキナードは1999年2月より、ニューアルバムのレコーディングに入ったが、ジョニーが喉を傷め、6月に発売予定であった"Edge Of Forever"は8月に延期となった。また、ジョニーに続きレオンも体調を崩しツアーは順延となった。しかし、二人とも回復しツアーは開始され9月からは ZZ TOPとのジョイント・ツアーが予定されている。

ニューアルバム"Edge Of Forever"でスキナードは、ドラマーをセッション・ドラマーでジョン・メレンキャンプ、ジョン・フォガティ、スマッシング・パンプキンズでプレイしていたケニー・アーノフを起用した。アルバムの内容は前作"Twenty"から更に、前期スキナード色が薄れ、1980年代の38 Specialのような音作りとなったしまった。往年のファンとしては寂しい限りである。アルバム発売前に、正式ドラマーは元Damn Yankeesのマイケル・カテローンにメンバーチェンジしている。

2000年6月29日、とんでもない事件がスキナードの故郷であるジャクソンビルで発生した。ロニーとスティーブの墓が心無き破壊者によって暴かれたのである。犯人は未だに逮捕されていないが、何の目的でこのようなことがおこったのか謎である。

2000年9月には、クリスマスアルバム"Christmas Time Again"を発表した。レオンは1999年12月に病気で倒れ、2000年のライヴには代役が出演しており、また、このアルバムにもメンバーのクレジットにはあるものの、レコーディングには全く参加していない。このアルバムには、チャーリー・ダニエルズ、38 Specialの曲も挿入されている。


再結成後のスキナードは、ニューアルバムを発売後のコンサートでは、そのアルバムから数曲を演奏するものの、次のアルバム発表後は、前のアルバムの曲は演奏しない状況が続いている。ファンはロニーが亡くなる前の曲を聞くためにコンサート会場に足を運び、現在のスキナードは、それを理解してコンサートの選曲を行っているのだろう。残されたメンバーの活躍を期待したい。


この「レーナード・スキナードの軌跡」を製作するにあたり、崎田憲一氏、金子真樹氏から多大なご協力を頂きました。ありがとうございました。

また、むさし氏制作「洋楽専科/夜明けの口笛吹き」というホームページで掲載されている、「リーダー亡きバンドたち/Ronnie Van Zant and Lynyrd Skynyrd」の使用を快諾頂き御礼申し上げます。


参考:

1.レーナード・スキナード・ボックス/ライナー・ノーツ

「ロン・オブライエン&アンディ・マッケイ」(翻訳:武内 邦愛氏)

「ジョン・スウェンソン」(翻訳:武内 邦愛氏)

2.レーナード・スキナードLP・CD/各ライナーノーツ

3.フリーバード・ファウンデーション/ホーム・ページ

4.夜明けの口笛吹き/ホーム・ページ(むさし氏)

5.The Billboard Interview by John Swenson