結成(1964-1972)

屈強な元ボクサーのトラック運転手レイシー・ヴァン・ザントと妻のマリオンが娘3人息子3人(ロニー、ドニー、ジョニー)を育てるために落ち着いたのは、荒っぽいジャクソンヴィルのウェストサイドだった。長男のロニーは労働者階級の隣人たちのことをこう評していた。「特に俺が育った辺りは柄が悪かった。まるでゲットーさ。黒人と白人が入り乱れて、通りではしょっちゅうケンカが絶えなかった。」


レイシーは息子にボクシングを教え、ロニーはジャンティタウンの通りでトラブルに巻き込まれたり、野球をしたり、近くの川で魚を釣ったりして育った。そしてもうひとつの趣味が音楽だった。彼は幼い頃から教会の黒人女性ゴスペル・コーラスに混じって歌っていた。


しかし彼にはもうひとつの関心のある音楽があった。シャンティタウンの隣人の一人に、以前ジョージア州で小作農をしていた老人がいて、彼はポーチで安っぽい"スワンプ・カントリー"のブルースを弾いていた。若き日のロニーはショーティ・メドロックというその老人の演奏やアドバイスを聞いて何時間も過ごした。「決して音楽をやめるなよ。」とショーティーはこの熱心な若者に言った。


もうひとつ音楽的影響を与えたものに。父親のディーゼル・トラックに備え付けられていたラジオがあった。ロニーは時折東海岸を走る父親の車に乗り、遥か北のニューヨークまでハイウェイを突っ走ることもあった。その旅にはAMラジオのサウンドが欠かせなかった。もちろんその中にはロニーのお気に入りのマール・ハガードのカントリー・ミュージックも含まれていた。


1964年の16才のとき、ロニーは"Us"という名前のバンドに、黒人系のデルタ・ミュージックと都会的なR&Bをブレンドした彼らの音楽の前面に立つリード・シンガーは要らないかと申し出た。"Us"はしばしば地元の他のスクール・グループと比較された。その中には一段とスケールの大きなフォレスト・ハイ・スクールのライバル"THE MODS"があり、そこには13才でギターを独学したアレン・コリンズがいた。グループ名がしめすように"THE MODS"は英国のバンドに影響を受けたロックン・ロールを演奏していた。


"Us"が解散したとき、ある英国のグループがロニーのすべてを変えた。このバンドは"スワンプ・カントリー"に勝るとも劣らないむき出しのエナジーと、よりスピード感のある情熱的なビートを持っていた。アンプを通したギターのサウンドは10代のファンの絶叫と充分に渡り合っていた。屈強なルックスのその反逆者たちの名前はローリング・ストーンズだった。彼らの音楽を初めて聞いたときのことをロニーは決して忘れないという。その時からロニーは米国版のローリング・ストーンズを結成しようと夢を密かに描くようになった。


「自分の好みに合った仲間を一人一人選んでいったんだ。」夢を果たすためのバンドの実現についてロニーはそう語る。まず彼はドラム・セットを持っていた近所のボブ・バーンズに声を掛けた。ロニーがボブに、ギターを持っている奴がいないかと尋ねると、彼は13才の学校の友達、ゲイリー・ロシントンはどうだと言った。次にゲイリーが、ベース・ギターを持っているラリー・ジュンストームを紹介した。足りないのはあと二つ、アンプと演奏能力だけだった。その両方をもっていたのが"MODS"のギタリスト、アレン・コリンズだった。全員が彼のことを知っていた。


ゲイリーは当時の経緯をこう語っている。

「俺とボブ・バーンズ は小さいバンドをやっていた。そしてロニーは「Us」というバンドにいて、アレンは「Mods」というバンドにいた。おれたちのバンドは「Me, You, and Him」という名前だった。 ラリーも俺たちとプレイしていた。俺とボブは、ある日ロニーが野球をするのを見に行った。ロニーはあるチームにいて、俺たちはMustangsと呼ばれるチームにいた。俺たちは三塁側にいると、ロニーはライナーでヒットを打ち、ドスンという音がしてボブの頭に当たり、彼をノックアウトした。ロニーはボブを殺してしまったと思い、駆けつけてきた。


それから俺たちはボブの家に戻り話をした。ロニーはすぐそばに住んでいた。彼はドラムとギターを見つけ、俺たちはストーンズの「LastTime」と「Gloria」をプレーし始めた。 俺たちははその日バンドを結成し、アレン・コリンズ を捕まえにいった。アレンは自転車を走らせていた。ロニーは街の悪で、でかくて古い赤のムスタング を持っていた。俺とボブはロニーの車に乗り、町を走っていた時にアレンを見つけ、ボブがこう言った「おい、奴はギターを持ってて、しかも結構うまいんだぜ、ロニー」。俺たちは器材を持ってる奴を探していた。

俺たちは車を止めて叫んだ「おい、アレン!」。するとアレンはロニーとボブを見て、やばいと思い、自転車で森の中に逃げ込み、自転車を投げ捨てて、でかい古い樫の木に登った。 俺たちは、「さあ早く下りてこいよ。俺たちは一緒にバンドをやりたいだけさ」って言った。でも、アレンはロニーにぶっ飛ばされると思っていたんだ。それから俺たちは、俺たちが好きだったビートルズやストーンズ、ヤードバーズの曲を演奏し始め、夢を見始めた。でも、夢は実現したのさ。」

また、別のインタヴューでゲイリーは「もし、ロニーがあのファウルボールを打たなかったら、スキナードは結成されていなかっただろう。」と語っている。

ロニーとゲイリーの話は、多少食い違うが、1998年にゲイリーが語った話が詳細であり真実のようだ。

1965年、こうして"My Backyard"というグループが結成され、 さらに、"The Noble Five"というバンド名に変えた。彼らはブリティッシュ・ロック・インヴェイジョンの最初の波を手本にした。ザ・ヤードバーズやクリーム、ジミ・ヘンドリックスなど、誰もがエコーやフィードバックやディストーションでいっぱいのハードで強烈なロックを演奏していた。その新しいメタリックなサウンドを、メディアは"サイケデリック"と呼んだ。


THE NOBLE FIVE は放課後に練習し、ロニーの車にすべての器材を積み込んで地元のパーティーやダンスに出かけ、飲み代とガソリン代に見合うだけの演奏をした。1台のアンプに詰め込んだ5人のサウンドは充分というにはほど遠かった。「演奏を始めるたびにゾッとしたよ。」ロニーは笑っていた。

彼らはボブ・バーンズの両親のガレージで練習をしている時、5人はドアをノックする音を聞いたと思ったが、そこには誰もいなかった。「きっと(体育コーチの)レナードだろ」とバーンズは笑い飛ばした。電話が鳴り、受話器を取ったら誰もでないということもあった。バーンズは「またレナードだ」と言った。やがてこれがグループのお決まりのギャグになり、ついには彼らのグループ名のきっかけとなった。

少年たちは、ビートルズ、ストーンズ、ヤードバーズといった英国のバンドに影響を受け、髪を長い間切らずに眉や耳まで伸ばした。ロバート・E・リー高等学校 (Robert E. Lee High School)には厳しい服装規定があった。ボブとゲイリーは髪を伸ばした最新のロックン・ロール・ファッションで問題にぶち当たった。彼らは普段のクラスではグリースで髪の毛を後ろに寝かしつけていたが、体育の授業後、シャワーの時間にコーチのレオナルド・スキナーはしばしば髪の毛を問題にして彼らを捕まえ、吊し上げた。繰り返し吊し上げられることにウンザリした彼らは、バンドに専念する道を選び、1969年までに皆、16才で学校を辞めた。


5人は落胆したが、バンド活動に専念するために昼間の仕事を持った。彼らはまた練習の騒音に対する苦情とも常に闘い続けなければならなかった。そこで彼らは練習場所を街の外に探した。そしてジャクソンヴィルの南20マイルのグリーン・コウヴ・スプリングという町の近くに、のちに"ヘル・ハウス"という名で知られることになる人家から離れた「牛とマッシュルーム」しかない99エイカーの農場を見つけた。夏のフロリダで、トタン屋根のエアコンの無い小屋は特に暑かった。

本当の話か定かでないが、こんな話もある。「スキナードは、ステージやスクリーンライトの下で動いた後、他のグループが汗だくになっているの比べ、難なくライヴを切り抜けた。スキナードは、華氏200度のヘル・ハウスの温度に慣れていて暑さを我慢することが出来た。」

スキナードの音楽は、この小さな家で生まれたのだった。ロニーは汗臭い間に合わせのスタジオで頑張り、バンドはレコードを作るという当面の目標のために曲を書き始めた。ヘル・ハウスは夜明けから日没まで週7日フルに利用された。曲のアイデアは、ゲイリーとロニーが家の裏の用水路に釣りに行った時など、静かな時間に生まれた。


ロニーはこう言っていた。「俺はまずメロディを先に探すんだ。それから次第に歌詞を付けていく。それからギタリストのところに持っていって全体のアレンジをやるんだ。」「俺は自分でみた場所や自分の経験した事など、ごく普通のことを書こうとしている。その方がより多くの人々に訴えかけられるからなんだ。」


やがてジャクソンヴィルにもカウンター・カルチャーの波が押し寄せてきた。そして"ザ・ウッドストック"や"フォレスト・イン"といったクラブが開店した。特に街の西のはずれにある後者はロニーやアレンを始め、グループのお気に入りの店になった。彼らはB級映画から取った名前で演奏していた。最初はヴィンセント・プライスのホラー映画から取った"CONQUERORWORM"で、次がヘルスエンジェルの映画から取った"ONE PRESENT"だった。

ゲイリーが学校を最初に辞めた数日後、フォレスト・インのある晩のステージで、ゲイリーがバンドを紹介した時、ロニーは「俺たちは"ONE PRESENT"だ。でも、俺たちは今晩バンド名を変えるつもりなんだ。 レナード・スキナーに。それを変えることを望む奴は拍手喝采してくれ。」
こうして、彼らは延々と続く冗談の中で高校時代の体育コーチのレナード・スキナー(Leonard Skinner)という変な名前をネタにした。ほとんどの客はスキナー・コーチのことを知っていて非常に受けたので、彼らはそれをグループ名にすることに決めた。もっとも罪を逃れるために母音はすべてYに変えられた。


1968年スキナードは地元ジャクソンヴィルのシェイド・ツリー・レーベルからデヴュー・シングル"Need All My Friends"を発表した。このシングル盤がどのような経緯で発表されたのかは不明である。


やがてジャクソンヴィルは進出してきたサザン・ロック・シーンの温床となっていった。ジョージア州メイコン出身のデュアン・オールマンは、ディッキー・ベッツ、ベリーオークリーをフューチャーしたセカンド・カミングとセッションを行ったが、新生のスキナードには影響を及ぼさなかった。1969年、オールマン・ブラザース・バンドのファースト・アルバムがリリースされた時、デキシーではブルース・ロックのリバイバルが全盛になった。レッド・ツェッペリンを筆頭とするブリティッシュ・ブルースの次の波がやって来た。スキナードにとって最も大きなインパクトのあったグループは、重厚なストンピング・サウンドを特徴とするパワフルなカルテット、フリーだった。ソウルフルなフリーのヴォーカリスト、ポール・ロジャースはたちどころにロニーのお気に入りのシンガー/作詞家の一人になった。一方ギタリスト、ポール・コゾフの"悲痛なまでものトレモロ"はゲイリーのディストーションを効かせた音色のヒントになった。


レーナード・スキナードは音楽的にもそれ以外の意味でも一つにまとまってきた。彼らはジャクソンヴィルのバンド・コンテストで優勝し、ウォームアップとして1967年の全米1ヒット「INCENSE AND PEPPEERMINTS」の遺産で食っていたストロベリー・アラーム・クロックのサポートで初めてのツアーに出た。そのツアーで稼いだ週50ドルの金は、彼らがジャクソンヴィルで演奏して稼いでいた額の2倍だった。彼らはツアーのためにローディーを集め始めた。そして最初に加わったのはディーン・キルパトリックとケヴィン・エルソン(のちにジャーニーのプロデュースを行い、「LYNYRD SKYNYRD 1991」のミキシングを担当した)だった。


1970年、レーナード・スキナードは結成5周年を迎え、ステージ回数も1000回を超した。彼らはマネージャーにキャピトル・レコード社長のフィル・ウォルデンの弟のアランを雇った。アランは主にソウル・グループのマネージングを行っていたが、スキナードのクインヴィー・スタジオでのデモテープ・レコーディングをアレンジした。そこはやがて隆盛を極める"もう一つの"ソウル・ミュージックの中心地、アラバマ州マッスル・ショールズのすぐ近郊にあった。


「フリー・バード」もクインヴィー・スタジオで録られた作品の一つだった。ロックの叙事詩は既に形成されつつあったのだ。実はアレンはメンバーに聞かせる半年前にこの曲を作っていた。しかしロニーは最初、コードを多用したこの曲に歌詞を付けるのに反対した。しかし最終的に「フリーバード」の歌詞を書き上げた彼はアレンにメロディを付けてくれと言った。しかし「フリーバード」の最初のヴァージョンはファンには受けなかった。あの空を翔けるような"Can't chan-a-ang-ange…"というアップテンポのアクセント的部分をアレンが加えて始めて曲は人気を得るようになったのだ。彼らが初めてこの新しいアレンジを披露したのはジャクソンヴィルのアート・ミュージアムで、反応は非常に良かった。

スキナード結成時からのメンバーであるラリー・ジャンストロームはこの時期に脱退したようだ。この後、ラリーは1978年にロニーの弟であるドニー・ヴァンザント率いる38スペシャルのメンバーとなり現在も在籍している。


マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオのジミー・ジョンソンはクインヴィーで録られたデモテープの特にギターとロニーの声に感動した。ジョンソンはレコーディング契約が他の会社に売られた場合を考えると、プロデューサーの取り分だけしかなくとも、これだけの素材を持つアルバムをプロデュースすることの意味を熟知していた。

1971年、南部をメインとしたツアーの後、2枚目のシングル"I've Been Your Fool"を発表した。デヴュー・シングル"Need All My Friends"と同様、発表の経緯やレーベルなどは定かでない。


スキナードのメンバーは金を借り、マッスル・ショールズのサウンドをレコーディングするために北アラバマのシェフィールドという小さな村に向かった。クルーの8人はトラック駐車場にある2つの部屋に泊まった。初期のマッスル・ショールズ時代にドラマーと、時にはリード・ヴォーカリストも担当したのは、のちにブラックフットに入ったリッキー・メドロック(現レーナード・スキナードのギター)と、ベーシストのグレッグ・ウォーカーだった。レオン・ウィルクソンは二度目のセッションの終わりにスキナードに加わった。最初のセッションは71年の春に、2度目は秋に行われた。

ドラムのボブ・バーンズは、71年の春のセッションには、理由は定かでないが参加していない。ロニーはボブの代わりにかねてから知り合いであった、リッキー・メドロックにボブが復帰するまでという条件でスキナードに誘った。この当時、スキナードはオールマン・ブラザース・バンドを真似て、ダブルドラムスにしようとした時期があったようだ。ボブ・バーンズとリッキー・メドロックの2人のドラマーが写っている右の写真はその頃のものだと思われる。リッキーとグレッグはレコーディングの後、1979年にバンド名を「ブラックフット」としてデヴューし、アメリカのバンドでありながらヨーロッパで活躍した。リッキーは1997年に現スキナードのメンバーとなっている。


事実上彼らにレコーディングの方法を教え、ベースとドラムスのリズム・セクションをまとめ、レコーディングのプロセスを通じて原曲のもつフィーリングを保つ方法を教えたのは、ジミー・ジョンソンとプロダクション・パートナーのティム・スミスだった。スキナードはエンジニアたちに夜通しのセッションの間の忍耐を教えた。彼らはスタジオの空き時間がある時をねらっては、レコーディングしなければならず、時には真夜中になることもあったが、ともかくレコーディングは終了した。「ワン・モア・タイム」に始まり「フリー・バード」「アイ・エイント・ザ・ワン」「トラスト」「ギミー・スリー・ステップス」などのオリジナル・マルチトラック・ヴァージョンの他の12曲をレコーディングしたのだ。ロニーはのちにマッスル・ショールズのクルーからグループが学んだ恩恵を強調する意味で「スウィート・ホーム・アラバマ」の一節を取って、彼らに愛情をこめて"ザ・スワンパーズ"と呼んだ。


マネージャーのウォルデンはマッスル・ショールズのテープを売り歩いたが応じる者はなかった。わずかにブラザー・フィルのキャプリコーン・レーベルだけが興味を示したが、ロニーはレーベルの稼ぎ頭であるオールマンやマーショル・タッカー・バンド、ウェット・ウィリーなどの陰に埋もれてしまうという理由で拒絶した。


落胆したスキナードはジャクソンヴィルに戻ったが歓迎はされなかった。彼らの根無し草的なサウンドは地元の興行主たちにそっぽを向かれたのでグループはアトランタに移動し、街で一番危険なバーとして名高いフーノチオーズを臨時の根城にした。銃撃事件や殺傷事件は毎晩のことだったが、グループはこのクラブで演奏するためにジャクソンヴィルから頻繁に通った。費用はロニーの新しい妻ジュディから借りたものだったが、彼女は確実に返済を受けた。

ロニーは1969年にジュディに会っていた。その頃。バンドはまだ彼ら自身を"ONE PRESENT"と呼んでいて、たいていクリームとやC.C.R.のカバーを演奏していた。 彼女はロニーのキャリアを通して彼と一緒であり、そしてのめり込んでいるミュージシャンとの結婚についてこう語っている。「私は彼の音楽がロニーにとって最も重要なものであったと理解した。 あなたがミュージシャンと結婚するとき、あなたは、彼らの音楽が何よりもまず第一にであることを理解しなければならない。 それは異なったライフ・スタイルである。」

ピアニストのビリー・パウエルは、この頃スキナードのメンバーになった。1970年、彼は現38スペシャルのドニー・ヴァン・ザント(ロニーの弟)とドン・バーンズと伴に「Alice Marr」というバンドに参加しながら、スキナードのローディーをしていた。1972年、スキナードがBolles Schoolのダンスパーティーで演奏することを依頼され、彼はスキナードの器材を準備している時に、ステージの隅にピアノが置いてあることに気づき、スキナードのメンバーにフリー・バードを演奏した。ロニーはすぐさまビリーをバンドに誘った。最終的には1972年に彼はスキナードのメンバーとなった。

バンドを始めた当時をビリーはこう語っている。

「俺ははレオンのバンド、「Little Black Eggs」でギターを弾いた。 俺はそれまで何年間もクラシック・ピアノのレッスンをやっていた。それからある日、俺ははギターを選ぶことに決めて、俺たちは次の日からバンドを始めた。 俺たちは1曲だけしか知らなかった。アレンは後に俺に「Light My Fire」のプレイを教えたのさ。」