飛翔(1973)

1968年にはBlood, Sweat & Tearsを率い、プロデューサーでもありパフォーマーでもあったアル・クーパーは1969年に行われた最初のアトランタ・ポップ・フェスティヴァルに出演して以来ずっとアトランタを訪れていた。当時サザン・ロック・シーンは急速に発展していたが、アトランタ周辺には才能あるミュージシャンが多くいることをクーパーは気づいていた。クーパーはすでにアルバム「BRINGING IT ALL BACK HOME」でボブ・ディランの初めてのエレクトリック・バンドと共演したり、ニューヨークの実験バンド、ブルース・プロジェクトでキーボーディスト兼フロントマンを演じたり、ブラッド・スウェット&ティアーズでジャズやR&Bホーンをロック・バンドと組み合わせたりという、ロックン・ロールの歴史上重要ないくつかのポイントを経験していた。したがって、彼が次の時代のローリング・ストーンズになるであろうバンドを組むと豪語しても、彼の話に少なから興味をそそられるのは無理からぬことだった。

1973年、アルはアトランタのスタジオ・ワンで、1971年にデビューしていたアトランタ・リズム・セクションと彼自身のアルバム「NAKED SONGS」のレコーディングを行った。彼はレコーディングの合間に覗いたクラブでモーズジョーンズなどのバンドに衝撃を受けたことをきっかけに、サウンズ・オブ・サウス・レーベルの設立をMCAに持ち込んだ。結果、MCAの後押しを得てサウンズ・オブ・サウス・レーベルを設立し、初期の契約において4組のアーティストを指名した。その内の3つはロサンジェルスのファンクバンド、エリアとクーパー自らがリフォームしたブルース・プロジェクトとアトランタのバー・バンド、モーズ・ジョーンズだった。そして、モーズ・ジョーンズの推薦により、最後の席はスキナードによって埋められた。クーパーはフーノチノーズで彼らとセッションをし、最初は躊躇したものの、結局は契約をした。

このことをロニーは「他にも契約の話があったが、結局、アル・クーパーのサウンズ・オブ・サウスと契約することが一番正しいと思った。それに俺たちは彼と通じ合うものがあったし、ミュージシャンとしてだけでなく、一人の人間として彼を信頼していた。」と語っている。また、アルは「彼等こそ南部で最も優れたグループで、充分に満足させてくれる。」と語った。

若きベーシスト、レオン・ウィルクソンは突然バンドを襲った成功に対応する自分の能力に自信を失った。代役が必要になったロニーはストロベリー・アラーム・クロックのツアーに参加した当時に知り合ったエド・キングを思い出した。彼はノース・カロライナの小さなクラブに出ていたキングをやっとのことで捜し当て、アル・クーパーのプロデュースによるデモテープを作っていたヘル・ハウスに彼を連れていった。

アトランタのスタジオ・ワンで午前3時までかけて1回のライブ・セッションで録られたデモは5曲から成っている。ただし、この夜録られた「フリー・バード」の未発表ヴァージョンは、このレコーディングがいかに大急ぎで録られたかを物語っている。アレン・コリンズはソロの間に弦を切ったがレコーディングをやり直す時間はなかった。有名なギター・エンディングに長い空白が残っているのはそのためだ。しかしそのアレンジは、この作品が充分に成熟していたことを示している。

デビュー・アルバム「レーナード・スキナード」をレコーディングする頃にはスキナードは約20曲のレパートリーを持っていた。そしてどの曲を選ぶことが新しいプロデューサーのアル・クーパーに相応しいかを決定するについては激しい討論があった。パワフルで強烈な個性を持つクーパーは、「アイ・エイント・ザ・ワン」といったような曲では既成のアレンジ方法を変えることでグループと衝突した。しかし最新のレコーディングテクニックに関するクーパーの知識によって彼らは作品に新たな魅力を加えられるようになった。

オーバーダビングによってきわだった作品の一つに「フリーバード」があった。ここではアレンが自分のソロのバックに若干のセカンドギター・パートを加え、アルバムのクライマックスとなった有名なツインギター・サウンドを作り出した。この「フリーバード」は。オールマン・ブラザーズ・バンドの故デュアン・オールマンへの賛辞といわれており、スキナード・ライヴのエンディング・テーマとなる。尚、アルバムはトップ40に入りゴールド・レコードを獲得、またフリー・バードは1974年末にシングルカットされ、翌1975年1月に全米ヒット・チャートの19位となった。

「レーナード・スキナード」のレコーディングの後、ウィルクソンが戻り、キングがギターに転向し、アルバムのマルチ・ギター・サウンドをライヴで再現できるようになった。こうして彼らは新たなサウンドを開発した。アレンの突き刺すようなギブソン・ファイアーバードにゲイリーのむせび泣くようなレス・ポール、そしてエドのメタリックなストラトの刻みが驚くほどうまく互いを補い合うことを発見したのだ。また新たなフォーマットは直ちに創造性を爆発させ、1973年8月に発売されたアルバム「レーナード・スキナード」の発売前に「スウィート・ホーム・アラバマ」を完成させる結果を生んだ。

「スウィート・ホーム・アラバマ」はニール・ヤングへのロニーの反論だった。ヤングはその頃出されたばかりの彼のアルバム「ハーヴェスト」に「アラバマ」という批判的な歌を入れ、それ以前には南部を軽蔑したような「サザン・マン」をレコーディングしていた。

ロニーはこう語っていた。「あの曲はジョークさ。ニールにケンカを売る気はなかったんだ。思ったままを書いたらああなったんだ。『馬鹿馬鹿しい話だぜ』と言って笑ったよ。俺達はニール・ヤングが好きだし、彼の音楽も愛してるよ…。」

「スウィート・ホーム・アラバマ」のレコーディング直後、1973年7月29日の日曜、レーナード・スキナードはアトランタのリチャーズ(RICHARD'S)で開かれた"サウンズ・オブ・サウス"の特別のプレス・パーティーで紹介された。最初のバンド、"エリア"の演奏は話し声にかき消されたが、モーズ・ジョーンズの時はそれより若干ましだった。ライヴは、スキナードがこのイベントのために特別に書いた「ワーキング・フォー・MCA」で始まった。スキナードが絶唱すると、集まった500人の業界人たちはこの無名のバンドを人目見ようと椅子の上に登った。

スキナードはストーンズを意識していたが、それ以外にも何かがあった。アンカーのゲイリー・ロシントンはとくにキース・リチャーズに傾倒し、エレクトリック・ヘアーのアレン・コリンズはクリーム時代のエリック・クラプトンのフレーズを次々と披露し、3人の内で最も技巧に長けたエド・キングは巧みなアドリブを弾き、フラット・ピッキングとサイケデリアを混合した信じられないようなソロを聞かせた。

唸るギターを除けばすべての目は短い薄茶の髪のヴォーカリストに吸い付けられていた。ロニーはセンター・ステージの場所から一歩も動くことなく聴衆を興奮に導き、驚くほど威嚇的な言葉を浴びせた。スキナードは明らかに60年代のブリティッシュ・ブルース・バンドから直接的なインスピレーションを得ていたが、ロニーの言葉はブリティッシュ・ブルースの発展を特徴づけていた音楽から構造的に遠くはなかった。ロニーは「ギミー・スリー・ステップス」「アイ・エイント・ザ・ワン」「シングス・ゴーイン・オン」「ポイズン・ウィスキー」といった曲を歌った。

MCAのもう一つのアーティスト「ザ・フー」のマネージャーであるピーター・ラッジは、1973年秋のザ・フーの"クアドロフェニア"ツアーのオープニング・アクトに彼らと契約した。同年11月20日にサンフランシスコのカウ・パレスで開かれたオープニングの夜、それまで小さなバーやクラブよりも広い場所で演奏したことのなかったレーナード・スキナードはすっかり萎縮してしまい、巨大なカウ・パレスのステージでバーの雰囲気を取り戻すためにへべれけに酔っ払って出演し、酩酊状態で5曲をぶっ通しで演奏した。観衆はそんな彼らをすっかり気に入った。

スキナードは振り付けされたバンドではなかった。注目の的はロニーで、彼は裸足でステージを歩きまわり、マイク・スタンドを釣竿のように振り回し、ギタリストと絡む時だけわずかに動いた。ハスキーなバリトンによる彼の動きのない歌唱スタイルは突き刺すような"狼の遠吠え"によって中断され、観衆は爆発的なソロが始まることを知った。