混乱(1974-1975)

「フリー・バード」がFMラジオを占領したこと、ファースト・アルバムが評論家に絶賛されたこと、同じくザ・フーのツアーで成功したことを除けば、アルバム「レーナード・スキナード」もそのシングル「ギミー・スリー・ステップス」もチャートでは大したヒットにはならなかった。

1974年1月、グループとプロデューサーのクーパーがロサンジェルスのレコード・プラント・スタジオに入った時、彼らはトップ40に入る作品を作らなければならないというプレッシャーを感じていた。ロニーは「スウィート・ホーム・アラバマ」が相応しいと思ったが、クーパーとMCAは「アラバマ」はあまりにもローカルだということで「何も聞かないで」を選んだ。

ロニーはこう語っていた。「俺は取り引きしたんだ。もしも、奴等が選んだシングルがヒットしなかった時は、「スウィート・ホーム・アラバマ」を出すとね…。最初にこれだと思った作品は絶対にうまくいくという自信が俺にはあったんだ。」


「何も聞かないで」はヒットしなかった。そこで苦戦していたアルバム「セカンド・ヘルピング」(第12位)を救うために「スウィート・ホーム・アラバマ」(第8位)が6月にリリースされた。ニール・ヤングやウォーターゲイトへの発言がにわかに議論の的となり、そしてこのレコードがチャートを上昇すると共に、全く偶然ながらリチャード・M・ニクソン大統領はウォーターゲート・スキャンダルの結果で失脚した。9月20日「アラバマ」と「セカンド・ヘルピング」はゴールドを受賞し、続いて12月には「レーナード・スキナード」もゴールドになった。


この「スウィート・ホーム・アラバマ」の成功には2つの意味があった。ニール・ヤングの「サザン・マン」への返答と、"ウォーターゲイトも俺には関係ない"という一節は、"南部のバンド"としてフロリダから出てきたこのTシャツとジーンズの汚い身なりのバンドに一夜にして脚光を浴びせた。グループが気づいたか、あるいは本当に望んだものかはわからないが、MCAはスキナードのライブ・ステージに南部連盟旗を飾り、イメージを作り上げた。

米国南部出身のロックバンドとして先駈けとなったオールマン・ブラザーズ・バンドは、1971年10月29日にバンドの看板ギタリストでありリーダーであったデュアン・オールマンをバイク事故で失った。スキナードは彼の死を悼み、この当時のライヴではフリーバードを演奏する前に観客に向かって、ロニーはこのように語った。「3年前まで、俺たちは貧しくて、コーラのビンを集めてはビン代を稼ぎ、マイアミにデレク&ドミノスを見に行くことを夢見ていた。エリック・クラプトンは俺たちのアイドルだった。今ここにこうして、彼と同じステージで演奏できることをとてもうれしく思う。俺は非常に興奮している。しかし、ここで伴に演奏することのできない、一人のミュージシャンのために、俺たちはこの曲を演奏したい。デュアン・オールマンのために…。」

スキナードは2枚のアルバムを引っさげて絶え間なくツアーを続けた。そして数限りない一夜限りのサポート・バンドが過ぎて行った。スキナードのコンサート・レヴューは、ことごとく、スキナードが南部のみを売りものとする地元中心バンドではなく、アメリカを代表するバンドとなっていった。「俺たちは南部から逃げ出したいんだ。音楽的にではなく、バンドにはられたサザン・ロックという名前から。俺は南部人だということを、とても誇りに思っている。でもそれに甘えていてはいけないし、南部に対して偏見をもっている地域でもっと演奏していきたいんだ。サザン・ロックがお金になるということで、レコード会社のスカウト・マンは、今アトランタやマイアミの付近をウロウロしているが、あまりに南部にばかり話題が集中してしまい、ニューヨークのいいグループが正当な評価を受けられない。そんなひずみがもう出始めている。」とロニーは語った。

ヨーロッパ・ツアーの後、ノース・キャロライナ出身のドラマー、アーティマス・パイルが結成メンバーのボブ・バーンズと交代した。バーンズは疲労からグループを離れたのだった。ロニーは彼の脱退について、「ショックは受けなかった」と書いている。ボブ・バーンズはヨーロッパ・ツアー前に「サタデイ・ナイト・スペシャル」(第27位、バート・レイノルズ主演の映画「ロンゲスト・ヤードの挿入歌)のレコーディングに参加したが、1975年1月にアトランタのウェッブW・スタジオにアーティマスと共に戻ったスキナードはレコーディングする素材を何も用意していなかった。1日16時間、21日連続でスタジオにカンヅメになった結果、「スペシャル」の他7曲がアルバムに加わった。ロニーはこのアルバムを、皮肉を込めて「ナッシン・ファンシー」(NUTHIN' FANCY=駄作集、日本盤名=ロックの魂、)と名付けた。

スキナードはアルバム発表後、90日と60日から成る"拷問ツアー"(メンバーたちはそう呼んだ)を行った。また、Golden Earringというバンドのサポート・バンドとして初めての英国ツアーも行った。アルバムは、最高第9位となり連続して3枚目のゴールド・ディスクを獲得した。

ボブは脱退した経緯をこう話している。

俺は健康のために1974年にバンドを去った。 俺はその当時、良い感じでも、良い考えもなかった。 ロニー は決して俺を解雇しなかったし、俺は決して辞めなかった。しかし、俺は自分の目的のために去らねばならなかった。ツアー、レコーディング、決められた行動があまりに多かった。だけど俺は自分の貢献を非常に誇りに思っている。 今日、俺がラジオを聞いて、自分の演奏を聞く時さえ、ほとんどそれを信じることができない。

ツアー自体は非常に成功したにも拘わらず、ケンカ騒ぎやホテルの部屋の破壊、ずさんなパフォーマンス、ショウのキャンセルなどが相次いだ。ツアー半ばに差し掛かった頃、ツアー生活や人間関係に嫌気が差したエド・キングはいつの間にかいなくなった。彼は夜の内に出て行ったのだった。この"拷問ツアー"の残りの6週間、アレンとゲイリーが彼のパートを演奏した。エドの脱退について、「エドはアメリカ北部出身で、他のメンバーが南部出身であったからだ。」という噂が流れたりした。音楽的な意見の食い違いが原因だとされている。

ロニーはこう語っていた「ドンぺリにウィスキー、ワイン、ビール、俺達はあおるように飲んだ。曲さえ憶えていなかった。アンプの陰に隠れているローディーの一人にどなられたものさ。俺達はまるで日曜学校の合唱隊だった。全く酩酊状態で演奏してたんだ。」
再びロニーは、「もう奴等はおしまいだといわれたもんさ。本当に疲れきってて、イラだっていた。爆発寸前だった。もうやめようぜ、という代わりに壁を蹴っ飛ばしたよ。」

商業的には成功したものの、スキナードは「ナッシン・ファンシー」に完全に満足したわけではなかった。そこでマネージャーのピーター・ラッジは「レイラ」やオールマンの「ライブ・アット・フィルモア・イースト」のプロデューサー、トム・ダウドを手配した。ダウドのアプローチには各曲をアレンジしてリハーサルし、基本的なインストゥルメンタル・トラックをスタジオ・ユニットとしてのバンドと一緒にレコーディングするという訓練された手順が含まれていた。これはオーバーダビングを重視するアル・クーパーのやり方とは大きく違っていた。

9月末には新しいアルバムのために4曲がロサンジェルスのレコード・プラントでレコーディングされ、バンドはジョージア州メイコンのキャプリコーン・スタジオに戻り、11月にはレコーディングを終えた。ニュー・アルバムのタイトル・トラックも、また誤解を招く「ギミー・バック・マイ・ブレッツ」(GIMME BACK MY BULLETS=俺の銃弾を返してくれ。日本盤名=不屈の魂)というものだった。ゲイリーが「エクソシスト」の主演女優リンダ・ブレアと浮名を流したのもこの頃である。アルバムはトップ20に入り、4番目のゴールド・ディスクを獲得した。

ロニー、「俺達はこの曲をやるのをやめた。みんなが俺達に向かって38口径の弾丸をブッ放したら困るだろ。俺が『弾丸を返してくれ』といったら"バキューン!!"さ。(音楽業界には)2種類の弾丸がある。銃の弾丸と業界紙の弾丸(チャートを急上昇中の曲の意味)だ。そのこと(2つ目の意味)を知った上で聴いてほしいね。それが俺達の言いたかったことなんだ。」

アルバム「ギミー・バック・マイ・ブレッツ」が出された頃にはカントリー・ミュージックの中で重視され始めた傾向を反映して、このアルバムに収められていた「オール・アイ・キャン・ドゥイズ・ライト・アバウト・イット」や「ティー・フォー・テキサス」がショウのレパートリーに加えられた。"アウトロー"の流行は外面の良いナッシュヴィル・サウンドに対抗してカントリーのルーツに戻ろうとする動きで、ウェイロン・ジェニングスやウィリー・ネルソン、トムポール・グレイザーなどが先陣を切っていた。実際に「ティー・フォー・テキサス」の追加は、有名なジミー・ロジャースのヨーデルによるグレイザーのヴァージョンを聴いたロニーが言い出したことだった。