結集(1978-1989)

解散後のバンドのメンバーはそれぞれに、喪失感、そして自分だけが生き残ったという罪の意識に悩まされ、苦しい日々を送った。元メンバーたちはそろって酒に溺れただけでなく、ビリーと アーティマスはそれぞれ家族とのトラブルで訴えらた。アレンとゲイリーは、ロニーの未亡人のジュディの家で、酒とコカインを飲んで追憶の中で日々を送った。


その後、ビリーは38スペシャルのアルバムに参加したりしていたが、1979年、その彼らが改めて一緒に仕事をする決心をした。まず、アーティマスはレオンとビリー、ホンケッツのメンバーの一人、ジョ・ジョ・ビリングスレイと、その他ジャクソンビルのプレイヤーを集めて「ALIAS」を結成した。彼等は「CONTRABAND」というアルバムを発表したが長続きしなかった。



そして1979年秋、アレンとゲイリー、ビリー、レオンが勢揃いし、38スペシャルでバックコーラスをしていたデイル・クランツを女性ヴォーカリストに迎えて、「ロシントン・コリンズ・バンド」を結成した。当初、アーティマス・パイルも参加する予定だったが、レコーディングの直前にバイク事故で重傷を負い断念を余儀なくされた。(アーティマスは自らのバンド「アーティマス・パイル・バンド」を結成し、81年と83年にアルバムを発表。)




ロッシントン・コリンズ・バンドが1980年に発売した「エニータイム、エニー・プレイス、エニーホエア」とシングル "Don't Misunderstand Me"はゴールドディスクとなるヒットを記録した。翌年の1981年に発表されたセカンド・アルバム「ディス・イズ・ザ・ウェイ」(このアルバムは、発表の1年前に亡くなったアレンの妻、Katyに捧げられている)は、セールスにおいて失敗策に終わり、2年後、ゲイリーとデイルがバンドを脱退し正式に解散した。


ゲイリーとデイルを失った残りのメンバーは、1983年、アレンを中心にレオンとビリーと「アレン・コリンズ・バンド」を結成し、「ヒア、ゼア&バック」を発表したがこれも不調に終わり、この1枚を残して解散した。



ゲイリーはデイル・クランツと結婚し、ワイオミング州、ジャクソンホールに移り住み、、1986年「ロシントン」という名で「リターン・トゥー・ザ・シーン・オブ・クライム」を発表、1988年に「ロシントン・バンド」として「ラブ・ユア・マン」を発表した。また、ビリーは、1985年、クリスチャンバンド「VISION」に参加した。


その彼らが再び顔を会わせることになったのが、飛行機事故後10年を記念するトリビュート・ツアーの企画だった。1987年当時、バンド「VISION」を組んでいたビリーは、レナード・スキナードのナンバーを演奏すると観客の反応が極めていいことに驚き、かつてのメンバーたちを招集し始めた。各々が考え抜いた末、全てのメンバーがスキナードが残した遺産を祝うべき時が来たことを了解した。ゲイリーは「それは多くの個人的感情を伴う、責任を持つべき重苦しいことだった」と語った。


当時のメンバー以外でこのライヴに参加することに苦しんでいたのが、ロニーの弟、ジョニー・ヴァン・ザントだった。彼はこのバンドのボーカリストとして参加したが、偉大な兄であるロニーに代わるボーカリストとしての重責に悩み、後に「決心するのに長い時間を要した。ロニーは俺の兄であり、俺の英雄だった。彼は俺が音楽のビジネスに入った理由である…。俺はロニーであろうとしていない。ただロニーだけがロニーでありえるんだ。」と語っていた。

そして1987年9月に、チャーリー・ダニエルズ 主催のボランティア・ジャム XIIIにおいて、1回限りという触れ込みで復活ライヴを行った。この時参加したのは、ゲイリー、ビリー、レオン、アーティマスとバンドを去っていたエドだった。しかし、かつてのスキナードを支えたギタリスト、アレン・コリンズはメンバーとして参加できなかった。

彼は1981年に妊娠中の妻が突然亡くなって以来、酒に溺れ、人付き合いを嫌うようになっていた。そして、1986年1月、フロリダ・ジャクソンヴィルの自宅の近くで、フォード・サンダーバードを運転中に誤って車を谷に転落させ、当時の恋人が死亡、自分も半身不随の身になってしまった。アレンは友人であり、アレン・コリンズ・バンドのメンバーだったランドール・ホールにギタリストを譲り、コンサルタントとして参加した。このライヴの模様を写したビデオには、車椅子に乗る痛々しい彼の姿が映し出されていた。その後アレンは、1989年9月に入院しなければならないほど肺炎が悪化し、ついに1990年1月23日、肺炎を治療する投薬による副作用で肝臓を壊し亡くなった。


この時のライヴツアーの模様は、アルバム「サザン・バイ・ザ・プレイス・オブ・ゴッド」に収められている。