約30年の歩み
年月 経緯
昭和45年 1月   町が住宅地に焼却場建設を強行しようとした為、反対住民がピケを張るなどの建設阻止行動を展開した。
昭和45年 4月

覚書の締結 (公害と判定した時は直ちに補償する。し尿投入口の上に小屋を作り臭気を減らす。他29項目) 

昭和45年 7月 焼却炉竣工、操業を開始 (10トン炉 2期 バッチ式)
昭和47年 6月 町長が、昭和50年に焼却場を廃止すると表明
昭和49年 4月 し尿を保管するし尿中継槽を作る( 投入口には小屋が無い )
焼却場やし尿処理場から排出される煤煙や悪臭に悩まされた周辺住民が、町に再三改善を要求してきたが、町は何ら有効な対策を採らないまま経過
昭和62年 8月 煙突補修
昭和63年 2月 町が大規模な補修工事をしようとした為、施設の延命化をもたらすと危惧して周辺住民が反対。これに対して、町長が6年後他の自治体と共同でボタ山跡地に新焼却場を作り移転すると言明。
昭和63年 3月 煙突内部工事とマルチサイクロン集塵機を設置

国の排出基準は0.5g/立方メートルNであるが、マルチサイクロン集塵機の能力は0.7が限界であると当時の環境課長は平然と説明している。この結果排ガス公害が発生した。
平成 6年 8月 ボタ山跡地の新焼却場が実現しないまま、煙突補修工事をしようとして、周辺住民が反対。これに対して、住民の健康を第一に考慮した補修を行い、平成16年9月末までに移転すると町長が言明
平成 6年12月 協定書を締結し煙突補修工事に着手
平成 7年 6月 違法操業の発覚 (埋火処理で230ngのダイオキシンを排出。)以降マスコミに連日報道された。
平成 7年 9月 煤煙の濃度測定結果、福岡県の公害課より改善勧告がなされた。
平成 7年12月 住民が、町長を廃棄物処理違反(野焼き)で告訴
平成 8年 4月 協定書締結 (焼却量は1日20トンとする、年3回住民との定例会を開催する。他。違反したら、5000万円の違約金を積立てる。
平成 9年 3月  焼却場大改修工事が完了し稼動 (20トン炉)
平成 9年 4月 協定書違反発覚 (20トン以上焼却した。) しかし、町は、違約金5000万円の積立を拒否。
平成10年10月 4日 住民との定例会の場で、町長が、今までの公害等を謝罪、補償に対しての「協議会を作リたい」と発言
平成11年 7月 町長の発言に対して、志免五町内会アンケート調査実施。73%の世帯が、補償の話し合いをした方が良いと回答した。
町長が引退後、今の町長になって協議会を発足。しかし町より提案された協議会は名ばかりで何の進展も無かった。、町幹部は「前町長の発言は、ニュアンスの違い」と信じられない発言をした。
平成12年 7月23日 志免五町内会臨時総会開催。
補償の話し合いを今後も続けて行く事を決める。
十何回の定例会と10回の協議会が行れたが、町長は「事後の補償はしない。」と繰り返すばかりで何の進展もなかった。町幹部の信じられない発言 「自分はここに住んでいないので解らない。」 「自分はその時、話し合いに出席していなかった。」又、条例違反に対して 「自分はこれでいいと思う」等
平成12年12月 住民に何の相談も無く、一般廃棄物処理に関する福岡都市圏(7市町)の相互協力協定を締結
平成13年 3月 し尿処理施設廃止 (昭和36年から操業)
平成13年 8月

住民との同意文無しで焼却場改修工事を行う

平成14年 2月 3日 志免五町内会臨時総会開催。補償の話し合いに対して、町に最後の協議会の申し入れをし、場合によっては提訴も考慮に入れる事を決める。
平成14年 7月 志免町では燃せないとなっているプラスチック類(ダイオキシン発生源)を燃えるゴミと混ぜて出して良いと広報に掲載。焼却場廃止前に燃やそうとした。
町は、焼却場移転不履行を何度も繰り返し、ずさんな管理で30年以上も稼動させてきた。その結果、住民の生活、健康に被害を与え、ダイオキシン等、将来に渡って不安をもたらした。当時の町長が公害と認めているのに、今の町長は責任を取ろうとしない。
平成14年11月 6日
志免五町内会の支援を受けて、160世帯の住民が提訴
平成14年11月末日 焼却場廃止   

2つの施設が廃止されたとは言え、解体時のダイオキシン等の飛散の不安などまだ問題は残っている。

平成16年 3月14日 焼却施設解体についての地元説明会開催

志免五町内会より解体作業についての要望を提出
住民に特別な煤塵防止をしてくれるのか?
事故が起こった時、住民にどう対応してくれるのか?
平成16年 6月18日 解体工事開始 (粉塵測定、約10CPM。)
平成16年 9月 解体工事終了