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高家神社の神様と絶倫な帝

地図 〒295-0012
千葉県、南房総市千倉町南朝夷164
社務所 0470-44-5625   宮司宅 0470-44-3967

JR内房線千倉駅下車、バス「高家神社入口」下車、徒歩10分

駐車場無料15台


高家神社

高家神社は、「たかべじんじゃ」と読みます。南房総市千倉町の谷津(やつ)という集落にあり、日本で料理の神様を祀る唯一の神社、と言われています。
とはいうものの、境内は明るく開放的ですし、さほど大きなものでもありません。私が中学の頃なんか、軟式テニス部の階段カラス飛びをよくやらされました。

毎年10月17日(神嘗祭)と11月23日(新嘗祭)には包丁式が奉納され、多くの料理人や見物客で賑わいます。

ありがちといえばありがちな縁起ですが、高家神社は、延喜式神名帳には小社として登載されていました。いつしかその所在は分からなくなっていました。あるとき、木像と二面の御神鏡が土中から発見され、鏡面に「御食津神、磐鹿六雁命」(みけつかみ、いわかむつかりのみこと)と記されていたことから、長らく所在が不明だった高家神社として、文政二年(1819年)に京都吉田御所に証を願い御幣帛をいただいたという逸話が残されています。

磐鹿六雁命が料理の神様であることから明治以降になると調理師や醸造関係者など料理関係者などから厚い信仰が寄せられます。磐鹿六雁命は、尊称を「高倍神」(たかべのかみ)と言います。

料理の神様

日本書記に次のようなエピソードがあります。

景行天皇53年の秋8月の丁卯の朔に、天皇、群卿に詔して曰はく、「朕、愛子願うこと何れの日にか止まむ。願わくは、小碓王の平けし国を巡狩まく欲し」とのたまふ。 …冬10月に、上総国に至り、海路より淡水門(あわみなと)を渡りたまふ。是の時に覚賀鳥の声聞こゆ。其の鳥の形を見さむと欲し、尋めて海中に出でます。仍りて白蛤を得たまふ。是に膳臣が遠祖、磐鹿六鴈、蒲を以ちて手襷にし、白蛤を膾に為りて進る。故、六鴈臣が功を美めて膳大伴部を賜ふ。

これを、若干の注を加えて現代語に訳すとこうなります。

第12代景行天皇という方がいらっしゃいます。日本武尊(やまとたける)のお父さんです。
武尊は、生前は余りお父さんに愛されなかったらしく、あちこちの戦線に行かされたあげく、若くして戦死します。
帝は、供養のためか、わが子武尊が平定した東国を訪ねたいと、当時は冬の10月、千葉県上総国から海路を淡水門(あわみなと)にやって来きます。
覚賀鳥(かくかくのとり)の声が聞こえたので、姿を見たいものだと海へ出て大きな白蛤を見つけました。早速、同行していた親戚の磐鹿六雁がナマスに調理しました。
帝はと喜んで「こいつはうまい。お前は料理の天才だ。天皇家専属のシェフにしちゃおう。」と膳大伴部(かしわでのおおともべ)に任命しました。

余談ですが、景行天皇はA.D.130年106歳で崩御されていらっしゃいます。
年表によると景行53年というのはA.D.123年にあたります。すると、このエピソードがあった時、天皇は99歳だったことになります。
日本書紀では、99歳の天皇御自ら、海中に入り白蛤を得られたことになります。ただし、奈良時代延暦8年(789年)、磐鹿六雁命の子孫が朝廷に奉ったとされる高橋氏文書では六鴈が海岸で8尺の白蛤を見つけ、鰹とともに天皇に供したとされています。
それよりもスゴいのは、この東国行幸の1年前に景行天の皇后播磨太郎姫が薨去され、すぐに八坂入媛命を皇后として迎えていらっしゃいます。98歳でですぞ!
年表と天皇暦を比べながら読むと、色々とずれが出てはきますが、いやはや、老いてなお盛んお元気なことです。

ともかく、こうして磐鹿六雁は、膳大伴部つまり宮中大膳職(だいぜんしき)の祭神となりやがて料理の祖神となります。「大膳職」というのは、朝廷の食事に関する官職の一つです。諸国から献上される食料などを管理します。
六雁は、大膳職として神宮祭の儀式も定めました。

初代大膳職が六雁で、以後六雁の子孫高橋氏によって、大膳職とともに神宮祭の儀式も系統的に伝承されました。
高橋氏は若狭を所領として賜り、若狭は宮廷へ食材を供給する「御食国(みけつくに)」となります。現在、福井県小浜市など若狭地方は、御食国として食による町おこしに取り組んでいらっしゃいます。

包丁式

時代は下り藤原時代、料理に造詣の深い光孝天皇の命により、時の料理名人四条中納言藤原朝臣山蔭(ふじわらのあそんやまかげ)が大膳職を受け継ぎ、古来の料理方法に海外の料理法を広く採り入れるとともに、仁和2(886)年、神饌・御饌の新式を創案、制定します。いわばヌーベルキュイジーヌといったところでしょうか。

神饌とは神宮へ供える料理です。天皇に奉る料理を御饌といいます。山蔭は、これらの包丁の仕方(「式包丁」)を定めました。
神饌料理をする際には、魚、鳥、野菜などの素材には直接手を触れずに、左手に持った俎箸(まなはし)と右手の包丁刀で清らかに包丁捌きをする形式が定められました。この時の服装は地下の五位衣冠。作法は「源氏物語」の常夏の巻にも書かれています。これが四條流の始まりです。

やがて庖丁式は、殿上人や大名が賓客を歓待する際、主人みずから庖丁を取り、その庖丁ぶりを見せて客をもてなすたしなみとなり、特に酒宴に際しては欠くべからざる儀式になったといいます。
いまで言えばお客様の接待にオヤジが酒の肴を作るようなものでしょうか。

その後、流儀も幾筋かとなり、四条流、四条家園部流、四条園流、鎌倉時代には、武家形式の大草流、豊臣、徳川時代には生間流などが起こり、最近では四条眞流が成立しました。いづれも山陰の四条流から発生したもので、包丁式は、明治維新まで公私饗宴に盛んに行われていたそうです。
今でも、高家神社に限らず、全国の山陰卿ゆかりの寺社などで包丁式は行われています。

高家神社に奉納される包丁式も四條流の流れを汲む調理人によって、古作法に則り執り行われます。