さとう動物病院
 長野県 千曲市
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コンゴ川 船の旅 
 青年海外協力隊の隊員としてタンザニアに在任中、私は「任国外旅行」の休暇を利用し、コンゴ民主共和国(旧ザイール)を訪れた。コンゴの首都、キンシャサまでブルンディ経由で飛行機で行き、帰りはコンゴ川を船で旅した。コンゴには1980年6月末から3週間ほど滞在したが、同じアフリカでもタンザニアとは文化が異なることを痛感させられた旅であった。
 当時のコンゴは「ザイール」と呼ばれ、モブツ大統領の独裁政権下であった。ピーター・フォーバスの名著「コンゴ河」(草思社)に書かれているように、ベルギー支配下に置かれていた当時から、コンゴは悲惨な歴史をたどっている。モブツ政権は隣国ルワンダの内戦に端を発した混乱で1997年に崩壊したが、その後の内戦で200万人を超える尊い人命が失われたといわれている。コンゴはダイヤモンドやコバルトなどの鉱物資源に恵まれているが、それらの利権も絡み、いまだに不安定な状態が続いている。私が訪れた当時は、比較的安定していた時期であり、それほど不安もなく旅をすることができた。
 コンゴは1960年6月30日にベルギーから独立したが、私が訪れたときはちょうど独立記念日で、首都キンシャサでは盛大な軍事パレードが行われていた。メインストリートでは戦車が轟音を響かせながら走り、その上空をフランス製のミラージュ戦闘機がデモンストレーション飛行を繰り広げていた。
 「コンゴは独立当時、コンゴ人の大学卒業者が全国で20人足らずであったという。その中には一人の将校も、技術者も、法律家も、建築家も、医師も、経済学者も、あるいは多少とも実地に政治の経験もしくは訓練を積んだ者もいなかった」と、前述の「コンゴ河」に書かれている。そのことが独立後の混乱を招き、「独立から5年足らずで、少なくとも20万人のコンゴ人が殺されたと見積もられている」のである。
 キンシャサの市場には、たくさんの商品が売られていたが、物価はタンザニアよりもはるかに高かった。市内のレストランでは高すぎて食事をとることができず、私は市場の一角にある庶民用の食堂を利用した。子供達が手にしているのは、「クワンガ」と呼ばれる郷土食で、キャッサバの粉をバナナの皮に包んで蒸した主食の一つ。発酵しているせいか、多少の酸味があるが、とても美味しかった。
 コンゴ川はアフリカ最大の川で、南米のアマゾン川と同様、赤道直下の熱帯雨林の中を流れている。水量は豊富で、たくさんの支流に枝分かれしており、船は庶民の最も重要な交通手段となっている。上の写真は私が乗った船と同じタイプのもの。高級な1等船室から庶民向けの3等まであり、私は2段ベットが2つ置かれた2等船室に乗ることができた。
 船はキンシャサから700km上流の町、イレボを目指して川を遡った。途中の村々では、船が着くたびに出迎えやビジネスのためか、大勢の人でごったがえしていた。
 船はすべての村に停泊するわけではない。そのため、動いている船から小さなボートに乗り移って下船する人もいた。ビジネスのため、あるいは楽して上流まで上るためか、小さなボートが頻繁にやってきた。ただしボートをじょうずにくっつけないと、船の波に呑まれて転覆することもあった。
 
 船内では、朝早くから夜遅くまで音楽が鳴り響き、とても賑やかであった。コンゴの音楽はリンガラと呼ばれ、アフリカでは有名だという。乗船客はビールをあおったりダンスを踊ったり、まるで船全体がバーのようであった。
 川で獲れた大きな魚を売りに来た漁師。この魚は、船の料理人に買われて、私たち乗客のお腹の中におさまった。  船には水道設備はなく、乗客はデッキにヒモでくくられた空き缶を川の中に落として水をくみ上げ、飲んでいた。川の水は茶色に見えるが、くみ上げられた水は透明であった。
 船の旅は、予定では5泊6日であった。船には料理人がいて、1日2食の食事付であった。ただし、何百人ものお客さんがいるため、2等と3等のお客さんは、自分で食器を持参しなけらばならない。そんなことは知らずに乗り込んだ私は、もちろん食器など持っていなかった。幸い料理人のご夫婦はスワヒリ語を話しとても優しい人で、事情を説明したら食器を用意してくれた。右上の写真は家族分の食事を鍋に入れてもらった子供達。 700kmを5泊6日でもかなりゆっくりだと思っていたが、実際には9泊10日もかかってしまった。1日たった70km! 遅れたにもかかわらず4泊分の食事代は別料金。確かに乗客が多いので無料にはできない。 
 大統領専用艇。1日70kmしか進まない私たちの船を、すいすいと追い越していった。大統領専用艇の後尾にはヘリコプターが積まれている。
 コンゴ川の流域に広がる熱帯雨林
 コンゴ川を遡り、10日後にイレボの町に着いた。到着後、ホテルを何軒かあたったが、どこも満室で宿泊できなかった。船で知り合った友人に誘われ、彼らの親戚の家に泊めてもらうことになった。「すぐそこだよ」といわれて十数人の仲間と一緒に行ったが、親戚の家までは1時間ほどかかった。深夜に着いたにもかかわらず、家主は私たちのために夕ご飯を準備してくれた。ボールに山盛りのご飯が出され、おかずは何もなかったが、ご飯には砂糖で味付けしてあった。お腹が空いていたのでとても美味しかった。
 泊めていただいたお宅は、電気も水道もない庶民の家であった。食事はとても質素であったが、奥さんは精魂込めて作ってくれ、とても美味しかった。ザンビアとの国境の町、ルブンバシ行きの列車が出るまで3泊させていただいたが、あまり迷惑をかけてはいけないので、私は市場でお米や野菜、缶詰などを宿泊費の代わりに購入した。列車は早朝の出発だったが、奥さんは朝暗い内から起きて、長旅に備え美味しい朝食をいっぱい用意してくれた。彼らの親切には、本当に頭が下がる。感謝!
 アフリカでは日本の空手がとても人気がある。泊めていただいたお宅でも、空手を練習している人がいて驚かされた。
 船で知り合った仲間とは、列車でも一緒になった。彼らは東部出身者でスワヒリ語を話すため、フランス語がまったくわからない私にはありがたかった。多くは軍人であったが、明るく気さくな人たちであった。
 列車には食堂車があったのだが、高級レストラン並みの価格で、私は一度も利用できなかった。列車が止まるたびに、仲間と一緒に「外食」を楽しんだ。列車はイレボからルブンバシまで約1,500qを、3泊4日かけてひたすら走った。
 ルブンバシからはバスで国境まで行き、ザンビア経由でタンザニアに無事帰国した。このときの「任国外旅行」では、コンゴ、ブルンディ、ザンビアの3カ国を訪れたが、タンザニアだけでなく周辺国の事情を知る機会に恵まれ、大変有意義であった。私の旅を支えてくれた親切なアフリカの人々に、この場を借りて感謝申し上げます。 アサンテ サーナ!
 大河、コンゴ川の夕焼けとボート
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