さとう動物病院
長野県 千曲市
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第13回日本動物児童文学賞 奨励賞受賞作品
がんばれ、愛犬チェリー!

ペットロス
「タロー、おいで。こっちにおいで」
 お春さんがどんなに大声で呼んでも、タローはどんどんと遠ざかって行きます。お春さんはハアハアと息を切らしながら、その後を追い掛けます。
「タローや、そっちに行くと危ないよ。早く戻っておいで」
 千曲川の河川敷でお春さんと散歩していたタローが、川辺で小魚をついばんでいた一羽のコサギを見つけるや、猛烈な勢いで追い掛け始めてしまったのです。普段はとても行儀のいい犬なのですが、その日に限ってなぜか興奮していました。七十歳のお春さんが息を切らして追い掛けても、犬の足にはかなうはずはありません。タローはあっというまに、水辺にたどり着きました。
「タロー、川に入ったら危ないよ。こっちにおいで」
 コサギは、川辺の浅瀬を数メートル飛んでは降りてまた飛んでと、まるでタローをからかうように上流へ移動して行きます。ちょうど若葉の季節で、本流には冷たい雪解け水が、とうとうと流れていました。タローはコサギにもう一歩の所で逃げられてしまい、浅瀬をチャプチャプと水しぶきを立てながら意地になってその後を追い掛けます。
「タロー、危ない!」
 タローが思い切ってジャンプした瞬間、コサギは川の上空へふわっと飛び立ってしまいました。そしてバランスを失ったタローは、勢いよく本流の中へ飛び込んでしまったのです。
「タロー! タロー!」
 お春さんは大声でタローを呼びます。タローは必死になって岸に戻ろうとします。しかし川の流れはとても速く、柴犬ごときの犬かきではどんどん流されて行くばかりです。
「タロー! タロー!」
 お春さんはなすすべもなく、タローを呼び続けます。
「キャウン・・・・・・」
 タローは悲鳴のような小さな鳴き声をあげたかと思うと、流れにのまれて見えなくなってしまいました。
「タロー、戻っておいで! タロー・・・・!」
 両手を口に当てて大声でタローを呼んだ瞬間、お春さんはハッと目を覚ましました。背中にはびっしょりと汗をかいています。夢だったのです。
 タローが死んで三カ月が過ぎていました。タローは老衰で静かに息を引き取ったのですが、愛犬を失った心の痛手が、ときにはつらい夢となってお春さんを悩ませるのです。そして目を覚ませば、タローと過ごした十五年間の楽しい出来事が次々と思い出され、胸が締め付けられるほど切なくなってくるのです。仔犬の頃の愛くるしい姿を思い出すだけでも、いまだに目頭が熱くなって涙がこぼれてしまいます。犬を亡くして、まさかこんな気持ちになるとは、お春さん自身も予想していませんでした。
 神崎 春(かんざき はる)≠アとお春さんは、一五年前にご主人を癌で亡くしました。子供は二人いますがずいぶん前に結婚し東京で暮らしています。千曲川の近くにある一軒家に一人残されたお春さんは、その寂しさを紛らわすためにタローを飼い始めたのでした。
 お春さんは犬を飼うのは初めてでしたが、タローを我が子のように大事に育てました。タローはとても賢い犬で、お春さんの言うことを素直に聞きました。夢に出てきたタローとは大違いです。まだ仔犬の頃のおしゃまな時期に、一度だけ川に落ちたことがありましたが、そのことが悪い夢につながったのかも知れません。
 主人に先立たれたことはとても切ないことでしたが、その悲しみがタローのお陰で癒されたことは事実です。寂しいときにタローに話しかけると、クーンと声をあげながら必ず答えてくれます。うれしいときに話しかけると、目をきらきらと輝かせながらキャンと言って一緒に喜んでくれます。夜はあたかもお姫さまを守るような従順な番犬になり、不審な人が来ればワンワンと猛烈な鳴き声で知らせてくれます。物騒な世の中になって、一人暮らしの老人が強盗に襲われたり、放火によって家を焼かれたりするニュースを聞いても、タローのお陰でとても安心して眠ることができました。いつしかタローはお春さんにとって、深いきずなで結ばれた、友達以上の存在になっていたのでした。

 夏休みになり、長男の哲夫が嫁の杏奈と、孫の寛志、由紀、光平を連れて遊びに来ました。いつもなら夏はお盆にしか帰ってこなかったのですが、今年はずいぶん早めの里帰りです。春先にタローが死んでしまってから、お春さんの元気がなくなって来たことを心配して、七月末の土曜日にやってきたのです。
 お春さんを一目見ただけで、だれの目にも元気のないことがすぐわかりました。
「おばあちゃん、タローが亡くなったんだってね。私、タローが大好きだったのに、もう会えないなんてとっても残念だわ。おばあちゃんも寂しいね。でも元気出してね」
 小学二年生の由紀が、おばあさんをなぐさめるように言いました。
「僕たち、お父さんがお盆に迎えに来るまでここにいるから、おばあちゃんも元気出してよ」
 家では乱暴な言葉を使うようになった四年生の寛志も、いつになく優しく言いました。
「ありがとう、ありがとう。みんな優しくしてくれて、おばあちゃんはうれしいよ」
 お春さんは笑みを浮かべて答えました。タローを亡くしてから久しく笑顔の消えていたお春さんでしたが、三人の孫に囲まれたせいか、少し元気が出てきたようです。
「お袋さん、元気を出せよ。タローがいなくなって残念だけど、新しい犬を飼えばいいじゃないか。また仔犬から育てたら、きっと可愛いぞ。なんなら僕が知り合いに頼んで世話をしてもいいよ」
「そうよ、お義母さん。今度はポメラニアンかパピヨンみたいな小さな室内犬にすれば、夜だって一緒にいられるわ。ひとなつっこくて、とっても可愛いわよ」
 哲夫と杏奈も母親を元気づけるつもりで言いました。新しい犬を飼い始めれば、母親が元気を取り戻すに違いないと、二人は単純に考えたのです。
「哲夫、何を言う。ほかの犬を飼うなんてとんでもない。タローほどの可愛い犬は、この世には、もういないんだよ。ばかなことを言うでない」
 お春さんはタローのことを思い出してしまったのか、目に涙をにじませて言いました。元気づけるつもりで言ったことが、裏目に出てしまったのです。その場の雰囲気が、何となく暗くなってしまいました。
 そのとき、これまで何か言おうと一生懸命考えていた一年生の光平が
「そんなことは、飼ってみないとわかんないよ。食事のとき『これ食べたくない』って言うと、お母さんだって『食べてみないとわかんないでしょう』って僕に言うもん。だからおばあちゃんだって新しい犬を飼ってみないと、タローより可愛いかどうか、絶対わかんないよ」と、真剣な顔をして言いました。余りにも真剣な顔つきに押されてしまったのか、おばあさんの顔からは暗い表情がスッと消えました。光平の隣では、おばあちゃんの微妙な変化を感じ取った哲夫と杏奈が、ほっと胸をなでおろしています。
「まあ確かに、光平の言うとおりだね。でも、おばあちゃんはもう七十歳だよ。いつ天国からお迎えが来てもおかしくない歳だし、もしそうなれば、新しい犬がかわいそうで、とても飼うことなんかできやしないんだよ」
「おばあちゃん、心配しなくてもいいよ。もしおばあちゃんが天国に行ったら、僕が新しい犬の面倒を見てあげるから。心配しない、心配しない」
 光平は光平なりに、おばあちゃんを元気づけようと、無邪気に言いました。余りにも罪のない言い方だったので、皆はどっと笑いましたが
「光平、そんなこと言ったらおばあちゃんに失礼だぞ。おばあちゃんが長生きすれば、新しい犬を飼っても、まったく問題ないんだから」
 哲夫は父親として、一応息子をたしなめました。でもその目はやはり笑っています。
「そのとおりよ。おばあちゃんが百歳まで生きれば、新しい犬を飼っても、あと三十年は一緒にいられるわ」
 由紀が、得意な算数の引き算を披露しながら言いました。
「由紀、犬は三十年も生きられないんだぞ。確か犬の一歳は人の年齢で言えば五歳か六歳分くらいだから、十五歳も生きられれば長生きした方だよ」
 犬を飼っている友達からそのことを聞いていた寛志は、少し得意げに言いました。
「それじゃ、犬の一歳を人の六歳分と考えれば、十五年間生きたタローは何歳くらいになるのかな?」
 お父さんが寛志の方を向きながらたずねました。
「十五かける六は、ええっと・・・・・・」
 算数の苦手な寛志が、簡単な掛け算に手間取っていると
「お兄ちゃん、十五かける六は九十よ。タローは九十歳も生きたんだわ。ずいぶん長生きしたのね」
 由紀はひょうひょうと答えながら、タローが長生きしたことに感心しています。
「お前はそんな簡単な掛け算もできないのか、情けないやつだ」
 お父さんはそう言いながら、寛志の頭に手を置きました。
「むむ・・・・・」
 寛志は(由紀のやつめ。もうちょっとで答えられたのに、兄を出し抜くとはけしからん)とでも言いたそうな顔をして、由紀をにらみつけました。
「タローがそんなに長生きできたんなら、たいそう幸せ者じゃ。由紀が言うように百歳はちょっと無理かも知れんが、おばあちゃんもタローに負けないよう、がんばって長生きしよう。そうすれば新しい犬を飼っても、ずっと一緒にいられる」
 お春さんは目元にかすかな笑みを浮かべて言いました。タローが死んでしまって以来、お春さんをおおっていた沈んだ表情は、霧が晴れたようにすっかりなくなっていました。天国に行ってしまったタローに、ようやく決別することができたのかも知れません。

愛犬探し
 子供たちとのたわいのない会話で元気を取り戻したお春さんは、新しい犬を飼うことに決めました。
「哲夫や、東京へ帰る前に知り合いにでも頼んで、犬の世話をしてくれんか」
 お春さんは息子に向かって言いました。
「お袋さん、そのことならだいじょうぶ。知り合いの娘さんが、確か森本絵里さんと言ったかな、一年ほど前に駅前で動物病院を開業したので、あそこで聞いてみましょう」
「ああ、あそこの動物病院なら、私もタローに予防注射を受けさせるため、一度だけ行きましたよ。近くに動物病院ができて、私のような年寄りには本当にありがたいねえ」
「絵里先生は、捨て犬や事情があって飼えなくなってしまった犬の面倒をボランティアで見ているから、先生に頼めばきっと新しい犬を世話してくれると思うんだよ」
「ボランティアってどういう意味なの?」
 由紀が素直に聞きました。
「世の中には犬や猫を捨ててしまう人がいるんだよ。保健所に頼んで処分してもらうこともできるんだけど、それもかわいそうなので捨ててしまうのかも知れないが・・・・・・。本当に困ったものなんだ」
「処分するってどういうことなの、お父さん」
 光平がたずねました。
「処分するということは、つまり・・・・・、殺してしまうことなんだなあ」
 お父さんは、少し言いにくそうに子供たちに説明しました。そして
「もちろん一番いい方法だとは、お父さんも思ってないけど、捨てることもよくないぞ。人を咬んだり、交通事故にあったりして、他の人に迷惑を掛けるからな。動物を飼い始めたら、最後まで責任を持たなくちゃいけないんだよ」と、つけ加えました。
「それで、森本先生は何をしているの。ボランティアってなんのことなの?」
 まだ釈然としない由紀が、再びたずねました。
「だから引き取り手のない犬の面倒を見ながら、時間を掛けてでも何とか飼い主をさがす努力をしているんだよ。それはそれは大変なことなんだ。動物の面倒を見ても、お金をもらえるわけじゃないから、そういうことをボランティアと言うんだが・・・・・・」
「そうなの、ずいぶんいいことをしている先生なのね。おばあちゃん、森本先生の所へ行きましょう。新しい犬が手に入りそうよ」
 由紀は「ボランティアはよいこと」というイメージで理解したようです。
「行こう、行こう。おばあちゃんの気に入った犬がいれば、もらえばいいんだ。そうすれば森本先生の役に立つわけだし、第一、犬も喜ぶよ」
 寛志が言いました。
「僕も行きたい。おばあちゃん一緒に行こう」
 光平も行きたがりました。
「お袋さん、森本先生には今すぐ電話しておきますから、子供たちを連れて行ってみてください。すぐに気に入った犬が手に入るかどうかわからないけど、一応、どんな犬が欲しいか希望を伝えておけば、近い内に手に入ると思いますよ」
 こうしてお春さんと三人の子供たちは、森本動物病院へ行くことになりました。

「ごめんください」
 お春さんは子供たちと一緒に、動物病院のドアを開け中に入りました。
「お春さんですね。タローが亡くなったことは、いましがた電話で神崎さんから聞きました。利発な犬だったので、さぞかし悲しかったでしょう」
 白衣姿の森本先生は待合室に出てきて、お春さんに優しく声を掛けました。タローのことを「利発な犬」と誉めてくれたので、お春さんも悪い気はしません。
「先生には前に一度お世話になりましたが、その節はありがとうございました。ここにいるのが、せがれの子供たちです。ほらみんなも先生にあいさつしなさい」
 お春さんはお礼を言いながら、子供たちを紹介しました。
「ところで先生は、捨て犬や引き取り手のない仔犬の世話をなさっているそうですが、私に飼えそうな犬はいませんかね」
 お春さんはさっそく用件をたずねました。
「仲間の獣医さんたちと一緒に面倒を見ているんですけど、最近、捨て犬が多くて困っています。世の中には無責任な人が増えてきたのか、本当に情けなくなりますわ。そうそう、お春さんの飼えそうな犬ねえ。今、私たちが育てている犬は、成犬が四匹と仔犬が五匹いますわ。そこに写真を貼ってありますから見てください。もし気に入ったのがいて、お春さんにもらっていただければ、私たちも助かりますわ」
そう言いながら、森本先生は待合室の壁に「飼い主求む!」と書かれた掲示板を指さしました。そこには少しすねた顔をした柴犬が一匹、大きなシベリアン・ハスキーが二匹、五匹の仔犬をかかえた黒毛のラブラドール・レトリーバーの写真が貼ってありました。
「わあ、このレトリーバーの仔犬、可愛いわ。おばあちゃん、どうせ飼うなら、仔犬から飼ったらいいんじゃない」
 由紀はまだ生まれて一カ月にも満たないレトリーバーの仔犬を指さしながら言いました。お春さんも目を細めながら、可愛い仔犬を見入っています。
「そのレトリーバーは、一週間ほど前、高速道路のパーキングに起きっぱなしにされた犬なんですよ。今は隣町にある遠藤動物病院の先生がお世話しています」
「ひでえなあ、あの川向こうのサービスエリアに捨てられたんか」
 寛志は、おばあちゃんの家から見える高台のパーキングを思い浮かべながら言いました。
「きっと、都会で飼っている人が持て余して捨てて行ったと思うんだけど、それにしてもずいぶん無責任だと思わない」
 森本先生が子供たちに同意を求めるように言うと
「本当だわ。そんな人は動物を飼う資格なんかないわ」と、由紀も憤慨して答えました。
「でも飼い主が忘れて行ったのかも知れないよ。こんなに可愛い仔犬を捨てるはずないもん。僕だったら絶対そんなことしないよ」
 光平は、飼い主を弁護するように言いました。
「光平君は優しいのね。実は先生も最初は信じられなかったのよ。でも『この犬をお願いします』という手紙も置いてあったんですって。だから捨てられたのは間違いないの」
「ふうん・・・・・・」
 光平はそうつぶやいたきり、声が出ませんでした。
「じゃあ先生、このハスキー犬も捨てられたのね。優しそうな犬なのにかわいそう」
 由紀は、二頭のりりしいシベリアン・ハスキーの写真を見ながら言いました。
「その犬は、牧原町の別荘に来た人が、二頭とも一緒に捨てて帰ったらしいんだけど、捕まえるのがとっても大変だったのよ」
「ヘエー、ずいぶんかっこいい犬なのに、どうして捨てちゃったんだろう」
 寛志がたずねました。
「牧原町には別荘地がたくさんあるわね。別荘を持っている人はお金もたくさんあるらしく、けっこう高い犬を飼っているの。そして犬の種類にも流行があって、以前はハスキー犬がとても人気があったのよ。でも今は流行遅れとでも考えたのか、都会へ帰るときに捨てて行ってしまったのね。情けなくなるわ」
「お金持ちは洋服や靴みたいに犬でさえも簡単に捨てちゃうのね。そんなの身勝手だわ」
 由紀はまたもや憤慨して言いました。
「それで、どうして捕まえるのが大変だったんですか」
 寛志がたずねました。
「犬が捨てられてしまえば、餌がないから、当たり前のことだけどお腹が空くわね。だから近くの農家に行って、そこで飼われている犬の餌を食べたらしいの。そして大げんかになってしまい、農家の人が気がついたときには、ずいぶん興奮していて手に負えなかったらしいわ。だから保健所にお願いして、麻酔銃で捕まえてもらったの。今はもう大分落ち着いて、牧原町にある谷口動物病院の先生が世話をされているけど、まだ若い犬だから新しい飼い主が見つかって、きちんとしつけをすれば、きっとお利口さんの犬になるわ」
「でもその犬は、おばあちゃんには大き過ぎるよ」
 光平は大きな犬は怖いとでも思ったのか、心配そうに言いました。
「レトリーバーもハスキーもいい犬だとは思いますが、光平が言うように、私にはちょっと大き過ぎます。散歩に連れて行くのも大変ですわ。私はできればタローと同じ柴犬を飼いたいです。森本先生、そこの柴犬はいかがでしょうかねえ」
 お春さんは、何となくすねたような顔をした柴犬の写真を見ながらたずねました。
「おばあちゃん、その犬、あんまり可愛くないよ」
「私もそう思うわ」
 寛志や由紀が言うように、どことなくその柴犬はいじけた顔をしていました。
「ああ、それは二カ月ほど前から私の所で預かっている二歳の柴犬なんです。少し問題のある犬なので、なかなかもらい手が見つからなくて困っているんですよ。でもその犬なら、裏の犬小屋にいますから、飼えそうかどうか自分の目で確かめてみてくださいな」
「先生、問題があると言っても、私はやっぱり柴犬が好きなんです。その犬は、私が引き取りましょう」
 タローの姿を思い出したお春さんは、その犬を飼うことに決めてしまったように、きっぱりと言いました。
「おばあちゃん、先生は問題があるって言うんだから、ちゃんと確かめてから決めた方がいいよ」
「そうだよ、そうだよ、おばあちゃん」 
 由紀と寛志は、お春さんが余りにも性急に決めてしまったことに驚いて言いました。
「お春さん、正直に言います。実はその犬、咬み癖があるんです」
 森本先生は、お春さんの反応をうかがいながら言いました。
「先生、咬み癖って、つまり人を咬むんですか」
寛志がたずねました。
「そうなのよ、寛志君。飼い主がいい加減だったので、悪い癖がついたのね。だれしも仔犬のときは可愛いもんだから、とっても甘やかしたの。でも一歳を過ぎた頃から、まったく手を掛けなかったのね。はっきり言って、ほったらかしだったのよ。犬だって相手をして欲しいから、やたらと吠えるようになってしまったの。吠えるとうるさいから、飼い主は棒で叩いたのね。ずいぶん叩いたらしいわ。それが悪かったのよ。飼い主さえも咬むようになり、手に負えなくなってしまって、結局、私の所に預けに来たのね」
 森本先生は、少し残念そうな顔をして事情を説明しました。 
「でもその犬、もらい手がなければ殺されちゃうんだよね」
 光平は少し不満そうに言いました。
「光平君ごめんね。私だって本当は処分したくないのよ。だからこうして二カ月も預かって、何とか新しい飼い主をさがしているの」
 森本先生は、申し訳なさそうに言いました。
「先生、その犬を見せてください。私が飼います」
 静かに話を聞いていたお春さんが、決断したように言いました。
「いいですよ、お春さん。どうぞこちらに来てください」
 森本先生はそう言うと、四人を裏口に案内しました。

チェリー登場
 寛志たちが裏の犬小屋に近づくと、雌の柴犬が顔に醜い皺を寄せてウーと唸りながら激しく吠え始めました。
「だめ! 静かにしなさい!」
 森本先生は、犬の視線をしっかりととらえながら言いました。すると柴犬は、尾を左右に振りながら鳴き止みました。
「チェリー、お座りしなさい。そうそう、チェリー。とってもお利口さんよ」
 森本先生が命令すると、柴犬はきちんとお座りしました。それと同時に、先生は犬の顔がくちゃくちゃになるほど両手でなでてあげ、「お利口さんだね、本当にお利口さんね」と言いながら優しく誉めてあげました。 
「あら、先生の言うことはちゃんと聞くじゃない」
 安心して、由紀が一歩近づくと、眉間に皺を寄せながら、ウーと唸りながら激しく吠え始めました。
「だめよ。吠えちゃだめ」
森本先生は柴犬が子供たちに向かって再び吠え始めると、すかさず首根っこをつかんで厳しく叱りつけました。
「そうそう、チェリーはとってもお利口さんねえ」
 柴犬が静かになると、また両手で顔をなでながら優しく誉めてあげました。
「へえ、さすがだ。森本先生は犬を扱うのがとても上手なんですね」
 寛志はあんなに激しく吠えていた犬が、森本先生の命令にはちゃんと従うのを見て感心しています。そして
「先生、犬も人間と同じように、厳しく叱れば言うことを聞くようになるんですか」
 とたずねました。
「そうねえ、昔はそういう方法が日本では一般的だったかも知れないわ。でも今は違うのよ。どちらかというと誉めて誉めて誉めまくって、しつけると言った方がいいかしら。寛志君だって何かをやって『よくできたわ』って誉められれば、うれしいでしょう。また誉めてもらおうと思って、一生懸命やる気が起きるじゃない。犬だって同じなのよ」
「うん、確かにね」
 寛志は納得してうなずきました。
「誉めることが一番大事だとは言ったけど、もちろん悪いことをしたら叱ることも必要よ。でもそれにはタイミングがとっても大切なの。人間なら過去の失敗を怒られても理解できるけど、犬にはそれがなかなか難しいのね。だから、何か悪いことをしたら、その瞬間に叱らないといけないのよ。そうすれば、『ああ、こういうことをしてはいけないんだ』って、犬にも理解できるわけね。だからといってむやみに叩いてはいけないわ。君たちだって叩かれたらいやでしょう。だから今私がしたみたいに、すかさず首根っこをつかんで言い聞かせるのが一番いい方法ね」
「すごいなあ、先生は」
 由紀も感心しています。
「そうそう、私がつけたんだけど、この犬の名前は『チェリー』なの。桜の花が咲く頃に生まれたからそうつけたんだけど、可愛い名前でしょう」
 森本先生は、チェリーの頭を優しくなでながら言いました。チェリーもうれしそうにしっぽを振り、先生の手をぺろぺろとなめました。
「先生、私は柴犬が飼いたいのです。だからこの犬を飼います」
お春さんがチェリーを見ながら言いました。
「じゃあ、お春さんにお願いしてみようかしら。チェリー、よかったわね。あなたの新しい飼い主が決まったわ。お利口さんだから、今度は絶対咬んではだめよ」
 森本先生はチェリーの目を見つめながら、優しく言いました。
「おばあちゃん、僕うれしいよ。だって、この犬が保健所に連れて行かれれば、殺されちゃうんだもの」
「光平君は本当に優しいのね。そのとおりよ。保健所に連れて行くのは簡単なんだけど、あそこに連れて行ってしまえば二、三日の内に処分されちゃうの」
「エエッ、そんなにあっさりと殺されちゃうんですか。ひでえなあ」
 寛志は二、三日の内にと聞いて、驚いてしまいました。 
「やっぱり残酷よね。君たちだってそう思うでしょう。だからそうならないように、私たち獣医師がボランティアでがんばっているの」
 森本先生は自分に言い聞かせるように言いました。子供たちもうなづいています。
「それじゃお春さん、チェリーをよろしくお願いします」
「先生、ありがとうございます。私もまた柴犬が飼えると思うと、本当にうれしいです」
 お春さんがそう言いながら、チェリーに一歩近づくと
「ウーッ、ワンワンワン」
 チェリーは牙をむいて、激しく吠え始めました。
「吠えたらだめと言ったでしょう」
 森本先生はすかさず首根っこをつかんで、チェリーを叱りつけました。
「これじゃ先が思いやられるわ。でも私はがんばるよ。タローと同じくらいにきっといいこにしてあげるから」
 お春さんは、そう言いながらチェリーの目をしっかりと見つめました。チェリーは相変わらず、眉間に皺を寄せ険悪な表情をしています。それを見て、お春さんはますます闘志のようなものが湧いてきました。
(チェリーには私が必要なんだ)
 だれかの役に立てると思うと、人間だれしもうれしくなるものです。お春さんにとっては、たとえ相手が犬であっても同じでした。

愛犬のための八箇条
「お父さん、犬を保健所に連れていて行くと二、三日の内に処分されるんだってさ」
 夕食を食べながら、寛志は森本先生に聞いたことを話しました。そのことがよっぽどショックだったようです。
「お父さんも、そんなに早く処分されるとは思ってもいなかったよ。正確な数字はわからないが、きっと毎年何十万頭という犬や猫がそうやって処分されているんだろうなあ」
 お父さんは子供たちにこんなことを言うのはとても残念でしたが、本当のことなので仕方がありません。
「お義母さん、新しい犬は明日、森本先生が運んできてくれるのね。でも話に聞けば、ずいぶん怖そうな犬ねえ。だいじょうぶかしら」
 杏奈は心配そうに言いました。

 日曜日の朝です。森本先生がワゴン車にチェリーを乗せてやってきました。チェリーを犬小屋の近くにつなぎ終えると、森本先生は
「お春さん、チェリーが少しでも早く馴染むように、餌鉢や水入れも、これまで使っていたものを置いて行きますわ」
 そう言いながら、ステンレス製の容器をお春さんに手渡しました。
「何から何までお世話になって、本当にありがとうございます」
 お春さんは丁寧にお礼を言いました。
「それから犬のしつけ方ですが、今日は私が考えた『愛犬のための八箇条』をお話するわ。寛志君たちもよく覚えてね。まず第一条はアイコンタクト。人と話をするときだって、相手の顔を見なければおかしいわよね。だから犬を相手にするときも必ず目を見るの」
「先生、そんなこと言ったって、犬がこっちの目を見てくれないよ」
 寛志がチェリーの方を見ながら言いました。
「寛志君の言うとおり、これがけっこう難しいのよ。餌をやったり、名前を呼んだりしたとき、必ず視線が会うようにするの。毎日繰り返してやれば必ずできるようになるわ。第二条はマズルコントロール。マズルは口のことなんだけど、このようにして片手で口を鼻の上から握るようにするの」
 森本先生はチェリーの口を閉じさせるようにして、左手でしっかりと握りました。
「先生にはやさしいかも知れないけど、子供たちにはまだ危ないわね」
 杏奈は心配そうに言いました。
「お母さんのおっしゃるとおりよ。君たちがいきなりやっては危ないわ」
「でもどうしてそんな怖いことをしなくちゃいけないの」
 由紀がたずねました。
「犬はオオカミと同じで、本来、群で生活する動物なの。群の中では必ず順位がつくわね。だから君たちが犬よりも順位が高くならなければならないのよ。やさしく言えば犬より偉くなりなさいってことなの。犬にとっては咬むことが最大の武器で、その武器を使えなくすることは、犬がその人の方が偉いと認めたことになるのよ」
「なるほど、そう言われてみればそうね」
 由紀は感心して言いました。
「第三条は、犬をあおむけにし腹部をなでること。これを許せば飼い主を一番偉いと認めさせたことになるわ」
「友達の家で飼っている犬は、すぐにあおむけになるよ。ただ甘えているだけかと思ったけど、そういう意味があったんだ」
 寛志が言いました。
「第四条は犬を勝利者にしない。犬はボール遊びや、布を使った引っ張り遊びが大好きだけど、そういうオモチャで遊ぶときは、飼い主が必ず勝たなければならないの。それから次は五番目なんだけど、散歩で犬を先頭に立たせないこと。先頭を歩くのは常にリーダーの役目なのよ」
「でも先生、犬に引っ張られながら散歩している人をよく見かけますわ」
 杏奈が言いました。
「そうなんです。犬を散歩させているんじゃなくて、犬に散歩してもらっている人がまだまだ多いんです。つまり犬を先頭に立たせるということは、犬が一番偉いことを飼い主が認めたことになるのね。だから犬が先に行こうとしたら、くるっと向きを変えたりして、先頭に立たせないようにすることが必要なのよ」
「そう言われてみれば、タローは決して私の前には出ませんでしたわ。ちゃんと私のことを偉いと認めてくれておったんだねえ」
 お春さんは、タローを思い出しながらしみじみと言いました。
「第六条は、体罰を与えない。チェリーは最初の飼い主に棒でずいぶん叩かれ、性格がいじけてしまったのよ。叱ることはもちろん必要だけど、決して叩いてはいけないの」
「でも、どうしても言うことを聞かなかったときは、叩いた方がいいんじゃありませんの」
 杏奈がたずねました。
「犬の場合は、体罰よりもむしろ誉めることによってしつける方が、飼い主との良好な関係が保てるんですよ」
「そうなんですか」
 杏奈はうなずきながら言いました。
「第七条は、平常心で接することです。感情的になったり、一貫性がないのもまずいわね。それから犬の前で悪口だって言っちゃいけないのよ」
「先生、犬は言葉がわからないから、悪口なんかわかんないよ」
公平は不思議に思ってたずねました。
「光平君、そう思うでしょう。でもね、犬だって目の前で悪口を言われると『僕のことをよく思っていないんだ』って、何となくわかるみたいなのよ。きっと悪口を言うときの表情や言葉の使い方が、普段と違うからわかるのね。おもしろいでしょう」
「へえー、そうなんだ」
 公平が感心しては言いました。
「そして最後の第八条なんだけど、飼い主がリーダーになること。今までのまとめになるんだけど、とっても大切なの。犬は群で生活する動物って話したわね。だから飼い主の家族全体を一つの群と考えるわけ。すぐれたリーダーは食料を確保し、外敵から群を守り、個々に対して優しく、しかも強い存在でなければならないの。そして飼い主がそのようなリーダーになれば、犬は安心してリーダーに従い、人も犬もお互いに楽しい毎日を送ることができるのよ」
 森本先生は子供たちの顔を見ながら言いました。
「先生、この歳でリーダーになるのは私には難しいねえ。優しくはできるかも知れないが、強くはなれないからねえ」
「お春さん、体力的に犬よりも強くなるのは子供たちにだって難しいわ。足だって速いから、競争すれば大人も簡単に負けてしまうわね。だから強くなると言う意味は、決して体力的なことではないのよ。最初に話したアイコンタクトやマズルコントロール、オモチャの管理、散歩のときに人が前を歩いたりすることによって、犬は飼い主をリーダーとして認めるようになるの。タローだってお春さんのことをリーダーとして認めていたのよ」
 森本先生は優しく諭すように言いました。
「本当にありがとうございます。先生に言われて、何となく自信がついてきました」
 お春さんは『タローだってお春さんのことをリーダーとして認めていたのよ』と言われて、内心、とてもうれしかったのでした。
「チェリー、いいこになるのよ」
 森本先生は、チェリーの顔をくちゃくちゃになるほどなでながら、そう言い残して帰りました。

てごわいチェリー
 軒下の犬小屋につながれたチェリーは、森本先生が帰ってしまうと激しく鳴き始めました。やっと馴染んだ森本先生がいなくなってしまい、寂しくて仕方がないのです。二時間あまり鳴き続けたチェリーは、ようやく落ち着きを取り戻し、犬小屋の奥でうずくまっています。

「子供たち、お母さんの言うことをよく聞いていいこにしているんだぞ。夏休みの宿題もちゃんとやれよ」
 おやつをみんなで食べた後、哲夫は子供たちにそう指示してから東京へ帰りました。
 夕食後に、お春さんはチェリーに餌を持って行くことにしました。
「ウー、ワンワンワン」
 お春さんが近づくと、チェリーは再び大声で鳴き始めました。
「だめ! 鳴いてはだめ!」
 お春さんは、そう言いながら近づきましたが、とても言うことを聞いてくれそうもありません。仕方がないので、ドックフードの入った餌鉢をチェリーの方に押しました。それでもチェリーは、ますます激しく鳴き声をあげています。そして餌鉢を前足でひっくり返してしまいました。
「これじゃ、近所迷惑になりそうね」
 縁側からそれを見ていた杏奈は、心配そうにつぶやきました。そして杏奈が心配したとおり、その夜、チェリーは夜通し鳴き続けたのでした。
 次に日も、チェリーはお春さんや子供たちが近づくと、険悪な顔をして激しく吠えました。どんなに優しく声を掛けても、まったく効果がありません。
 夜は、お春さんが牛肉とご飯を煮込んだとっておきの餌を持って行って
「さあ、お食べ」と、差し出しても素直に食べようとはしませんでした。それどことか、ウーと唸り声をあげ、差し出した手に咬みつきそうな勢いで飛びかかろうとします。そして夜通し、激しく鳴き続けるのでした。
 そんなことが一週間も続いた月曜日の昼過ぎ、市役所の市民生活課から電話が掛かってきました。
「神崎さんのお宅では、犬を飼われていますね。実は今日電話したのは、お宅の近所から苦情があったからです」
「苦情というと、その、やっぱりうるさいということですかねえ」
「ええ、実はそうなんです。お宅の近所から、夜、犬の鳴き声がうるさ過ぎて眠れないという苦情が届いているんです」
「どうも申し訳ありません。近所の皆様にはすまないと思っているんですが、今度の犬はちょっと問題をかかえていまして、はい」
「犬のことですから、難しいかも知れませんが、まあ、できるだけ早く改善していただくようお願いします」
「はい、わかりました。本当にどうもすみません。申し訳ないです」
 お春さんは、頭をぺこぺこと下げながら、受話器を置きました。
「お義母さん、近所から苦情があったんですね」
 杏奈は心配そうにたずねました。あれだけ吠えれば、苦情がない方が不思議なくらいだと思っていた矢先のことでした。
「市役所からの電話で、やっぱり苦情があったそうだ。まあ確かに、チェリーの鳴き声はうるさいからねえ。早いとこ、何とかしないと、処分しなくちゃならなくなるかも知れんねえ」
「おばあちゃん。処分するって、やっぱり殺しちゃうことなの」
 光平が心配そうに言いました。
「犬が吠えたくらいで殺すなんて許せないわ。どうしてチェリーを殺さなければいけないの。暴走族が騒いだからって、死刑にするわけないでしょう」
 由紀もむきになって言いました。
「でも何とかしないと、近所迷惑になるのは事実なんだ」
 寛志は少し冷静に言いました。
「もう一週間以上も過ぎたのに、さわることすらできないなんて情けない。今夜こそ、何とかしなくてはいけないねえ」
 お春さんは、そうつぶやきながら、今夜こそと固い決意をするのでした。
 その日の夕刻、お春さんは餌鉢に牛肉と肉汁のたっぷりしみこんだご飯を入れると、軒先に出ました。
「ウー、ワンワンワン」
 チェリーはお春さんの姿を認めると、これまでと同じように激しく吠え始めました。杏奈と子供たちは、縁側からその様子をうかがっています。
「だめ、静かにしなさい!」
 お春さんは、チェリーの顔をしっかりと見つめながら、きっぱりとした声で言いました。
「ウー、ワンワンワン」
 チェリーも負けじと吠え続けます。
「だめだよ! 静かにしなさい!」
 七十歳のおばあさんの、どこからそんな声が出るのかとびっくりするほど大きな声で、お春さんは言いました。
「ウー、ワンワンワン」
 それでもチェリーは、眉間に皺を寄せながら吠え続けます。お春さんは恐れた様子を微塵も見せずに、つかつかとチェリーの前に出ると「チェリー、いいこだからお食べ」と、優しい声で言いながら左手で餌鉢を差し出しました。
「ウー、ワン」
 チェリーは、低い声で鳴き叫んだかと思うと、お春さんの左手首をガブッと咬んだのです。
「ああ、おばあちゃん、危ない!」
 その瞬間、縁側で様子をうかがっていた子供たちが叫びました。
「だめだと言ったでしょう!」
 お春さんはひるまずにそう叫ぶと、右手で力一杯、チェリーの首根っこをつかみ、お尻の方向に引き倒しました。
「キャウン」
 お春さんの気迫に押されたのか、チェリーは小さな悲鳴のような鳴き声をあげると咬んでいたお春さんの手首を離し、ちょうどお座りしたような姿勢になりました。そしてあれだけ激しく吠えていたのが嘘のように、鳴き止んだのです。
「そう、チェリー。お利口さんだよ。チェリー、とってもお利口さんだよ」
 お春さんは首根っこから手を離すと、森本先生がやっていたように、チェリーの顔をくちゃくちゃになるほど両手でなでてあげました。
「チェリー、いいこだねえ。チェリー、本当にいいこだよ」
 お春さんは、チェリーに顔を近づけながら言いました。その目からは涙がこぼれています。ようやく落ち着きを取り戻したチェリーは、おばあさんの顔をぺろぺろとなめ始めました。
「やったあ。おばあちゃんがチェリーをなでているよ」
 その様子を見ていた光平と由紀は、跳び上がるほど喜んでいます。
「さあチェリー、お食べ」
 お春さんがそう言うと、チェリーは餌鉢に顔をつっこむようにしてご飯を食べ始めました。ここ一週間ほど、ほとんど何も食べていなかったので、無心になって食べています。お春さんはホッとしました。と同時に、左手首がずきんとうずきました。
(ああ、そういえばチェリーに咬まれたんだ)緊張していたせいか、咬まれたときはまったく痛みを感じなかったのでした。
「お義母さん、だいじょうぶですか」
 杏奈は、玄関に戻ってきたお春さんの手首を見ながら言いました。
「ああ、ありがとう。でもチェリーは本気で咬んだわけではないから、傷はたいしたことなさそうだ」
「おばあちゃん、だいじょうぶ?」
 子供たちも心配そうに傷口をのぞき込んでいます。幸い傷はそれほど深くはありませんでした。

 次の日の朝、チェリーはお春さんの姿を認めると、尾をピンと立てて左右に振り始めました。お春さんの所に来て、初めて喜んでいる仕草を見せたのです。
「チェリー、お座り!」
 お春さんはチェリーの目を見ながら命令しました。するとチェリーは素直にお座りをしたのです。
「チェリー、いいこだねえ。チェリー、お利口さんだよ」
 お春さんは優しく声を掛けながら、右手でチェリーの顔をなでました。チェリーはその手をぺろぺろとなめています。
「おばあちゃん、僕たち、そばに行ってもだいじょうぶ?」
 縁側から寛志が声を掛けました。
「チェリーはとってもいいこになったよ。だからだいじょうぶ。みんな一緒においで」
 お春さんがそう言うと、子供たちは喜んでやってきました。チェリーは子供たちが近づいてきても、吠えようとはしません。
「チェリー、いいこだよ」
 寛志が恐る恐る、右手でチェリーの頭をなでました。チェリーは素直にそれを受け入れています。
「チェリー、お利口さんだね」
 由紀も優しく声を掛けながら、チェリーをなで始めました。
「チェリー、いいこだぞ」
 光平がなでても、まったく問題ありません。
「わあい、やったあ。これでチェリーはずっとこの家にいてもだいじょうぶだ。お母さん、お母さん、出ておいでよ。チェリーの所においでよ」
 光平はうれしくてたまりません。そして大きな声でお母さんを呼びました。
「まあ、みんなそんなに近づいてだいじょうぶ?」
 縁側にやってきた杏奈は、心配そうにその様子を眺めています。
「ねえねえ、お母さんも早くおいでよ」
 由紀に促されて、杏奈は用心深くチェリーの背中をなでました。チェリーはみんなの手が触れてもいやな顔をせず、素直に喜んでいます。今までのいじけたような顔とは打って変わって、甘えるような顔をしています。
「うん、うん、チェリーはいいこだ、本当にいいこだよ。タローと同じくらいお利口さんだね。これからもずっといいこにしているんだよ」
 お春さんはそう言いながら、両手でチェリーの顔がくちゃくちゃになるほどなでました。
「クウン」
 チェリーはそれに答えるように、小さな声で鳴いたのでした。

がんばれ愛犬チェリー
 チェリーがお春さんの家に来てほぼ一年がたち、とてもお利口さんになりました。お座りや伏せ、待てはもちろんのこと、散歩のとき、お春さんの前には決して出ずに歩くつけ≠烽ナきるようになりました。チェリーはもともと頭のいい犬だったのです。
「チェリー、お前さんはお利口さんだね。私はとても幸せ者だよ。ありがとう」
 お春さんは散歩の後、縁側に腰掛けながらチェリーにそう話しかけるのでした。チェリーもうれしそうな顔をして、お春さんの足もとにちょこんと座っています。

 再び夏休みになりました。東京から三人の孫達がやってきました。三人はずいぶん成長し、重いリュックを背負って子供たちだけで電車に乗りやってきたのです。キャンプ気分でお盆までの三週間ほど滞在する予定です。
 由紀と光平は荷物を玄関に降ろすと、おばあちゃんにあいさつもせずに庭へ走って行きました。チェリーに会うためです。正月休みと春休みにも来ているので、子供たちはすっかり馴染んでいます。
「チェリー、元気だった? 会いたかったんだよ」
 由紀がそう声を掛けると、チェリーもしっぽを振りながら「キャキャン」と、うれしそうな鳴き声をあげています。
「チェリー、お利口さん、お利口さん」
 光平もそばにやってきて、両手で顔をくしゃくしゃになでています。
「由紀と光平は、おばあちゃんに会いに来たんじゃなくて、チェリーに会いに来たのかね?」
 お春さんも縁側にやってきて、わざと大げさに言いました。
「おばあちゃん、こんにちは。またお世話になりますが、よろしくお願いします。光平、由紀。お前らもおばあちゃんに、ちゃんとあいさつぐらいしろよ」
 寛志は長男らしくおばあさんにあいさつすると、弟と妹に偉そうなことを言いました。
「二人とも早く中にお入り。冷えたスイカがあるから、みんなで食べよう。すぐに手を洗っておいで」
 お春さんが声を掛けると
「わあい、スイカ、スイカ。私、もう喉がカラカラよ。チェリー、スイカ食べたら、みんなで一緒に散歩に行こうね」
 由紀は縁側に靴を脱ぎ捨てると、家の中に飛び込んできました。光平も後に続きます。
 スイカを食べながら、お春さんはチェリーがとても行儀よくなったことを子供たちに話しました。そして、口のまわりをびちゃびちゃに濡らしている由紀に向かって
「チェリーは、由紀よりもお利口さんになったかも知れんねえ。ほら、由紀、だめじゃないの、そんな行儀の悪いスイカの食べ方なんかして」と、つけ加えたのです。

「ああ、美味しかった。それじゃ、散歩に行こう」
 しばらくしてスイカを食べ終えた寛志が言いました。
「チェリーは私が連れて行くからね。お兄ちゃんはウンチ袋を持って来てよ」
 由紀が当然のことのように言いました。
「そんなこと、勝手に決めるなよ。ジャンケンだ」
「ジャンケン、ジャンケン」
 光平も言いました。  
「最初はグー、ジャンケンポン。アイコデショ。またアイコ」
 普段はひっそりとしているお春さんの家に、子供たちの明るい声が響きわたっています。チェリーのお陰で、こうして孫達が以前よりも増して訪ねてきてくれるので、お春さんは心の中で感謝しているのでした。

 子供たちが来てから三日目のことです。
「おばあちゃん、おばあちゃん。チェリーも行儀悪いよ。ほら、草の中に入ろうとして、私の言うことを聞かないよ」
 散歩の途中、引き綱を握っていた由紀が言いました。チェリーは由紀が必死で引っ張っても、がむしゃらに草の中に入ろうとしています。
「きっとその草むらの中に、何か光るものがあるんじゃろう。寛志、ちょっと見てくれんか」
 お春さんにそう言われた寛志は、少しけげんな顔をしながらも、生い茂った草の中をのぞき込みました。
「光るもの、光るものはどこかな・・・・・。あっ、あった、あった」
 寛志は、草むらの中から缶ジュースの空き缶を拾い出しました。
「なんだ、おばあちゃん、ただの空き缶じゃないの」
 光るものと聞いて、由紀は宝石のようなもっと特別なものを期待していたのです。
「確かに光るもには違いない。ほら、チェリー。これが欲しかったのか?」
 寛志は銀色に光るアルミ製の空き缶を、チェリーの口元に転がしました。チェリーは喜んで口にくわえると、空き缶で遊び始めました。
「最近の若い連中は、ジュースやコーヒーの空き缶を、簡単にポイポイ捨ててしまって困ったものじゃ」
 お春さんはため息混じりに言いました。お春さんが言うように、都会でも田舎でも、空き缶やペットボトルのポイ捨てが問題になっていました。ひどい人は、走っている車の窓からもまったく平気で捨てるのでした。
「でもどうしてチェリーは空き缶なんか欲しがるのかしら?」
 由紀は、空き缶を転がしながら遊んでいるチェリーを見ながら言いました。
「どうしたわけか、最近、チェリーは光るもので遊びたがる。とくに空き缶が好みのようじゃ。だから散歩のときは、変な癖がつかないように注意はしているんだがのう」
 お春さんはチェリーに悪い癖がつくのが心配でした。
「そうだ、おばあちゃん。僕にいい考えがあるよ。チェリーに空き缶を拾わせればいいんだ」
 寛志が大きな声で言いました。
「ほら、地震のときに救助犬が生き埋めになった人を見つけだして、大活躍しているだろう。あれと同じだよ。うん、空き缶拾いも絶対世の中の役に立つ」
 寛志にとっては、空き缶拾い犬≠ヘ救助犬≠ニ同じくらい、社会的な価値があるのです。
「ずいぶん立派なことを言うんだね」
 お春さんは、子供だと思っていた寛志が偉そうなことを言うので驚きました。
「お兄ちゃん。今度から散歩に出るとき、ウンチ袋のほかに、もう一つ袋を用意して、チェリーが空き缶を拾ったら持って帰ればいいんだよね」
 光平が兄の考えに賛成して言いました。
「チェリーのボランティアね。いい考えだわ。チェリーだって森本先生のボランティアで助けられたわけだし、おばあちゃん、やろう、やろう」
 ボランティア≠フ意味を理解できるようになった由紀が言いました。
「空き缶拾いをさせてもかまわないが、チェリーは光るものでないとだめなんだよ。汚れていたり、つぶれていたりしたらあまり興味を示さないから、うまく行くかどうかわからないねえ」
 お春さんは少し心配そうに言いました。
「おばあちゃん、チェリーは頭がよさそうだから、訓練すればだいじょうぶよ。訓練、訓練」
 由紀は気楽に言いました。そして
「訓練するには空き缶がいるわね。みんなでこのあたりの空き缶を拾って帰りましょう」
 と言いながら、近くの草むらを足でかき分けました。子供たちは家へ帰りしなに、まったく苦労することもなく、草むらや道路の側溝で十数個の空き缶を見つけたのでした。
 家に帰ると、さっそく空き缶拾いの訓練をすることにしました。
「チェリー、拾っておいで」
 寛志はピカピカに光る空き缶をチェリーの近くに転がしました。チェリーは喜んでそれをくわえました。そして寛志のもとに持ってきたのです。
「お利口さん、お利口さん」
 寛志は空き缶を受け取ると、両手でチェリーの顔をなでながら誉めました。
「今度はこれよ。チェリー、ちゃんと拾ってきなさい」
 由紀がひしゃげたコーヒーの空き缶を投げました。でもチェリーは見向きもしません。おばあさんが言うように、まったく興味を示さないのです。
「困ったわねえ」
 由紀はあきらめて、自分で投げた缶を拾いに行きました。
「今度は僕の番だ」
 光平はそう言うと、一番光る缶を選んでチェリーの近くに投げました。現金なチェリーは、光る缶なら喜んで口にくわえて持ってくるのでした。
「お兄ちゃんと光平。きれいな缶だけ選んで投げるのはずるいよ。それじゃ訓練にならないんだから」
 最初に訓練しようと言い出した由紀は、顔を膨らませて二人に抗議しました。
明くる日もその次の日も、子供たちは空き缶拾いの訓練を続けました。汚れた缶の中にチェリーの大好きなウインナーを差し込んだり、光る缶とつぶれた缶をテープでくっつけたり、いろいろ工夫もしました。頭のいいチェリーは、自分が何をしなければならないか、しだいにわかってきました。
「がんばれチェリー! そうそう、お利口さんよ」
 子供たちの真剣な声が庭に響いています。縁側からその様子を眺めながら、お春さんはタローを失ってからの一年間を振り返ってみて、チェリーを飼い始めたことを本当に幸せに思うのでした。
(チェリーには私が必要なんだ)
 森本先生から話を聞いたとき、そう思って飼い始めたチェリーでした。でも、今ではチェリーも、お春さんにとってはかけがいのない存在になっていたのでした。
(チェリー、がんばりなさい。子供たちのためにがんばりなさい。お前さんならきっと空き缶拾いができるようになるわ。私もがんばるからね)
 お春さんはチェリーの健気な仕草を見ながら、心の中でそう誓うのでした。
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